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クリスチャン新年会

1月2日の日曜、新年早々の礼拝後に、主にある家族6組が、わが家近くの一軒家に集まった。

group of people making toast
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主にある家族、というのは、天の神を父と考えた時、私たちはみな、誰もが兄弟または姉妹(※)という考えによる。米映画でよく耳にする、Brother(ブラザー)とSister(シスター)は、要するにクリスチャンからきている。

 新年二日目から、親戚の少ないわが家が、血のつながりはないにせよ、家族と呼べる人達と集まれたことは神の恵みそのものであった。私は、娘が産まれた当時、親戚のいないわが子はなんと不憫だろうと長年、重荷を背負っていた。が、この日示して頂いたことは、神様をお父さんにしたら、彼女に親戚は無限に与えられているという事実だった。

 そうして集まった私たちの目的は、実は新年会ではなかった。
きっかけは昨年、互いの子供たちが学校で様々な困難に合っていた危機感から、聖書を知る子供たちが互いの体験を仲間と語り合って、成長していく心の場を作ろうということから、祈って集まった会であった。

「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」
伝道者の書4:12

 子供たちは、地元や学校に、聖書について語り合う人が親以外いない。コロナ禍で、子供が一番、他人との関係が希薄になる。大人が、自由に外へ出て、携帯やSNSで人と繋がれるのに対し、こと小学生以下にそれらがない。幸い、私たちは、同じ年齢の子どもを持つ親たちで、それがないとマズい、と気づいたので、率先してクリスチャンの子供たちの交流の場を定期的に持とう、と相成ったのだ。

 再会した子供たちは、親の心などつゆ知らず、呑気に、2年前と変わらず会うとすぐ、外で遊び始めた。が、その身体つきは、ティーンエイジャーの入り口で、男の子は凛々しく、女の子は可愛らしくなっており、成長ぶりには目を見張るものがあった。この子たちと関われるのは、あと何年だろうか。
 
 そうして、ひとしきり遊んでお昼をすませると、子供たちにクワイエットタイム(静かな時間)と称し、円陣になってもらった。そして、友だちの旦那さんが、英語と日本語で司会をし始めた。(※英語を母国語とするお友だちが数人いたため)
 

「今まで、いじめにあったことのある人?」

 この日のテーマは、いじめ、であり、30分余りの時間を使った。いじめについて、どう思い、どう感じて、どう対処するかというシェアの時間を持った。だが、この内容は割愛する。
 ただ、後ろで静かに見ていた主人に言わせると、いじめがテーマの話題は進行が難しく、「大人の自己満足になりがち」と辛口の評価が下ってしまった。
 言われてみれば、その通りであったが、娘に言わせると「ちょっと退屈したけどまあまあ」とぎりぎり合格点をもらったか。
 とかく、大人が司会者になると、一定の方向へ導きたくなるが、いじめは正しい対処法があるとは限らないので、次回からはもっと子どもに好き勝手にしゃべってもらって、大人も一緒に悩みたい。
 

 だが、なんにせよ、教会の仲間と気持ちを分かち合ったこと自体は、良かったと思う。ある精神科医が、「話すことが、子供を強くする」と、言っていて、以来、私は子どもを信頼おける人と関われるように配慮するようになった。ぜひ、この集まった子供たちにも、互いに語り合ってもらって、強くなってもらいたいものである。


 困難な時代にあって起こる一つ一つのことが、私たちに色んな気づきを与えている。
生きづらい世の中にあって、子供たちが、希望を失うことなく、強くたくましく、生きていってほしい。
 私たち大人は、そんな次世代をこれからも応援し続け、忍耐をもって関与し、祈り続けていきたい。

by桜子

クリスマスの朝

家のポストを開けると、1通の赤い封筒が入っていた。

開くと、お隣さんからの手紙だった。

お隣は先月、上階から引っ越してこられた老夫婦で、私は奥様から話しかけられた際に、優しそうだな、と思っていた。手紙には、その彼女から、私が前日に差し上げた林檎のお礼と、プラスアルファ、がしたためられていた。


