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sakurako について

Sakurako,a business working woman who live in Shibuya,Tokyo.

ステイホームでも外国気分・ナショナル麻布で買い物

子供が赤ちゃんの頃は、よく来た広尾。

久しぶりに通りかかったので覗きに寄った。

15分なら駐車無料。2,000円以上買えば、1時間駐車無料。

店内はやっぱり外国人率高かった〜。皆さん、どういう人だろ?

夫と、ふだん買わないものを選ぼう、ということで、今夜の夕飯に、外国パッケージのチーズやデカデカのマフィン、クスクスに、シンガポールチキンなどの惣菜をチョイス。

家に帰ったら、ボジョレーでゆっくり食べよー!

今夜は、子供は友達の家でお泊まりなり。

お二階の雑貨

急いで帰らなくても良し。海外グッズをチラ見。

外に出たらポインセチアが綺麗。

もうすぐクリスマスである。

銀座にやってきたよ

静かな銀座

約一か月ぶりの出勤に合わせ、今日の午後は半休して銀座へ。

社会人になってからの職場、銀座に来ると、やっぱり清々しい感じ。

でも、あの頃にはなかった、マツキヨやサンドラッグの店舗がチラホラ…。

吉野家だけは昔から四丁目にあったけど、今もあるのかな?

と、思ったら、あった!

なんだか、うれしい。

あのママ友は私のことがキライ

「あのね、あのママ友は、私のことがキライだと思うの。」

と、ランチを食べている最中、目の前のママ友が、言いにくそうに私に言った。

「え?」

私が怪訝な顔をすると、「今日(彼女が)ここに来ないのも、私のことがキライだからだと思うの」と神妙に言う。

「いやいや、そんなはずはないよ。」

と私は否定したが、彼女はキッパリ否定した。
「そう考えると合点がいくことが今まで何度もあったの」

つまり、この日は当初、ママ友3人でランチすることになっていた。が、約束したのは2週間も前だ。詳しくは前日に、というユルい約束であったため、前日、主催者のママと私は連絡を取り合って待ち合わせ場所を決めていったが、もう一人のママ友への連絡がどうなっているかが私は気になって「連絡しなくていいか?」と彼女に聞いたが、返信がなかった(ので、そのままにした)という状況だった。

「私たち、仲良く思われているけど、実は彼女とはそんなに仲良くないの」と、彼女は困った顔をしてみせた。

「そうなんだ、へー、知らなかった…。」と返事しつつ、私は彼女の方が、もう一人のママより、もっと知らない人だった。私は、もう一人のママを知っているつもりだったから、「あの人は、そういう人じゃないよ。何か不都合だったんだろう、と思うよ」と進言したが、却下された。

だが、その時、タイミングよく、私の携帯にLINEの通知が来た。彼女が、グループ宛に送った内容で、私たち宛ではなかったが、「金曜から忙しすぎて寝込んでる。今日は家でダウン!!」とあった。

・・・ほらね、ほらね!!

あなたの思い込みだよ、と私は彼女にすぐさま、容態を伝えたが、彼女は納得できない顔をして黙っていた。
その様子を見ていたら、私の脳裏に、にわかに聖書の言葉が浮かんできた。

罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている(創世記4章7節)

彼女はクリスチャンで、もう一人のママ友もクリスチャンなのだが、こういう展開になってしまったのである。
2人が仲たがいして一番喜ぶのは、サタンであろう。
そもそも、最初に彼女は、「あのママ友は、私のことがキライだと思うの。」と、当初、推測で発言していたのに、いつから確信に変わってしまったんだろう?

それはまるで、蛇がそそのかして、エヴァに善悪の知識の果実を食べさせたように、
蛇がそそのかして、彼女にママ友はあなたのことがキライなんだよ、と思い込ませているようだった。

私がいくら言っても、一度作ってしまった固定概念を捨てるのは、彼女には難しそうだった。
私は観念して、叫んだ。

「百歩譲って、彼女があなたのことをキライだったとしても、だから何?!
人を見ない方がいいよ!人を見たら(信仰は)つまづくよ。私だって、信用しちゃだめだよ。信用できるのは神さまだけだよ!」

自分が通ってきた道だからこそ、分かる。
そして、彼女の発想は、私にもありがちな発想だから、よく分かる。
一度悪い方に思い込むと、それが、その通りであるかのようにだんだん思えてきてしまう、という現象だ。

夫はよく、「ニュートラルに物事を見ろ」と言うが、先入観を捨てて相手を見るのは実に難しい。
好きな人が行う行動は、好ましく見えるし、苦手な人が行う行動は、すべて穿って見てしまう。

だが、イエスキリストだけは、昨日も今日もいつまでも同じである。
その神様が、私たちと共にある。
邪念を捨てて、目の前にある事実だけを受け取るのである。

言うは易し、行うは難し。

それでも、創世記4章7節は続きがある。

「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである

いつも治める人間でありたいものである。

朝ごはんドラゴンフルーツ

昨日、実家で持っていけ、と言われて、それなら、と大して喜びもせず、持って帰ったドラゴンフルーツ。

食べたら、美味しい。

栄養価はなんだろう?と調べたら抗酸化作用抜群のスーパーフードで、一番甘味が強い、レッドタピアだった。

抗酸化!アンチエイジング!

