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Season2:ニュージーランドの家探し~短期移住6

2月1日。
1月に同居生活で経験したトラウマか、エヴァの家に暮らし始めても、私の心は落ち着かなかった。

ジョジョの奇妙な冒険ならぬ、わが家の奇妙な冒険fromニュージーランド



娘が、「ママが自殺する夢を見た」と言った。

私は、そんな夢を見させてごめんね、と謝った。
まだ、死なない。まだ死ねないし。

でも、頭の中では何度か、そういう思考が頭を遮った。
私さえ死ねば、万事うまくいくのかな、と考えた。
愚かだと十分わかっている。
でも、そうすることが幸せにつながるような気がした。


いつも怒っている主人の友達や、
イライラするエヴァは、
私が死んだら何かがスッキリするのかな。
それで、死んだら、怒らなくなるのかな、と考えては消え、考えては消えてった。


そういうわけで、エヴァの家でも、私は大変慎重にして暮らすのだが、私はまたもや、失敗を一つする。

この家は、エヴァとジョンがお互いに農場の家を行き来し、交互に管理していた。
エヴァの日が2日続くと、次にジョンがやって来た。

ジョンは口笛を吹いて家の中を歩くような人で、私は、この人がホストを担当したんだろう、と考えた。
エヴァはハーブの畑でタバコを吸う女性だったが、ジョンは掃除機をかける人だった。
それで、ジョンの滞在中、わが娘の入学式に備え、日本米を慣れないキッチンで調理した。

その際、こちらの強い火力で鍋を焦がし、うっかり鍋を台に置いたら、その台が少し焦げてしまった。
主人はこれくらい大丈夫、と言ったが、ジョンは一生懸命こすって綺麗にし、実際の所、傷が3か所できてしまった。

その日の夜も、結局のところ、私はひどく落ち込んで眠った。

ああ、神様ってちっとも私を楽にさせてくれない。
と私はなんで自分がこのニュージーランドでこんなに苦労を強いられるのか、分からなかった。

あれもこれも、神のなさること、
と聖書にあるが、あまりにも、安らげる時間が少ない。



ああ、神様、どうしましょう、どうしましょう。
ああ、神様、助けてください、助けてください、

そうやって過ごす日々は、2月になっても続いた。
そして、夜、お布団に入るときだけが、私にとってすべてを忘れられる瞬間であった。


by桜子



追伸:こぼれ話

日本にいる人が、「よく神様に文句を言わないですね」と、私を想ってくださって、「無理しないよう、正直であれ」と助言を下さった。けれども、私はこのブログをかなり赤裸々に書いていて、不思議と神様を恨んでいない。
※今のところ

たぶんこれは、私は若い時に、たくさん天に唾を吐いて過ごしたため、神を憎むことは人にとって最大の間違い、と知っているせいだと思う。
とか言って、この先もしも、神様を憎むことや悲しませることを書いたらごめんなさい。


woman carrying girl while showing smile

苦しいニュージーランド生活2

「ごめん、ママ、もう祈れない。代わりに祈ってくれる?」

娘はいつのまに成長したのか、私のために、心を込めた長い祈りをしてくれた。
この子が生まれたのは、私を助けるため。
そうとしか思えない瞬間だった。
どっちが親か分からない関係だが、私がどうしても苦しくて立てなくなった夜、それが自分を救う方法だった。



いつもの試練のレベルを超えている。
日ごとに、連続して、新しい苦しみが生まれる。
今まで味わったことのない試練の種類。
ここまでくると、どうやら、神様は私たちに何か言いたいのではないか?と考えざるを得ない。
嫌なことが終わらない、止まらない。
夫は「呪われている」と言った。

ああ、そうだよな、聖書を知らない人はこういうとき、お払いに行くんだよな、と私はぼんやり思った。


私は痩せたが、夫も痩せた。
彼もまた、胸を痛めて辛そうだった。
気が付けば、私たち家族は、家族だけの空間になると、いつも祈るのが常になっていった。



先週、パスポートの入ったバッグを失ったときは、さすがに思った。
これはもう、絶対に私のせいじゃない…!
「確実に」神が私たちをそのような環境に置かれた、と思った。

何のため?
主は私に何を語ろうとしている?