「もしや、お宅はクリスチャン?」


話は12月上旬に遡る。
私は玄関の表ドアに、娘のお手製リースを飾った。

a christmas wreath hanging on the door
Photo by Anastasia Shuraeva on Pexels.com



そして、私と同じように、ドアへ飾りをつけている家が、同じフロアに他に2件あった。その1つが隣で、ポイントは、それがサンタとトナカイだった点だ。


私は今、在宅勤務だから、家を頻繁に出入りする。そのたびに、隣のサンタとトナカイが視界に入ってくる。そして、いつも、何の気なしに思っていた。

           (・・・サンタなら、プレゼントが届くよな…)


それで、隣に何かを差し上げたいとずっと考えていた所、23日(結婚記念日!)に、家へ突然、大量のリンゴが届き、その見事な青森のリンゴに、私はこれをおすそ分けしようと決めた。

 紙袋にボンボンとリンゴを入れた。が、これではどうもハレの感じが出ない。


 そこで、透明のパラフィンでリンゴ2つを包み、上を赤いリボンで結んだ。
(おお!これで一気に、クリスマス!・・・)

そうそう、忘れちゃいけない、と慌てて、友お手製のクマ飾り付き「聖書の言葉カード」を括り付けてみた。うーん、可愛らしい。完成だ!



 さて、隣のチャイムを鳴らす。

 
 私とて、知らない人のドアを叩くのには、勇気がいる。

 変な人に思われたらどうしよう!!だが、だからこそ、リンゴは少なくした。どうかな、どうかな。ドキドキ…。だが、出てきた夫人は大変驚きながらも、とても喜んでくださり、私はホッとした。

 それで、クリスマスの朝に話は戻る。

「もしや、お宅はクリスチャン?」


この後には、続きが書いてあった。


私はクリスチャンホームで生まれ、夫は●年前に洗礼を受け、今はXX教会に通っています。
聖書の言葉を見つけてうれしくなりました。




私が、その朝どれくらい喜んだか、書くまでもない。
そもそも、このリンゴを頂いたことにも、他のストーリーが含まれていたのだが、そこを披露すると、キリがないので割愛する。

クリスマスの朝に、隣人がクリスチャンだと知ってうれしかったが、何よりも、そのことを知らずに、日常が過ぎていくこともあり得たのに、神が私の生活に手を伸ばし、施してくださった采配が、何よりうれしかった。

今日も神は生きて働く。私は神さまを心から賛美する。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。
私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、


あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

by桜子

心、この不思議なるもの

今日はもうダメだ、と思った。

似た境遇の人に、自分の境遇を訴えたら、気持ちをわかってもらえるかもしれないと期待した。
もしかしたら、慰めや、示唆に富んだ言葉が返って来るかもしれない。

だが、瞬時に飛んできたリプライは見るまでもなかった。人に、多くの愛を求めるのは酷というものである。

時折、私の周りにいる、すべての人が自分の敵のように感じるときがある。が、落ち着いて考えれば味方は多い。仮に、たとえ、一人だったとしても、私には神がいる。
それが、信仰だ。


神はいる。
全てのことに意味はある。
必ず、すべては益に変えられる。


聖書をふだん信じていて、私は毎日、祈っている。心から信じているつもりなのに、本当に信じてはいないのではないか、と揺さぶられる時がある。
私は、朝、近頃はきちんと祈っているから、きっと穏やかな顔をしているに違いない、と思っていたが、私の見ている鏡と、家族が見る私は、違うものが映っているらしい。
私はいつも怒っている、と家族は言う。

