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教会

去年、吉祥寺キリスト集会について、読者の方からお問い合わせを頂いた。
インタビューした故・宣教師ベックさんの記事から、私に聞けば何かわかる、と思われたのかもしれない。その方は、海外に住んでおられた。

今から思うと、YouTubeをご覧になるよう、お勧めすればよかった。
吉祥寺キリスト集会と検索し、Subscribeを押す。すると、リアルタイム礼拝が視聴できる。
先日ふと見たら、550人以上が視聴されていた。

現在100人以上が来ているのではないか、と思う。
ベックさん生存時と比べ、激減した。召される前後に、教会が次々と裂けていった感じがする。
何が起こったか、よく分からない。
いや、分かることもあるのだが、分からないこと、についての方が問題は大きかった。
ただ、当事者でない私にはどれも伝聞でしかなく、何が真実か、神のみぞ知る。


知り合いがたくさんいる方へ行きたい気もしたが、
吉祥寺を離れてそこへ行け、と神に言われている感じもせず、
私はただ黙って、移ろいゆく吉祥寺キリスト集会をみていた。


コロナもあり、高齢化も進んだ。
親しかったあの人、この人は、いったいどこにおられるのか。


私は、ニュージーランドへ一時期、移り住んだとき、
吉祥寺キリスト集会には多くの「ファン」がいたんだなあ、と思った。
そこがとっても好きな人たちが、そこにはいっぱいいた。

でも、人はいつまでも、同じ場所に居続けられるとは限らない。
ニュージーランドへ行ったとき、私たちがそこで教会を探さねばならなかったように。


当時、私は、教会の庇護もなく、祈ってもらう友も乏しく、渡航した。

だけど、神様はちゃんと、私をそこで養ってくださった。
そして、本当にこれは素晴らしいことだと思うけれど、
ニュージーランドで知り合った兄弟姉妹が、ちゃんと私たちのことを祈ってくださったり、
真に必要な時は、パッと祈りのチームを私に与えてくれた。

私は今でも忘れない。
会ったばかりの人が、「桜子のために祈ろう!」と言い出し、
モーニングティーのラウンジで、いきなり円陣を組んで、3人で祈った日のことを。
(当時、住む家がなくなって、死ぬかと思うほどの大ピンチでした)

これはとてつもなく、感動することであった。

独りぼっちでも、神様は絶えず一人一人を養ってくださる。
とても大切なことを、私はこのとき神様から学んだと思っている。


最後に、私が心に残っているメッセージを紹介して終わりたい。
近所に住んでいた蘇畑さんというおじさんが、こんなことを仰っていた。



日本で登録されている宗教法人は13000超で(メッセージ当時)、
どれが正しい神か、一つ一つ、調べていたら命が尽きる。
結局、神の側から見たら、人間は2種類しかない、と。
ー-自分(神)を信じているか、信じていないかーーそれだけ。

誰もが祝福された人生を過ごしたい。
暖かい教会で過ごしたい。
愛のある兄弟・姉妹と交わりたい。



求めなさい。そうすれば与えられます(マタイ)


今日も良い一日を。

by桜子

対話

3年前、私は残りの会社人生は、対話の山を登ろう、と決めた。
その決意は並々ならぬものが、当時はあった。

対話をする人と言えば、カウンセラーや精神科医などが思い浮かぶ。
が、それらを目指そう、というわけではなかった。

対話と一口に言っても、人がイメージするものはさまざまだろう。
が、私が体感した「対話」とは、クリスチャンでいうところの「祈り会」に近かった。

祈り会、を解説しよう。
信者同士が、互いに心の赴くまま、感じるままに、神への祈りを捧げることである。
つまり個が神へのダイアローグを行うさまを、信者同士がオープンにする。

これは、体験したことのある人には分かることだが、まず時間が必要であり、
次に、時として非常な忍耐を要したり、心を合わせることが難しい場合もある。
それでも、ただ、神を信じているという一点において、相手をジャッジしない。
他者への差別をしないことも含めて、
私の知る対話、つまりオープンダイアローグは似てる。


現代社会は、タイパ(=タイムパフォーマンス)、
コスパ(=コストパフォーマンス)
と、SNSが跋扈し、ともかく忙しい。
だから、これを志す、ということは、皆と真逆の道へ行く。

それでも、
なんだかんだで、時は流れ、
今は職場で「それやっていいよ」という立場にいる。
信じられないことだが、本当だ。

今日はふと、そのことを思い出して、
ああ、すごいな、と心新たに感動した。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです
(ピリピ人への手紙2章13節)

今日も良い一日を!

by桜子

追伸:3月2日国家試験につき、お祈りよろしくお願いします。

white flush door

誰にでも与えられている扉

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。(ルカの福音書18:1)


夏休み、私は経営者の友人と、渋谷のVIRONで再会を果たした。
彼女は好調だった事業がコロナで危うくなった経験から、第2の経営の柱のために、医療の猛勉強中だった。看護や医療に疎い私は、話に満足して帰宅した。



その夜、珍しく独り暮らしの義母(84歳)から夫に電話がかかって来た。


「もしもし、今、私、病院にいるの。転んじゃって。
 でも、なんともないから。
 だけどもう夜遅いし、足も痛いから、病院に泊まらせてって頼んだとこなの。」



結局、のちにこれが、大腿骨頸部(だいたいこつけいぶ)骨折、であって、
当直医師は「何ともない」とレントゲン診断をしたが、実際は翌日に念のためとCT撮影をしたら大事であった。
義母の「頼むから、ちょっと泊まらせてよ」というお願いは、功を成していた。