その翌日、アイススケート場で娘の指が、他人のアイススケートシューズにひかれた。
どちらかといえば運動神経が良い娘が、たまたま転倒して氷上に指を置いた途端、指をひかれる、なんて、こんな偶然あるだろうか?

病院を2か所廻って、緊急外科手術。
幸いなことは、指がちぎれたわけではなかったこと。
爪を完全にはがした。そうしなければ、と言う。
でも、爪なら髪の毛と同じように生えてくる、ということだった。


手術中に泣く娘を見るのは辛かったが、
娘はその前、病院から病院へと移動する時に、外の景色を眺めながら、
「主我を愛す」を歌い始める私に、
「・・・それ、英語の歌詞でなら知っている」とぽつり言い、Jesus loves me yes I know…を彼女が歌い始めた。

そうだね、ここニュージーランドだから、英語が良いね、と私は言って、
娘を抱き、車中で2人、慣れないこの曲を歌ったことを、私は生涯忘れないだろう。


私たち夫婦はけして英語が得意ではない。
それでも連日の苦難に、喋らなければ、伝えなければ、パスポートの話を警察と出来ないし、
娘の手術も2通りあることを判断できないし、決められなければ、次の病院にもいけない。

毎日、毎日、必死で生きてく。
そんな生活は、日本じゃ味わえなかったね、と、言って、
今回ずっとこんな暮らしをここでしている。


私は今週になってふと思った。
これは、私たち家族一人一人が、神様との関係を問われる、信仰の旅なんだ、ということを。

by桜子





faceless unhappy woman covering face

苦しいニュージーランド生活

人生はいつも、私たちに色んなことを教えてくれる。

私はNZに来て以来、キラキラのイメージと真逆の生活を、けして誇張でなく、送っている。
辛い日々は私にウクライナとロシアの戦争を思い起こさせる。
それより、はるかにましな環境にいることは間違いない。
だがしかし、これはいったい、何なんだ?

日ごとに胃が雑巾のようにしぼられる。
私はすこし痩せた。

人は苦しい時どうやって耐え忍んで乗り越えるんだっけ?




NZで同居生活をスタートさせてから、部屋にいても、会話が聞こえる。
そのため新年があけたのに、私は日本に電話をしていない。
しかし、皆がいなくなった時、私は父に電話し、辛い胸の内を告白した。

すると、


「ばかみたい!…ばっかみたい!!!」



「こういう(苦しい)時こそ、楽しまなくっちゃ!


もっと上から物ごとを捉えるんだよ。
 さて神様、これから私をいったい、どうされるのでしょうか?、と(聞きなさい)」


私は弱っていたから、ただひたすら父の声を耳にして、ああ、この人めちゃくちゃメンタル強いな、と思った。


しばらくして、ほかの日やっぱり心臓が苦しくて、今度は母に電話した。
私は言った。

「苦しい…」


すると、母は言った。

「厳しい言葉を言うようだけど、あなたが成長するチャンス。素晴らしい機会を頂いています。」

「良かったじゃない。あなた、いつもなんだか、”私は仕事してます”って感じで、威張ってるもの。自分が小さくされるために、素晴らしい恵みを頂いています」


私は絶句した。
辛い時だから、ふだんなら反論する私も、なめくじに塩。
偉ぶってるつもりはないけど、そう見えるなら、確かにそうなんだろう。


でもどうしたら変えられる?って思ったら、自分の努力じゃ、やっぱり変えられない。
謙遜になるように、砕かれなければ…と、いくら唱えてもなれるもんじゃなし。
やっぱり必要な痛みなんだろうなあと素直に納得した。
それでも、

やっぱり苦しい。
何が苦しいって、書きたいけど書かぬ。
結局は、私たちクリスチャンは口を閉ざさなければならない。
ごくごく親しい人にはその心を吐露してもいいだろう。
でもできれば、それさえなくした方がいい。