いや、神様、もうダメです。私は、いっぱいいっぱいです。誰も助けてくれません。

夜明け前は最も暗いーーと言う言葉を思い出しながら、私は嘆きや呟きを抑えようとしながらも、こぼれていく心を抑えられなかった。

けれど、しばらくして、もう一度その言葉を思い出してみる時、空が最も暗いなら、まもなく陽は昇る。東から朝日がやってくるのではないか。だとしたら、今が堪えどきである。




明日もやっぱり、祈ろう。
この道を信じて、ついていくしかない。

泣いたカラスはもう笑っていた。


  

Never Let Go Of Me /私を手放しません

季節は冬に近づいているが、私の今夜は、夏一色だった。

 なぜかというと、Never Let Go Of Me という数年前の夏の音楽に、聞き入っていたからである。懐かしい…。素晴らしい曲だ。なんて、秀逸なリズムなんだろう・・・!

 以下に紹介するのは、アメリカ各地の教会で毎年行われるサマープログラムで提供された一曲だ。そのサマープログラムを、Vacation Bible School (略してVBS)と言う。アメリカ発だが、日本でもそのプログラムをやっている教会があり、私の娘は数年前から、夏になると参加していた。
 ちなみに、年によってテーマは変わるが、以下は「難破船(Shipwrecked)」というテーマに括られた一曲だ。(例年5曲ほど学ぶ)

 ずいぶん難しい単語を小さな子供たちに教えるんだな、と当時は思ったが、神さまを見失う状態を難破船、と表現する発想の柔らかさに、さすがアメリカの教会、と思った。そして前置き長くなったが、ともかく、一度、聴いてもらいたい。これもまた、クリスチャンが聴く音楽の常識を破るものである。

※ティーンらによるダンスのVBS。なお、この教会や団体のことは私は一切知りません。


ちなみに、娘たちはこんな難易度の高いダンスは出来ず、以下のビデオが近い。今度は歌詞付きなので、もう一度良かったらぜひ、聴いてみてください。



ブログに、このVBSのことを書いた日はなかったかな、とググってみたら、5年前の記事が見つかった。(VBS at Daikanyama

初参加は、6年前か、5年前だったのか。アメリカンスクールの夏のプログラムは高額だと聞いたが、娘のこのVBSはなんと無料であり、雰囲気はアメリカンスクールに負けないと思う(行ってないから分からないが)。ちゃんと、スナックタイムもあれば、ダンスも工作も運動もある(笑)。
 150人程の子どもたちで、歌って踊る5日間で、最終日の午後は親も参加して、私も大いにその期間を楽しんだものだった。

懐かしいな、懐かしいな、とお風呂場にまでスピーカーをもっていって、聴いていたら、子供が「泣きたくなった」と言う。

私にとって、あの時間はけっこう貴重で大事だったんだな、というようなことを呟いている。そうだね。そうかもね。今はあんな風に謳って踊れないものね。泣いてもいいよ。と私は言った。


しかし、お風呂から上がったら、
「なんか、曲聴いてたら、元気が出てきた・・・」
と言った。

そうだ、神さまは私を手放さない、なんて言われたら、元気がみんな、出るもんね。

by桜子

聖書からみる、世の終わりの前兆

2021年の夏は、歴史に残る年になること間違いない。
東京五輪は、国民の総意なしに開催された。
「オリンピックとコロナ感染は無関係」と政府は言ったが、来日オリンピック選手団に陽性者は残念ながらおられ、感染者は多発した。そして、観光禁止の選手群と聞いていたが、私はあろうことか、2名のオリンピック関係者が、家電量販店から出てきたところに遭遇。彼らは外せばいいのに、胸にオリンピック公式のネームタグをつけており、どこの国のなんていう人か見ようか、と野次馬根性が走りそうになったが、とっさに目を外した。(見てはいけないものを見た!とドギマギした。)