お父さん、お母さん、ありがとう!!

人間が創造された目的

神は仰せられた。

「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」-創世記1:26

9月に入ってから創世記を学んでいる
これが、たまらなく面白い!
 
 私にとって、聖書とは、小学生から知っているもので、「創世記」は、聖書を開くと最初に出てくる章である。
「初めに、神が天と地を創造した」は、最も有名なフレーズの一つだろう。子供向けの絵本もたくさん出ているから、聖書を知らない人でも創世記辺りの内容は、理解している人が多い。俳優の織田裕二も先日、NHKのBS番組ヒューマニエンスで、「アダムとエバ」と喋っていて、私などは、おお、織田裕二も知っている!とひそかに驚いたが(失礼)、同様に私自身、知っとるわい、とたかをくくっている章だ。だが、学びを始めて、気づいた。本当の意味で、私は、創世記の本質を掴んでいなかったのだ。

 学びのグループ(BSF:バイブルスタディーフェローシップ)内で、こんな設問がある。もし、ここにクリスチャンの方がいたら、ぜひ、以下の設問を読んで、回答を考えてもらいたい。


Q1.創世記第1章1-2節を読んでください。「初めに神が天と地を創造された。地は漠然として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた」
  これらの節は、神と創造について何を明らかにしていますか?

Q2.これらの節で最も興味をそそるものは何ですか。

 創世記は、天地万物と誕生が描かれている。私は、聖書にある通り、神が創られた、と信じているから、毎日祈って、暮らしている。

 だが、神が作られたにしては、この現実社会のありさまは酷いものである。日常に理不尽や不条理は、溢れている。「必ず正義は勝つ(※)」と日本人はよく言うが、そうでないことは誰もが知っている。 (※正義は勝つ、は聖書の言葉でない)
 トランプ大統領のでたらめぶりも、ゴーンも、かつて偉大なリーダと称された人が、好き勝手やっている。裁判を免れて国外逃亡に成功した様子を見ていると、彼の生き方(大金を稼ぐ力がある、悪賢さは大切)こそが、この世での勝利、に映る。
 
 そんな中で、聖書は言う。聖さを追い求めよ、やがてはキリストのようになれ、と。右頬を打たれたら、左頬も出せ、というのだ。
 ムリである。

 常々、クリスチャン(の生き方)は損だよな、と苦しみもがいている。 
 
 過去何度も、クリスチャンは損だから(信じるのを)やめよう、と思ったのに、そのたびに、連れ戻された。
私は信じているから、信じていなかったようにふるまうのは出来なかったのである。

 仕方ない、逃げられない。私はクリスチャンとして歩むしかない。これまで幾度そのやり取りをしたことか。
そんな私は、結婚して、この世的な幸せを掴んだわけだが、クリスチャンは損だ、という考え方に変化はなかった。

我ながら、矛盾を抱えつつも、悩み苦しんでいる人がいれば、聖書の話をしてしまっていた。
信じない方がいいと思うのに、困っている人がいると、勝手に口が聖書の話をしてしまうのである。

まあ、この話は別ですることにして、ともかく、神様を信じるものはいったい、何のために、生きるのか---!
これが私の大テーマであり、長年、この問いに対して、ろくな答えも見いだせないまま、生きてきた。

そんな私の祈りとは、ざっくり言うと、こうである。

 「神様、助けててください、できればこうしてください・・・でも、神様の御心に従います」


たとえて言えば、目の前に出てくる巨大な壁を、日夜ハンマーで打ち叩いて、打破していく毎日だ。常に、戦っている私。

つまり、 私が祈る意味とは、ひとえに、苦難を克服するため、だ。
一章ずっとこんな風に暮らして、死ぬまで戦い続けるのかと思うと、内心、暗くなっていた。
祈り忘れたら、壁が巨大化してくるので、祈りをやめるわけにはいかない。私に安らぎはないのか・・・!と。

ところが、創世記を学んでいると、衝撃の事実が発覚した。
私の解釈が間違っていた。

 創世記一章を読んで、分かったことは、すべての被造物は神を賛美するために創造された、という。
つまり、祈りとは、自分のためにするのでなく、神を賛美するために、

神のためにする

、というから、吃驚だ。

・・・ちょー、ショック。
・・・・・・・・・・みんな、知っていたのかな?
知らなかったの、私だけ・・・???

 父親に興奮して話したら、「そうだよ。え?知らなかったの?!」と淡々と言われた。
ぎゃふん。

そう言われて、祈り方を賛美へと変えたら、毎日の生活にさっそく変化が生じた。
ぐんぐん幸せになっていく。
なにも得はしないけど、受け入れられるようになっていって、平安がでてくるようになった。

信仰をもって生きるとは、こんなに楽だったのか!
というのが、正直な感想だった。

もしかして、みんな、初めからこの境地なのかな?と思って、
ニューヨークのペントハウスに住む、クリスチャンのウッディに連絡したら、「私ずっと信じてから幸せ」と言われた。
なんだ、そうだったのか。

神が人を創られた。

私が、を主語に祈るのではなく、あなたが、と神様を主語にして祈るとき、私たちは生きやすくなる。
私にとって、令和の大発見であった。