悪い言葉を一切口から出さないこと。
それが神が私たちに求めていることだ、と私は分かった。


1月21日日々の光「朝」より===

患難さえも喜んでいます。
それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、
練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。



訓練と思って耐え忍びなさい。
神はあなたがたを子として扱っておられるのです。

父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、
ほんとうの子ではないのです。


すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが
後になると、これによって訓練された人々に平安な義のみを結ばせます。
ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。


by桜子



news inscription on neon signboard hanging on street

私の重大ニュース2022年

オープンダイアローグとは何か?
オープンダイアローグは、どのようにして人のこころを助けるのか?
対話の実践者になるとは、どういうことなのか?(中略)

2015年の秋、私はフィンランドへ行ってケロプダス病院を見学した。
そして、この病院がオープンダイアローグを一日で誕生させたように、私もすぐに自分たちのクリニックに取り入れようと、帰国した翌日…から、これを始めた。(「感じるオープンダイアローグ」森川すいめい著)

clouds



 今朝、障子を開けたら、窓の向こうに見える朝日と雲のミルフィーユがひどく美しかった。
都会に住んでいると、自然と無縁に思うが、高い所にある空だけは、いつも居住地を忘れさせてくれる。

(ああ、渋谷からも空は美しいんだよな…)


 私は海外旅行が好きだ。3日後、飛行機に乗って、4日後には違う国の空を見る。
だから、これから出会う景色にたくさん感動するだろうが、この渋谷の空の美しさもしっかり覚えておこう、と思った。


 毎年いつも、クリスマスを過ぎると、慌ただしい。この5年間、いろんな形でクリスマス会が与えられた。どの年も、その時々の感動と喜びがあるのは、神ご自身が、自分の会として、すべてをデザインされることに拠るだろう。
 

 そうして、2022年を振り返るとき、私の重大ニュースは、”「与えられた人生をしっかり生きよう」と思えたこと”だ。

1.オープンダイアローグに出会った
2.自分が生きている意味がわかった
3.生活が変わった

自分革命なので、このことは忘備録として書いておく。

先々続いていくのか、正直分からない。が、もう二度と、立ち止まりたくない、と思っている。とはいえ、愛する人を失ったときに、同じ思いで走れるかと聞かれたら、全く自信はない。

人は複雑だ。
でも、私は今の思いを大切にして、どこまでいけるか試してみたい。 

神のなさることは、すべて時にかなって美しい (伝道者の書3:11)



今年も一年、ありがとうございました。
また、ブログを読んでくださる希少な方に、本当にお礼を一軒づつ回って言いたいのですけど、
訪問先を間違えたら恥ずかしいので、やめときます。
でも、とっても感謝してます。


神様のお守りがお1人、お1人の上に豊かにありますように。
そして辛い時、苦しい時、独りぼっちに思えても、神がいるのかもしれない、と考えてみてください。
文末に、聖書の言葉をご紹介します。

by桜子



わたしを呼べ。
そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう
(エレミヤ33:3)






 

stress handwritten text on white printer paper

わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう

今朝は、冒頭から聖書のことばを送る。

先週金曜から昨日までの四日、日本は激動で、私はちょっと疲れた。
安倍元総理の銃撃は自分だけが悲しいのかと思ったら、日本全体が悼んでいて、影響の大きさと、愛され具合を、失って初めて知った感がある。そして7/11参議院選挙の自民圧勝。その裏で、元タレント今井絵理子再選や、生稲晃子当選の是非↓


さらには、暴露系YouTuberのガーシーが、ドバイにいながら当選、という報に、私は目を白黒するばかりだ。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」マタイ11:28

 聖書の有名な箇所について、あるメルマガのコラムを今日はご紹介。
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現代はストレスの時代と言われているが、私たちも無意識にもストレスを受けているものだ。学生は勉強が、会社員は仕事が、職場での対人関係が、主婦は家事がストレスだろうか。又、悩みや困難を抱えると大きなストレスとなる。どうする事も出来ない悩みを抱える時、身体まで壊してしまう。