 そうした外国人の来訪者数増で、感染力強の変異ウィルス・インド(デルタ)型の急拡大を招いた可能性は高く、「国民の安心安全が第一」と菅首相は仰ったが、連日報道される自宅療養者増に空しい気持ちになる。いつから日本はこんな国になったのだろう?いや、昔から日本はこんな国であって、自分が無為に過ごして気づかなかっただけかもしれない。

 世界はどうか、とドイツに住む親友に先週連絡して、近況を尋ねると、欧州では5月のワクチン接種以降、環境は一変し、夏のバカンスを堪能した、というから驚いた。だが、そんな平和はごく一部のようだ。天候をみれば、地中海沿岸で記録的熱波が猛威を奮い、山火事の多発、グリーンランドの氷床が大規模融解、と自然環境の悲報が続く。近隣の中国は、日に日に軍事力を増し、海域を侵して東南アジアの平和はもちろん、日本にとっても大きな脅威となっている。香港の自由が中国に統治されていく様は、イスラム主義組織タリバンがアフガニスタンを占拠という恐怖ほどでないにせよ、いずれも武力行使、という点ではよく似ている。そうそう、サバクトビバッタの大量発生はどうなっただろう。アフリカから中東、南西アジアまで広く分布し、食料飢饉の危機にある。

 それら(いなごの大群)は全地を面をおおったので、地は暗くなった。それらは、地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。(旧約聖書より)

 おそらく日本人の多くは、聖書を宗教的な書物として毛嫌いしていると思うが、世界を知る上で、聖書は読むべき書物であるはずだ。いなご、バッタが、私たちの世界を奪ったさまは、旧約聖書の出エジプト記に書かれている。(昔あったということ)
そして、世の終わりについてもまた、書かれている箇所が新約聖書にある。今朝、私はマタイ24章を読んだ。

イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。

「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。
「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。
「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。


震えあがる文章の列挙である。
私は今朝、これを読んで怖くなった。すでに、多くの人達の愛が冷たくなっていることを実感している。

昨日同僚に、「聖書に【冷たい時代になっていく】と書いてあるよ」と言ったら、
ブッ(笑)と、笑われた。
私は大まじめで言ったのだが、聖書を知らないと笑い話に映るだろう。頭がイカれている、そんな揶揄さえ聞こえてきそうだが、NYの9・11で、大きなタワーに飛行機が突っ込んで自爆した映像を見た時、この世の物とは思えない!と誰もが思ったのではないか。
私は友達と携帯で話していて、映像を見た時、わが目を疑った。そう言うことが今現実に、たくさん起こっているではないか。


なお、この聖書の箇所を解説した文章を探したところ、以下が見つかった。私としてはなんとなく、合っているのではないか、と思ってリンクを貼っておく。
礼拝説教 マタイによる福音書24章 「世の終わりの前兆」 (bible-seisho.net)
(※正しい解釈かどうかの確認はご自分で聖書と照らし合わせてね:))


ああ怖い、ああ恐ろしい、と思って仕事をしようと思ったら、「今日のみことば」のメールマガジンが届いた。

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「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木ぎれの煙る燃えさし・・に心を弱らせてはなりません」イザヤ7:4

今、困難に直面しているなら、「気をつけて、静かにしていなさい」が主の答えだ。「恐れるな、心を弱らせるな」と。まず落ち着いて、主を仰ごう。主に信頼を寄せよう。私たちは、主の御手の中に置かれている。まずは動かずに、主を覚え、主に祈ろう。

引用元:【日々のことば】  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係り

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労苦はその日ごとにある。

昨日のことは忘れた。


明日のことは分からない。


日ごとに出来ることを考え、上を見上げ続けたい。

NHK夜7時のニュースを観なくなった件

テレビが好き、と昨日書いたが、日中のテレビを観ることが、本当に減った。
夜7時だけは唯一、娘と私の食卓用BGMにNHKをつけていた。が、最近つけるのをやめた。

「どうせ、暗いニュースだけだし、観てもしょうがない、やめよう」
と、子どもが言う。

確かに惰性でつけていた。本当にそうだね、と私も気づかされた。特に、コロナの感染が始まってから、トップニュースは一日の感染状況と政治家たちの話で、飲食店のインタビューも、届く話は暗い情報ばかり。加えて、東京オリンピックでさえも、空しい報道ばかりが重なって、聞けば聞くほど、矛盾をはらんだ開催は、沈みゆく日本の船の象徴のようである。私たち親子が、一日の終わりに聞くニュースとしては、かなり萎える。


