今日、伝えたいことが1つある。
それは沢山の種類の神の中、主イエス・キリスト「だけ」に出来ることは何か、という話。
前置きが長いと、ここで読まなくなる人がいる。
だから一気に結論を書く。それは、
「死の解決」
である。
人の目にはまっすぐに見える道がある。
その道の終わりは死の道である。
笑うときにも心は痛み、
終わりには喜びが悲しみとなる。(箴言14章12,13節)
聖書を信じるメリットは、死の問題からの解放だ。
聖書によれば、イエスキリストを信じると、死んでも生きる、とある。
私はよみがえりです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。(聖書)
死んで生きるってどういうこと?いやいや、人間、死んだら無でしょ、と思う人も多いだろう。
聖書はさらに、続く。
次のように書いてあります。
キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、
罪の許しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
(ルカ24:46,47)
罪は、的外れ、という意味だ。
神様を知らない人生は、的が外れているんだよ、と聖書は伝えていて、
ひとりひとり、神様と共に歩んで、的外れを悔い改めて、神と共に歩んで、と言っている。
死んで蘇るなんて、あり得ないと思うけれど、もし神なら、あり得るよね?!
だって、
神にとって不可能なことは一つもありません。(ルカ1:37)
そう書いてあるから。
目に見えない神様なんて、信じられない!
私は10代の頃、そう思って、神様がいるなら、目の前に出て来て!と何度も祈った。
その答えもまた、聖書に書いてある。
イエスは彼に言われた。
『あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』
(ヨハネ20:29)
見ずに信じられない者ですよ、私は…!などと言ってた私が、信じるようになった。
これもまた、神がなした一つの奇跡。
私は今、当たり前のように、イエスキリストとブログに書いているけど、
それをここに書いて、ひいてしまう読者の気持ちもよく分かる一人である。
かつて、聖書を否んで、たぶん多くの人が否んだり、疑ったりして、信じるようになった人たちなのではないかと思う。(※子供以外)
20年続いた、私のブログと、次の聖書の御言葉、について、ちょっと考えた。
私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。(詩編16:8)
振り返ると、聖書の御言葉(みことば)を、右に載せて、20年ゆらぎっぱなし。
お手本にならない話をたくさん、赤裸々に載せてきて、正直消したくもなるけど、
色々考えた末、削除しないでいる。
立派な人じゃなくても、
ダメダメな人でも、
神様は共にいてくださる。
こんな私が今でも神様を信じていることこそ、証といえるのかもしれない。
主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(聖書)
これからも神様を賛美し続けられるか自信はまったくないけれど、
いつ自分もイエスを裏切るユダになるか分からないけれど、
今日の最後にこの御言葉を紹介して、終わる。
イエス・キリストは、
きのうもきょうも、いつまでも、同じです。
(ヘブル13:8)
わたしの目にはあなたは高価で貴い。
わたしはあなたを愛している。
(聖書)
今日、あなたが神様を信じる日となりますように!
by桜子