重荷に苦しむのは、重くて担いきれないからだ。対処できる荷なら、重荷とならない。人生で時にこの重荷を経験する。そのような中、主が、「すべて」「重荷を負っている人は」「わたしのところに来なさい」と言って下さるのは、何と良い知らせだろう。

「わたしがあなたを休ませてあげます」と。数え切れない人々が主のもとへ行き、その通りに休ませて頂いた。ある人が、突如の重い病の発覚。ショックで途方に暮れた。茫然自失で、どうして良いかわからない、なすすべの無い中、「わたしのところへ来なさい」との主の言葉に、祈りに持って行こうと、主のもとへ行った。

ポツリポツリと、暗い心の内を告げ、大きな不安や恐れを、あるがまま告げて行った。心を打ち明け、注ぎ出し、主に助けを求めて祈っていると、不思議に、あんなに押しつぶされそうだった心が、落ちついて来て、自分でも驚いた。そしてこの事を、主に明け渡して、すべてお委ねした。

主にすべて知って頂き、受け止めて頂いた事で、心が落ち着いた。
そうしていると、色々な情報があちこちから寄せられ、良い医師と出会いがあり、治療の道筋が導かれて行った。共に負って下さる主と共に、治療に向き合える幸いに心から感謝した。
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主に委ねたつもりでも次々と新しい不安が来る。不安に心が安まらないと主は遠くに思えてしまうが、実は今こそ主と最も近い。傍にいて聞いてくださる主に、何度も訴え少しずつ重荷を渡していこう。
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引用元:【日々のことば】  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係り(※私とこの団体は何の関係もありません)

今日も疲れすぎない一日を

by桜子

アンジャッシュ渡部の復帰賛否両論とイエスキリスト

 「ねえねえ、渡部建の復帰、あなたは応援派それとも、否定派?!」

 私は、お笑いに疎く、アンジャッシュのコンビ名も、児島と言う相方も、知らなかった。が、一連の不倫騒動で、「渡部建」をよく学習し、すっかり関心を持つようになった。そして2月15日に、彼が千葉テレビで芸能界復帰を果たす報道を聞き、私は先週、夫に聞いた。が、どうでもいい、の一言で終わった。ごもっとも…。

 スナック菓子は身体に悪いと分かっていても、つい食べてしまうように、私はこのニュースが流れるたびハマって読み、日本中が彼を嫌っているように感じさせるネットの破壊力に恐怖を覚えた。私は彼の友達でもないが、同情した。この手の、誰かを批判するネットニュースを読むたびに、思い出す新約聖書の言葉がある。

 「あなた方の中で罪を犯したことのない者が最初の石を投げなさい。」

 これは姦淫の罪を犯した女性を「石打ちにすべきか?」とイエスに周囲が尋ねた時、イエスが返したセリフだ。「あなた方のうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

 結局、年長者から始まって一人また一人とその場を立ち去っていき、誰も女に石を投げなかった。ひとり残された女はイエスにこう聞かれる。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

 「だれもいません。」

 イエスは言った。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」


 今から決して罪を犯すな、という神の言葉は厳しい。
が、神の子のイエスは当然、人がその後に罪を犯すことは熟知していた。

 聖書では「罪」というのは心の中で感じた悪いこと、たとえば妬み、嫉み、憎しみも、罪であり、姦淫の罪と、心で感じた悪い思いを比べると、神の目から見たら同じ、ということだ。
 だから、聖書では、罪の贖い主である神の子イエスキリストを心に受け入れて人よ生きよ、と言っている。