「どうして、もっと明るいニュースがないの?」


子どもが投げかける言葉は、時として、本質を突く。


「ほんとだね、どうしてだろうね」


私は娘にそう応えるが、「それだと、世間が収まらないからだよ」と、心の中で言う。


こういうのは、なんていうのかな、とググってみたら、こんな言葉が見つかった。

「他人の不幸は、蜜の味」

「シャーデンフロイデ」(独: Schadenfreude 他人の不幸を喜ぶ感情)

※人類にとってシャーデンフロイデは、社会を守るために必要な感情だった。
 自分たちよりも不当に得をしてる人を許さない。引きずり下ろす、という行動に喜びを報酬として与えて、促進することが共同体の維持には必要(ロザン×中野信子「シャーデンフロイデは、社会を守るために必要な感情なんです」|特別”高学歴”鼎談|菅広文/中野信子 – 幻冬舎plus (gentosha.jp)


こんな社会に、神さま、Let there be light(光よ。あれ)!

テレビが好き、100分de名著が好き

私はテレビが未だに好きだ。
わが家のテレビは、YouTubeも、Netflixも、ボタン一つで見られるデバイス仕様で、YouTubeが最近面白い、というのも重々理解しているが、まだまだ、2クリック、3クリックしないと辿り着かないネット番組は、私には手間であって、夜になると、簡単な1クリックテレビを選んでしまう。

もっとも、リアルタイムでテレビは殆ど見ない。
録画済みの中から好きな番組を選ぶのだ。
「青天を衝け」や先週終わった「ドラゴン桜」も、夫婦で日曜の夜、子供が寝た後に楽しんでみていた。

で、その中に、「100分de名著」という、NHKのEテレ番組が長いこと録画済で放置されており、今日ちょっとみたら、ものすごく面白かった。硬派な番組タイトルに嫌煙していたが、今の時代にも通用する古典を聞くと、人間って変わらないのね、と感動するし、昔の人がどんなことを考えて名著と評されまで社会に影響を及ぼしたのか、知ることに喜びを感じる。


 で、今放送中の書物は、フランスの哲学者、ボーヴォワールの「老い」。
7月いっぱい、このシリーズは続く。老いる私や母世代はもちろんのこと、定年退職前後の男性にも、知っておくと有益な文章がたくさん散りばめられている予感がしている。

 日本女性の4人に1人が70歳以上(2020年9月20日朝日新聞報道より)の超高齢化社会にあって、老いは大きなテーマだ。私がいくスポーツジムには、いかにもお年寄り、というシニアが少なくない。それに、会社の先輩(レオン課長のエイジクライシス)も、老いをかなり気にしていた(今はどうだか、知らないが)。

 外見が衰える、白髪が増える、筋肉が低下する、新しいことが身につかなくなる、動きが緩慢になる。不安、焦り、焦燥感、孤独、自己卑下。

 老いの考えを深めておきたい、とamazonで本を取り寄せようと思ったら、売り切れていた。でも、NHKテキストはたったの600円で入手可能!(amazonベストセラー1位6/29現在)

同番組の司会は、お笑いタレント伊集院光で、ゲストは東大名誉教授の上野千鶴子。
上野千鶴子はたしか、毒舌コメンテーターの古市と交流があったなあ、と番組を観ていたら、類は友を呼ぶのか、彼女の方こそ、古市に負けないような大胆発言をしており、「NHKでそれ放送していいんですかね?!」と、伊集院光をドギマギさせていた。(でも放送されたから、アッパレEテレ!)
 

