人生はいつも、私たちに色んなことを教えてくれる。
私はNZに来て以来、キラキラのイメージと真逆の生活を、けして誇張でなく、送っている。
辛い日々は私にウクライナとロシアの戦争を思い起こさせる。
それより、はるかにましな環境にいることは間違いない。
だがしかし、これはいったい、何なんだ?
日ごとに胃が雑巾のようにしぼられる。
私はすこし痩せた。
人は苦しい時どうやって耐え忍んで乗り越えるんだっけ?
NZで同居生活をスタートさせてから、部屋にいても、会話が聞こえる。
そのため新年があけたのに、私は日本に電話をしていない。
しかし、皆がいなくなった時、私は父に電話し、辛い胸の内を告白した。
すると、
「ばかみたい!…ばっかみたい!!!」
「こういう(苦しい)時こそ、楽しまなくっちゃ!」
「もっと上から物ごとを捉えるんだよ。
さて神様、これから私をいったい、どうされるのでしょうか?、と(聞きなさい)」
私は弱っていたから、ただひたすら父の声を耳にして、ああ、この人めちゃくちゃメンタル強いな、と思った。
しばらくして、ほかの日やっぱり心臓が苦しくて、今度は母に電話した。
私は言った。
「苦しい…」
すると、母は言った。
「厳しい言葉を言うようだけど、あなたが成長するチャンス。素晴らしい機会を頂いています。」
「良かったじゃない。あなた、いつもなんだか、”私は仕事してます”って感じで、威張ってるもの。自分が小さくされるために、素晴らしい恵みを頂いています」
私は絶句した。
辛い時だから、ふだんなら反論する私も、なめくじに塩。
偉ぶってるつもりはないけど、そう見えるなら、確かにそうなんだろう。
でもどうしたら変えられる?って思ったら、自分の努力じゃ、やっぱり変えられない。
謙遜になるように、砕かれなければ…と、いくら唱えてもなれるもんじゃなし。
やっぱり必要な痛みなんだろうなあと素直に納得した。
それでも、
やっぱり苦しい。
何が苦しいって、書きたいけど書かぬ。
結局は、私たちクリスチャンは口を閉ざさなければならない。
ごくごく親しい人にはその心を吐露してもいいだろう。
でもできれば、それさえなくした方がいい。
悪い言葉を一切口から出さないこと。
それが神が私たちに求めていることだ、と私は分かった。
1月21日日々の光「朝」より===
患難さえも喜んでいます。
それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、
練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
訓練と思って耐え忍びなさい。
神はあなたがたを子として扱っておられるのです。
父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、
ほんとうの子ではないのです。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、
後になると、これによって訓練された人々に平安な義のみを結ばせます。
ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。
by桜子