 そんなことはおそらく知らないであろうお笑いの松本人志が、フジテレビの番組ワイドナショーで渡部建の復帰について語った記事が面白かった。

「もう二度とやりませんなんて、ここでうそついたら駄目やで」by松本

中スポ2月13日記事を抜粋する。

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復帰作となる千葉テレビのバラエティー番組「白黒アンジャッシュ」の収録に、相方の児嶋一哉(49)とともにスーツ姿で臨んだことなどが紹介されると、松本は
「ちょっとなんかもう堅すぎるから、もう少し柔らかく。絶対またやるし。絶対やるんですよ。絶対やる。本人が反省とか、二度とこんなこととか、言えへん方がええねん。またやってしまうと思うんですが、こんな僕を見続けてくださいってね。
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私は人間の本質を良く表したコメントだな、と目を留めた。


 私を含め、あの人はひどい、この人はおかしい、とつい言ってしまう、人の性(サガ)。
人を裁く権利や資格をもつ者は、誰も本当はいないことは明らかだが、どうして私たちは批判したり、裁いたり、叱ったりして、誰かを攻撃してしまうのだろう?

 一人の人が罪を犯すことになった背景にある社会的責任は、社会のすべての人にあることをも意味しています。
と何処かの記事に書いてあった。

 そういうわけで、私はどちらかといえば応援派。辛いことを経験したからこそ学んだ糧をバネに、渡部建には何か良いことを発信する、苦難を知り、神様を賛美する人になってもらいたいと思っている。


by桜子



 
  

クリスマスイブ、決戦の金曜日

(起きるにはまだ早すぎる・・・)と目を閉じたまま、もう少し眠ろうと考えた。

 が、今日これからのことを考えると、目が覚めた。私の頭の中には、次々に色んな人たちが浮かんでは消えていた。

 今日はクリスマスイブで、夜には娘の友達が出演するミュージカルのイブ礼拝もあるし、21時にはその一人がわが家へ泊まりに来る。そして明日は3家族旅行と、楽しみがてんこ盛りだ。

 しかし、頭が冴えた理由はそれではない。今日が娘の最終登校日だからだ。24日がXデーになったらすごいな、とは思ったが、まさかそうなるとは神様の愛なのか。

 赤いランドセルを背負って、張り切って小学校へ行った日から、今に至るまでの約4年、考えられなかった、数多くのことを経験してきた。極上の経験も、沢山あった。

 「意外とブログ読んでいる人いるわよ」

と近所のお母さんに声をかけられたので、詳細は割愛しよう。

ただ、私にとって、今日という日は大きい。感謝しつつ、足の塵を払って出たいと考えている。


 人生の岐路に人が立つ時、私たちは多いに迷う。私は、自分の鍛錬不足なのか、幾ら祈っても答えは得られなかった。それで、ある朝、突然主人が判断した。


「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」イザヤ30:21

 
 道が仮に間違っていても、主はけして私たち一人一人を見放さない。この真実を胸に、今日も歩む。

by桜子

毎日わが子を褒めてますか?

 小学生の娘がいる。私は親たるもの、わが子への評価はすべて控えめであれ、と、人前でわが子を褒めることは殆どしなかった。親バカはみっともない、と思った日本人ならではのメンタリティーゆえである。
 だが3年前の夏、子供キャンプのバスで移動中に、10以上年下の幼稚園先生から、こう説かれた。

「親が、わが子を世界一可愛い!!って言わないで、いったい誰が言うの?!」
「もーっ、たっくさん、可愛い、可愛いって、子どもを褒めて抱きしめてください!」

 私はけっこうビックリして、「え?!そうなの?そんなことしていいの?」と返したが、「当たり前です!」と彼女が胸をはったので、私は方針転換した。

未だにそのことを覚えているので、私にとって、相当衝撃だったのだと思う。

 というのは、今日、娘をぼんやり眺めながら、ある感情が沸き上がったので、その会話を思い出したのだ。


 

 かわいいなあ。

 
 わが子をそう思っている自分にギョッとした。余裕がある自分にも驚いたし、親として人並みに慈しむ気持ちがあることにも感動した。こんな私にも、聖母みたいな感情がちゃんとあるじゃない?
 