だがしかし、そもそも、なぜ転んだのか。
聞くと、たまげる話が満載だった。


友人のお見舞いと病院へ出かけた義母が、帰りのバスで、運転手さんに呼び止められた。
高齢者乗車券の不正を疑われ、そのアナウンスに驚いた母は、ちょうど下車途中だった。
振り返った瞬間、階段でバランスを崩した。
ゴロンゴロンと、地面に落ちて、動けなくなったと言う。

しかし、ここからが凄い。
横たわった母を、運転手さんらはバスに乗せた。そして全乗客を降ろすと、病院まで救急搬送。
大型バスが、病院まで一直線。嘘みたいだが、ホントのようだ。


で、義母の話に戻る。骨折後、すぐに手術が必要ということで、私は聞きなれない医療情報に混乱した。そこで、VIRONの女友達を思い出し、連絡すると、手術の詳細や、注意すべきポイントを一切合切、教えてもらった。彼女とのお喋りさえ、「主の山に備えあり(創世記22:14)」であった。

84歳の彼女は、

・寝たきり
・合併症

の可能性があると宣言され、私は途方に暮れた。
今後の生活はもちろんだが、
それ以前に、入院中、遠方にいる義母が、誰からもケアされず呆けてしまわないか。
寂しさに潰されないか。

祈るしかない、と思った。
その上で、出来ると思うことは試みた。
義母の住む地域に、クリスチャンの姉妹方が数名いたため、思い切って祈った後に連絡をした。
が、残念ながら、誰も繋がることはなかった。
そのため、私はご縁があった人には祈りをお願いした。
幸い、
母は祈られることに全く抵抗がなく、後にそれを伝えると、「祈ってくれるの?うれしい!」と素直に喜んだ。


そもそも義母は、身寄りが私たち家族しかいない。
クリスチャンの友達もいない。
難病だった義父が召されてから、引っ越しをしたため、周囲に友達が少し居る程度である。





だがしかし、主の御名は、ほむべきかな。





一か月半が経ち、義母は無事に、退院したのである。
健康的な食生活のお陰で、少しスリムになって健康的にすら私には見えた。


私は今回、義母の入院で、彼女の人柄を改めて知り、どういう余生を望んでいるかを知った。
今の所、うちに来たい気持ちはないという。
退院した夜、義母に電話すると、声が弾んでいた。


「家はやっぱりいいねえー。今日は、夜更かししようと思って(笑)。
9時半消灯だったから、テレビがいつも、いいところで消されちゃうの。
今日はね、11時まで夜更かしするから…(はあと)」



いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
(ルカの福音書18:1)




「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために」のくだりを読んで、
私はたとえ話でなく、実際に起こった、わが家の出来事を本日はシェアしてみました。



ですから、皆さん。元気を出しなさい。(使徒27:25)


誰もが明日に不安を抱える今日です。
でも、誰も明日のことは分からない。

どうぞ、今日もお1人、お1人が、希望の扉を開けられますように!


by桜子

a person holding a black letters

祈ってください

祈りには力がある。
私は、昨晩3時にふと目が開いて、色んな事を考えていた。その中の一つ、「祈ってください」。

ブログに書こうか?
「祈ってください」と書こうか?
神様が「書け」と言って、私の目を覚まさせたのかもしれなかった。

誰かがこの記事を読んで、祈ってくれるかもしれない。


細かいことは書けないけれど、どうか、家族の安全を祈ってください。
入院中の義母と、私の両親、弟、主人、娘のために祈ってください。
神様が最善を成す方だと、知っている。
でも今は、祈ってもらう時を迎えている。

誰に頼んだらいいのかも分からないから、神様に委ねてみる。
ググって見つけた、この記事にも励まされた。



今朝読んだ、「日々の光」9月4日のページ

娘よ。待っていなさい。(ルツ3:18)

その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。
その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。(詩編112:7.8)




今日にピッタリな御言葉!
今週一週間も、あなたも、あなたの家族も守られて過ごせますように。

by桜子

クリスチャン生活

「私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう」詩編56:11

コロナ後、最も大きな生活の変化は、ともかく、外に出かけなくなった。この一言に尽きる。
そして、個人的に変わった点は、神さまをぐんと好きになったことだ。

家に居ると、至る所に、神さまの香りがする。
まず玄関、そしてお手洗い。
聖書の言葉が飾ってあるから、無意識に読んでしまう。

そして、室内にあるもの。
愛する家族が立ち歩き、本や、文具が転がっていると、家庭を実感する。
これらはすべて、神様が私にくださった。

生活の中心が家になり、自宅から会議をしていると、働いていても、家族が常に頭にある。
だから、神様のことを考える。つまり、
出勤していた頃より、ずっと神様に心を向けるようになった。
それはつまり、祈りだと、友が言っていた。

10代の頃、祈る、という行為を覚えた。

祈り、とは目に見えず、まったくもって地味そのものである。
特に聖書には、「部屋の奥に入って戸を閉めて、誰にも見られないようにして祈れ」と言ったような記述がある。

つまり、

私は祈っています!と公表はせず、自分の身を低くし、努力は語らず、黒子になって、情熱を神に注ぐ。
静的で、一見すると非力にみえる、この熱量こそ祈りの本質だ。

私は、この祈る機会を、この1年、たくさんもらった。
祈り始める時、最初に神様を褒めたたえると、自分の悩みが小さくなっていくこともたくさん体験した。
創世記には、私たち人間が創られた目的に、神への賛美、がある。
だから、毎日、神様を褒めたたえることを意識して祈ると、きっと神様は喜んで、私たちは祝福されるだろう。

クリスチャンの生活。

それは、祈りに始まり、祈りに終わる。

その人がどのような1日を送っても、祈って、祈って、祈る生活。
それが、クリスチャン生活だ。