「最近、歳とったわ~」とか、「老けたくねえなあ」といった、これから老いていく、あなた。
一緒に老いを考えてみませんか。


しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる」(箴言16・31)

 

 

 





当事者研究をした、ボーヴォワール。「老い」という本を執筆したのは、62歳だったそう。

「この年代は、何を考えているんだろう?」ようなので、これから老いていくのが、

「第二の性」


毎日わが子を褒めてますか?

 小学生の娘がいる。私は親たるもの、わが子への評価はすべて控えめであれ、と、人前でわが子を褒めることは殆どしなかった。親バカはみっともない、と思った日本人ならではのメンタリティーゆえである。
 だが3年前の夏、子供キャンプのバスで移動中に、10以上年下の幼稚園先生から、こう説かれた。

「親が、わが子を世界一可愛い!!って言わないで、いったい誰が言うの?!」
「もーっ、たっくさん、可愛い、可愛いって、子どもを褒めて抱きしめてください!」

 私はけっこうビックリして、「え?!そうなの?そんなことしていいの?」と返したが、「当たり前です!」と彼女が胸をはったので、私は方針転換した。

未だにそのことを覚えているので、私にとって、相当衝撃だったのだと思う。

 というのは、今日、娘をぼんやり眺めながら、ある感情が沸き上がったので、その会話を思い出したのだ。


 

 かわいいなあ。

 
 わが子をそう思っている自分にギョッとした。余裕がある自分にも驚いたし、親として人並みに慈しむ気持ちがあることにも感動した。こんな私にも、聖母みたいな感情がちゃんとあるじゃない?
 
 目の前の娘は、まだまだ、小さな顔と細い腕で、まるで人形のよう。そんな子が、毎日、自分の頭で考えて、自分の足で、学校に一人で行く、そう思うと感動した。

・・・。


 無言で見ていると、娘と目が合った。彼女は、なんだ?とでもいう顔をして、無言で私を見るので、ニッっと私は笑った。

(わが子よ、母はお前にみとれていたのだ・・・)

 子供と言えど、よく生きている、と褒めてやりたい。学校は必ずしも楽園ではないからだ。

 時々、自分と娘を比べる。

 私は会社を選んだが、娘は学校を選んでない。
 私は会社が嫌なら辞めればいい。が、娘は嫌でも行かなくてはならない。
 私はお喋りする同僚を何百人から選べるが、娘は僅かばかりのクラスメイトからしか選べない。

 娘の方が、逃げ場がない。そんな世界で、子どもは実によく頑張っている、と私は思う。
 本当に、よくやっている。
 
 

 いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
(箴言3:3)


クリスチャン生活

「私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう」詩編56:11

コロナ後、最も大きな生活の変化は、ともかく、外に出かけなくなった。この一言に尽きる。
そして、個人的に変わった点は、神さまをぐんと好きになったことだ。

家に居ると、至る所に、神さまの香りがする。
まず玄関、そしてお手洗い。
聖書の言葉が飾ってあるから、無意識に読んでしまう。

そして、室内にあるもの。
愛する家族が立ち歩き、本や、文具が転がっていると、家庭を実感する。
これらはすべて、神様が私にくださった。

生活の中心が家になり、自宅から会議をしていると、働いていても、家族が常に頭にある。
だから、神様のことを考える。つまり、
出勤していた頃より、ずっと神様に心を向けるようになった。
それはつまり、祈りだと、友が言っていた。