 目の前の娘は、まだまだ、小さな顔と細い腕で、まるで人形のよう。そんな子が、毎日、自分の頭で考えて、自分の足で、学校に一人で行く、そう思うと感動した。

・・・。


 無言で見ていると、娘と目が合った。彼女は、なんだ?とでもいう顔をして、無言で私を見るので、ニッっと私は笑った。

(わが子よ、母はお前にみとれていたのだ・・・)

 子供と言えど、よく生きている、と褒めてやりたい。学校は必ずしも楽園ではないからだ。

 時々、自分と娘を比べる。

 私は会社を選んだが、娘は学校を選んでない。
 私は会社が嫌なら辞めればいい。が、娘は嫌でも行かなくてはならない。
 私はお喋りする同僚を何百人から選べるが、娘は僅かばかりのクラスメイトからしか選べない。

 娘の方が、逃げ場がない。そんな世界で、子どもは実によく頑張っている、と私は思う。
 本当に、よくやっている。
 
 

 いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
(箴言3:3)


いと悲し、3度目の緊急事態宣言発令

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(聖書・イザヤ書40章8節)

太陽がまぶしく、木々や花々が美しい新緑の季節になった。私たちの混乱など、どこ吹く風のように、自然は素晴らしく地球は廻り続けている。

緊急事態宣言の発令が、3度目になった。2回目はいつだったか忘れてしまったが(※)、初回の緊急事態宣言の衝撃には及ばない、と思っていた。あれこそ、今でしょ!と思うほど、今回の目玉は「飲食店での酒類一斉禁止」がめぼしいだけ、と思っていた。が、さにあらず。ジワリジワリと、発表外の施設も封鎖が続き、東京都の要請力の強さを見せつけている。
※202118日~321日が2回目

スーパー「ライフ」のチラシだけ自粛に便乗して①国民への通知②印刷代削減にみえる。私だけ?

「ダイソー(渋谷の新名所が上陸⁈ダイソー旗艦店スタンダードプロダクトがキタ)も休みなのね。。。」

と、昨日うちに来たピアノの先生が、レッスン中にもかかわらず、2回も娘に繰り返して呟いた。ダイソーは先生にとって大事な場所だったらしい。
 

 一方、私がショックを受けたのは、何の連絡もなかったGWの子ども旅行が中止、と昨夜遅くに連絡を受けたことだった。なぜ、もっと早くそれを教えてくれぬー?!荷造りしていた私はひどく落胆し、動物好きな娘もまた、同じようだった。

だがその夜、一日の感謝の祈りをするとき、娘自身が、

「神さまの、他の計画が待っていると思うのでよろしくお願いします」

と祈ったので、ドキンとした…!

口では「神さまのお導きだねー」と娘を慰めていたが、私にそういう発想はなかった。聞きながら、(そっかあ…)と娘の、若くして、すでに生活の中心に神様を置く態度に、私は目を留めた。私の方が信仰歴もはるかに長く、大人であるのに、まったく手本にならぬ。

いっそ、犬でも飼っちゃう??

と、寝床につく寸前まで、娘のGWをどう充実させるか躍起になっていた。友達に連絡し、グランピングも3か所調べた。が、どれも満席、受付停止、であった。ああ、私のとる行動は、どうしていつもこの世的だろう!


新型コロナウィルスが発生して1年余、私たちが学んだことは何だろう?

 私にとっては、神の存在が大きくなった一年だった。信頼していた各国のリーダーも、しょせんはただの人であることを、まざまざと知った。政治家も国も頼れない、という状況になって、自分の身は自分で守るしかない、と感じた。私の場合、これに、神様への祈りが大いに加わる。前述の通り、身の程は分かっているからだ。

 この世に神などいない、と言う人に、これまでたくさん出会ってきた。が、私はこんな言葉が聖書にあることを、知ってもらいたい。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」
マタイ6:33

 「これらのもの」とは、聖書の前文を読むと、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」という、生活上の種々の心配事(経済的必要、対人関係の悩み、健康上の不安、仕事の問題等)を指していることが分かる。つまり、神様を一番にもってくれば、これらのものは満たされる、と言っている。

