二十日大根、家庭菜園中

今年の冬に蒔いた、まんまるはつか大根が、こんなに大きくなった。

まるで着色料をつけたような、真っ赤な大根、とても美味しそう。

都会で作れると思わなかった。明日のサラダにしよう。

春休みの振り返り&新年度

あっという間に新学期になった。
今朝はあいにくの雨だったが、今日は子にとって新しい一年の門出だ。
「子よ、学校生活に多くの幸あれ」
これはきっと、親の誰もが、出ていく子の背中を見て願った祈りだと思う。

さて、
振り返ると、過ぎし2週間の春休みは良く過ごせた。
私は会社の制度(在宅勤務、年休)と社会の制度(学童)を活用する一方で、時に友と遊び、子を友に預かってもらう等のやりくりをして、最終的には私自身も「春休みらしさ」を満喫できた。

学童で食べるお弁当(私の記念に残しておく)

娘と焼いたお菓子。

アイシングづくりのプロ(友)に来てもらい、娘の友も招いて作ったアイシングクッキー。
私の作品。

初挑戦ながら、意外と上手だった娘の作品。

平凡な日常の積み重ねが、私たちの人生の糧となっていく。

どうか、今日から続く日々もまた神様のお守りがありますように。

春の天ぷら

たらの芽、ふきのとう、アスパラ、みょうが、春野菜が食べたいと、静岡の家族旅行から帰宅すぐに、夫が天ぷらを家で揚げてくれた。感謝。

もうすぐ春休み

 保育園児のママだった頃は、春休みがなかった。
だから「春休み」は、全く気にならなかった。だが、小学生ママになると、心境に変化が現れた。春休みが気になるじゃないか!
 せっかくの休みだから、わずか2週間といえど、春“休み”っぽいことをさせて、娘をゆったり過ごさせて進級させてやりたい、という親心が働いてしまう。

 独身の女友達に、どこかに娘を連れてってくれ、と連絡したら、仕事だから無理、と言われた。だよな、と思った。けど、この広い世界で、誰か子供の力を必要としている人はいるはずである。とはいえ、そんなマッチングを試みるわけもなく、そもそも娘が刺激的な毎日を望んでいるかといえば、そうとも限らない。

 働くママ友に過ごし方を聞いてみると、ある人は塾やインターナショナルスクールの短期講習に申込みを行い、ある人は自営だから毎日適当に遊ばせてなんとかやる、と言っていた。なるほど。

 一方、わが家は来月末からアメリカへ行く。まあ、春は静かに過ごそう…。そう割り切ったはずが、いよいよ来週は春休み、というと、何か考えてみたくなり、インターネットをググってみた。

 ネット上には、体験イベントがたくさん転がっており、私がチェックしたものはどれもお値段が数万というものだった。一過性のものに、そこまでしなくてもいいか、と何もしないことにした。
 
 春休みは、私が小学生のママになって一年過ぎた、ということだ。この一年間は私にとって、子供を取り巻く現代社会や環境、教育について、沢山勉強させてもらった日々だった。
 思うに、娘が生まれたのは私のため、つまり、私が人として練られた品性を持つために、与えてもらったのだと、近頃は何度も感じている。

Twitter20万超バズ、努力なしで物事は上手くいく(らしい)

今日は、夫がCM撮影、娘が日直当番という、ハレの月曜日である。

近頃、春眠暁を覚えずの私は、起きられない。朝、リビングから聞こえる、「今日はパパと私の楽しい日だね~」という娘の元気な声で、やっと目覚めた。リビングに行くと、テーブルには夫が作った豪勢な朝食が並んでおり、料理のセンスに感心しながら、コーヒーを片手にソファにドッカと座って、二人が向き合って食べるのを眺めた。

聖書にこんな所がある。
「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」
ローマ人への手紙 9章16節

してみると私に与えられた家族こそ、この言葉の体現であって、私のようなダメ女に、かくも素晴らしき夫と娘が与えられたのは、神様のおかげだ、間違いない、とつくづく思う。

閑話休題。

本題にいこう。
夫が作ったリングケースが、猛烈にTweetされた。
先週13日からTwitterでバズりはじめ、14日のホワイトデーには20万いいね!が起こった。むろん、こちら側はなんの仕掛けもPRもしてない。

「初めてバズりを体験した」と夫の仲間は言っていた。
私も身近で初めて、バズるのを見た。
不思議な体験であった。

その時、冒頭で紹介した聖句を思い出したのである。
「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」

そうかもしれないと考えずにはいられない日であった。

こういうのは、あまりにも不思議、あまりにも偶然で、世の中わからないな、と夫も首をひねっていた。

してみると、私たちはそんなに頑張らなくていいのだろうか。
水の流れに合わせるように、運命に身を任せてもっとリラックスして生きていても私たちは幸せになれるのだろうか。

まあ、そんな風に人生について思いを馳せ、もしそれがその通りなら、もっとありのままで生きる姿勢に人生を楽しむ奥義が隠されているような気がする。