10代の頃、祈る、という行為を覚えた。

祈り、とは目に見えず、まったくもって地味そのものである。
特に聖書には、「部屋の奥に入って戸を閉めて、誰にも見られないようにして祈れ」と言ったような記述がある。

つまり、

私は祈っています!と公表はせず、自分の身を低くし、努力は語らず、黒子になって、情熱を神に注ぐ。
静的で、一見すると非力にみえる、この熱量こそ祈りの本質だ。

私は、この祈る機会を、この1年、たくさんもらった。
祈り始める時、最初に神様を褒めたたえると、自分の悩みが小さくなっていくこともたくさん体験した。
創世記には、私たち人間が創られた目的に、神への賛美、がある。
だから、毎日、神様を褒めたたえることを意識して祈ると、きっと神様は喜んで、私たちは祝福されるだろう。

クリスチャンの生活。

それは、祈りに始まり、祈りに終わる。

その人がどのような1日を送っても、祈って、祈って、祈る生活。
それが、クリスチャン生活だ。

2020年コロナ禍クリスマス会_前編

 例年、クリスマスと言う日をこよなく愛している私。それは、イエスキリストがこの世に生まれた、ということを公に祝える日だからである。
 サンタの日じゃないYO

 昔、メディアで連載を開始する前、編集者に「聖書の言葉を紹介したい」と言ったら、「仏教の言葉だったらいいけど、聖書はダメ」ときっぱり断られた。売れないそうだ。

 それくらい、日本人にとって馴染みのない聖書だが、世界のベストセラーであり、欧米諸国では教養の一つとして、聖書は親しまれている。ハリウッド映画を鑑賞すると、時折これは聖書の箇所だ、と気づくが、聖書を知らない日本人に、このシーンの意味は分からないと、いつも思う。
  
 そんな日本にあって、クリスマスだけは、聖書を紹介しても、ちっとも嫌がられない。これまで、この日だけは特別よ、と、たくさんの人たちに、ささやかなクリスマスプレゼントを贈り続けてきた。

 時間に余裕のあった20代、12月になるとクッキーを焼くのが、独身時代の私の恒例行事だった。一日かけて、クッキーをオーブンで焼く。ドイツのミンヘン婦人のレシピは、バターの分量が多く、口に入れると、ホロッと崩れて美味しかった。市松模様の美しい黒と白のボックスクッキーは、見た目も華やかで、母が作るのが大変、上手かった。
 

 透明なセロファン袋に入れ、緑と赤のリボンを結んで、聖書の言葉と一緒にする。
 クッキーは大変美しく、いつもラッピングが楽しくて、渡す前からワクワクした。
 手作りのため、渡せるクッキーは少量ながら、私にとっては思い入れが深かった。
 
 
 
 結局のところ、なぜこのようなことをしていたか、と言えば、聖書を知ってもらいたい、この一言に尽きる。聖書に次の言葉がある。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
 
 この使命を胸に、毎年この時期になると、私の中の聖霊が私にささやきかけてくる。
 「誰か、いないか?」
こう書くと、一気に宗教染みてくるが、聖書によると、イエスキリストを心の中で信じて、神様だと受け入れたとき、神の聖霊が、一人一人の人間に宿る、という。(儀式は必要ない)
 
 義務なのか、欲求なのか。私の中の霊が、絶えず、私に働きかける。

 私にとって、誰かが神さまを信じたとて、私にご利益があるわけでもなく、私には全く、関係ないこと。

 けれども、私がこの世で生かされているのは、このためである、と思うから、勇気を出して渡しす。
たとえ、相手に喜ばれなくても、その人にとって、渡した聖書の言葉が、いつか彼/彼女の人生の局面で、必要になるときがあるかもしれない。その人の運命は分からないから、今この瞬間、ご縁があった人へ私が出来るプレゼントを贈るのだ。

「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。ルカによる福音書 2:11」

 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。ルカによる福音書 2:14」

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、 ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネの福音書 3章16節 」

 
 クリスマス礼拝が、今日は世界各地で行われる日曜日だ。洗礼式もある。

 わが魂よ、主を褒めたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
 どうか、たくさんの人たちが、喜ぶ日曜日でありますように。