 神を信じる、というと、清貧にならなくちゃ、とか、キリスト教に入信とか、生き方を改めなくてはならない負担が重くのしかかってくるイメージがあるが、聖書で言っていることは、実にシンプルだ。
 
 「俺は神」でなく、神こそ神、と「神がいて、生かされている私」に感謝して生きよ、と言っているだけなのだ。つまり、心の問題だけなのだ。

 不確かな時代の確かな歩みに、神なくしてわが人生なし、というのが、コロナで私が学んだことだ。伝わりにくいかもしれないが、「もし神様がいるとしたら、私が信じられるようにして」というところから、心を開いてみてほしい。
何を隠そう、私自身も、そのようなところから、神を信じる道への第一歩を始めた1人なのだから。

2021年の幕開けは死と共に

新しい一年が始まり、お正月の三が日は、空がよく晴れていた。 「お正月らしいね」と、私は夫に話しかけながら、近所の慣れた道を一緒に歩いた。 今年は、日本の誰もが海外に行かず、静かに過ごす、稀有な年末年始。 世界の大波乱をみればみるほど、空がまぶしく、自然の美しさは際立って見える。 青い空だけは、昨日も、今日も、いつまでも同じ。 空を見るたびいつも思い出すことは、神様は、善人にも悪人にも等しく天の恵みを降り注ぐ、という事実。 そんなことを考える一方で、私の心は鬱屈とした思いを抱えていた。 あんなに友と祈りあって神様を身近に感じていたのに、年末になって祈る機会が減ったせいか、あるいは肉体の疲れか、どうともいえない不満が、山ほどこみあげてきて、私の心は最悪であった。 だが、そんな私を起こすかのように、年明けに、目を覚ましなさい、という連絡がいくつも入ってきた。ポツリ、ポツリ、と訃報の知らせを受けたのだ。 ・去年入院し、いつ亡くなっても不思議ではない、と言っていた、友達のお父さん。 ・私の結婚式で、来客用のクッキーを焼いてくださった井之頭公園のT夫人。 ・バンコクで知り合って以来、家族ぐるみで仲良くしてくれたMさん。 人の死は、私たちの生き方を問うものである。 死に直面すると、すべての不満が、吹っ飛んでいく。 人間だれしも死ぬ、と分かっているのに、誰もが死を、それはまだもう少し先の話、と捉えている。だから、急にそれが目の前に飛んでくると、死が輪郭を帯びて私たちに迫ってくる。 “あなたは、今を大事に生きてますか?” 故人との思い出は、走馬灯のように蘇る。残された私たちが、故人を失って最も苦しくなるのは、“あの頃には、もう二度と戻れない”、と認識した瞬間だ。 真っ逆さまに、奈落の底に落ちる。共に過ごした時間を、一緒に笑い、語り合う相手は、もう隣にいない。喉元をかきむしられるような、深い痛みがそこにある。 私にとって家族ぐるみで仲良くしてくれたMさんの死は特に、私にとって辛かった。 知らせを受けた夜、ベッドで寝られるつもりだったが、入ると彼の顔や声が聞こえてきて、瞼がじんわりと重たくなってくる。 仕方がないので、リビングにいる夫に頼み、背中をさすってもらい、しばらくそばにいてもらう。 その夜、夢の中で誰かが出てきて、私は、「助けて」、と一生懸命に声を出すが、声が出ない。 声を出さないと死ぬ、と思って、絞り出すように「助けて、、、」と言ったとたん、夫が私の手を握り締めた。 後で聞くと、なんていったかわからないけど、呻いていた、という。 そこにはもう、年末の不満はどこへやら、夫の存在に、ただ感謝であった。 私はこの人を今、神さまにとられたら本当に困る。 夫に暮れの態度をいちいち、謝ることなどしなかったが、 少なくとも、神さまが年末の態度は誤りだと私に教えていた。 死は勝利に飲み込まれた。 わたし(=神さま)の恵みはあなたに充分である。(聖書) 今年も今をしっかり生きたい。