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white flush door

誰にでも与えられている扉

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。(ルカの福音書18:1)


夏休み、私は経営者の友人と、渋谷のVIRONで再会を果たした。
彼女は好調だった事業がコロナで危うくなった経験から、第2の経営の柱のために、医療の猛勉強中だった。看護や医療に疎い私は、話に満足して帰宅した。



その夜、珍しく独り暮らしの義母(84歳)から夫に電話がかかって来た。


「もしもし、今、私、病院にいるの。転んじゃって。
 でも、なんともないから。
 だけどもう夜遅いし、足も痛いから、病院に泊まらせてって頼んだとこなの。」



結局、のちにこれが、大腿骨頸部(だいたいこつけいぶ)骨折、であって、
当直医師は「何ともない」とレントゲン診断をしたが、実際は翌日に念のためとCT撮影をしたら大事であった。
義母の「頼むから、ちょっと泊まらせてよ」というお願いは、功を成していた。

だがしかし、そもそも、なぜ転んだのか。
聞くと、たまげる話が満載だった。


友人のお見舞いと病院へ出かけた義母が、帰りのバスで、運転手さんに呼び止められた。
高齢者乗車券の不正を疑われ、そのアナウンスに驚いた母は、ちょうど下車途中だった。
振り返った瞬間、階段でバランスを崩した。
ゴロンゴロンと、地面に落ちて、動けなくなったと言う。

しかし、ここからが凄い。
横たわった母を、運転手さんらはバスに乗せた。そして全乗客を降ろすと、病院まで救急搬送。
大型バスが、病院まで一直線。嘘みたいだが、ホントのようだ。


で、義母の話に戻る。骨折後、すぐに手術が必要ということで、私は聞きなれない医療情報に混乱した。そこで、VIRONの女友達を思い出し、連絡すると、手術の詳細や、注意すべきポイントを一切合切、教えてもらった。彼女とのお喋りさえ、「主の山に備えあり(創世記22:14)」であった。

84歳の彼女は、

・寝たきり
・合併症

の可能性があると宣言され、私は途方に暮れた。
今後の生活はもちろんだが、
それ以前に、入院中、遠方にいる義母が、誰からもケアされず呆けてしまわないか。
寂しさに潰されないか。

祈るしかない、と思った。
その上で、出来ると思うことは試みた。
義母の住む地域に、クリスチャンの姉妹方が数名いたため、思い切って祈った後に連絡をした。
が、残念ながら、誰も繋がることはなかった。
そのため、私はご縁があった人には祈りをお願いした。
幸い、
母は祈られることに全く抵抗がなく、後にそれを伝えると、「祈ってくれるの?うれしい!」と素直に喜んだ。


そもそも義母は、身寄りが私たち家族しかいない。
クリスチャンの友達もいない。
難病だった義父が召されてから、引っ越しをしたため、周囲に友達が少し居る程度である。





だがしかし、主の御名は、ほむべきかな。





一か月半が経ち、義母は無事に、退院したのである。
健康的な食生活のお陰で、少しスリムになって健康的にすら私には見えた。


私は今回、義母の入院で、彼女の人柄を改めて知り、どういう余生を望んでいるかを知った。
今の所、うちに来たい気持ちはないという。
退院した夜、義母に電話すると、声が弾んでいた。


「家はやっぱりいいねえー。今日は、夜更かししようと思って(笑)。
9時半消灯だったから、テレビがいつも、いいところで消されちゃうの。
今日はね、11時まで夜更かしするから…(はあと)」



いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
(ルカの福音書18:1)




「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために」のくだりを読んで、
私はたとえ話でなく、実際に起こった、わが家の出来事を本日はシェアしてみました。



ですから、皆さん。元気を出しなさい。(使徒27:25)


誰もが明日に不安を抱える今日です。
でも、誰も明日のことは分からない。

どうぞ、今日もお1人、お1人が、希望の扉を開けられますように!


by桜子

主の山に備えあり

神はすべてを事前に、計画している。

mountain ranges covered in snow
Photo by Denis Linine on Pexels.com


 私たちはあれこれ悩み、未来を考える。が、神は、人の考えるそれよりずっと遥か前に、あらかじめ全てを究極的に支配し、結果を決めているという。聖書にそんな文章はないけれど、聖書全体を読めば、その事実がよく分かる。

そう聞いて、私はこう思った。


 なーんだ、それなら、あれこれ考えても意味ないじゃん。


 神は、人間を“神の似姿に創った”(創世記1:26)が、すべてを支配する神が一つだけ支配権を行使しないと人間に創った場所がある。それが、人の心。

 なぜそんな厄介なことをしたのか、それが神の愛なのか、凡人には全く理解できないが、これこそ神の不思議があり、私たち人間の、神を信じる、信じない問題がある。その判断と決意は、すべての人に任せられている。

 私は何年も前から、「信じ」ている。
 だけど、信じても山あり、山あり、山ありで、苦しいことばっかりあるなあ、辛いなあ、こんなに辛いなら、早く天国に行きたいなあと、絶望ばかりだった。(※独身時代)
 
 だけどここ数年分かったことは、信じているからOK、ではなくて、「1000%疑わずに朝から晩まで一点の曇りなく絶えず信じ続け、理不尽なことがあっても神にいつもYES!と言い続けられる状態」こそ、神が私たちに問いかける、本当の「信じる」の意味であった。

 そんな奥深いものと知らずに、信じる道へ進んだ私は、なかなか波乱万丈だった。が、今思うと、私のその時の態度は、信じきっていなかったんだろなあと思い至る所があり、それで私は試練が多かったのかなとも思う。
 もし私がいつもYESと言い続けていたら、もっと早く主人に出会えていただろうか。今となっては、検証するすべもないが。


 そういうわけで、いまだに山はたくさんあるが、慰め(喜び)も沢山もらっていて、今はいつもぶっ倒れる、ギリギリの所を神に絶えず通らされて、あなたは私を信じますか?と、問われているように思う。

 

主の山に備えありーー神はすべてを事前に、計画している。

先日うちに来た、A男のお泊りも、まさにそれだった。
私は、男子をうちに積極的に泊めさせていないが、そうするように自然と導かれて、私はA男をわが家に招き入れた。結果として、彼が来たことは神が計画したものだった、ということを味わう結果となった。

詳細をかけないのが残念だが、私は感動し、神の計画に乗る、というのは、なんと自分に無理がなくて、気持ちのよいものだろうと思った。そして、自分で頑張ることや、○○はしない、と決めるのはさほど重要でないな、と知った。


若い頃、何度聞いても分からなかった、信仰を持ったら、「頑張らなくていい」というセリフは、意味がまるで分からなかった。たが、「頑張らなくていい」というのは、こういうことなのかな、とちょっと分かった境地にいる、今夜の私だ。

by桜子