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米アカデミー賞ウィル・スミスの涙とデンゼルワシントン会話の意味はこれだ!

3月27日の米アカデミー賞で日本の「ドライブ・マイ・カー」が受賞!おめでとうございます!!
新聞の一面に堂々と載っていたけど、私はネットの「ウィル・スミスが司会者のコメディアンを派手に平手打ちした写真」に釘付け。報道を調べると、司会者が、脱毛症を気にするウィルの妻の坊主頭を揶揄したので、怒った夫が、壇上にあがり一撃を食らわせた事件であった。

 ひょんなことから注目した記事だったが、その後で、彼が主演男優賞を受賞し、壇上で行ったスピーチが感動である。彼は聖書を知っている、神様を信じているに違いない、と私は思った。
 殴ったシーンが山ほどYouTubeに載っている反面、みんなに見てもらいたい、彼の主演男優賞のスピーチは残念ながら量産されていない。唯一見つけた、海外のTwitterの動画を紹介したい。24秒後からのコメントにぜひ注目!

 In this time in my life, in this moment, I am overwhelmed by what God is calling on me to do and be in this world.私の人生の、今この瞬間、私は圧倒されています。神さまが私に、すべきことをお示しになっていることに。そして、この世でどうあるべきかお示しになっていることに。

ウィル、このセリフに私は心が震えました・・・!

報道関係はこちら↓

ウィル・スミスは、この涙は受賞の涙ではない、と言って、聖書を知る私としても、だよね、と同感。おそらく、あの涙は、彼が、神様の圧倒的な愛と呼び掛けに感動して流した喜びの涙であっただろう、と分析。

ちょっと聖書を知らない人からすると、「はあ?」ということなのだけど、神様の存在を信じるようになると、それまで自分中心の考え方が、神様は何と言っているだろう、と考えながら生きる人生に変わるようになる。
そうすると、それまでの生き方が大いに変わる。
自分で変わろうとしなくても、変わるようにされる、というべきか。

つまり、自分中心の時には気にしないで済んだ、自分の気持ち以外の考え方について、聖書通読や祈りを繰り返していくうちに、あれちょっと待てよ、神様は「ノー」と言っているのではないか、どうしよう、と困る時が来るのである。なぜかというと、自分の心と、神様が示すものが違う時、自分の心を曲げられるか、と神に聞かれるのである。

もっと簡単に書くと、今の場合、例えば、ウィルは、司会者に対して謝りたくなかった。
神さまを知らなかった頃の彼なら、謝らない。
だけど今は知っていて、神は謝れと言っている。じゃあどうするか、というような葛藤が、最初の24秒後のセリフになっているのではないか。もう一度、読もう。

In this time in my life, in this moment, I am overwhelmed by what God is calling on me to do and be in this world.私の人生の、今この瞬間、私は圧倒されています。神さまが私に、すべきことをお示しになっていることに。そして、この世でどうあるべきかお示しになっていることに。

ウィル・スミスは大スターだ。笑いの種や、パパラッチは日常茶飯事で、嫌なことはたくさんあって、怒っていたらキリがないだろう。今日は咄嗟に(祈る余裕もなく、神の存在を忘れて)殴ったに違いない。

だけど、受賞して、殴った時と同じ壇上に再び上がったとき、(ああ、神様…!!!!)と、神の存在を想わずにはきっといられなかったに違いない。神様、よりによってこんな時に私を受賞させるのですか?!と、ウィル・スミスは、思ったかもしれない。

デンゼル・ワシントンが、平手打ち事件の後に「最高の瞬間に悪魔は囁く。その誘いに負けてはならない」と言ったそうだが、これは、次の聖書の言葉を想起させる。


悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。(ペテロの手紙 第一 3章7節)


この言葉も聖書を知らない人からすると、「はあ?」と思うだろう。かえって祝福を与えなさい、って、凡人が出来ることじゃない。だけど、人には出来ないことが神には出来る。
イエス・キリストがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい(たとえどんなに悪い者であったとしても)、と聖書は述べている。

そのような聖書のことが理解できると、最後にウィルが、「私は愛を受け止める器でありたい。愛と配慮を伝える立場でありたい」と言った意味が、なぜなのか、わかるでしょう?

ウィル、神様の話をしてくれてありがとう!
悪魔の誘惑に打ち勝ってくれて、ありがとう!
辛かった奥さんの上にも、ご家族の上にも、祝福がありますようにお祈りします!!

by桜子


PS:そう言い切って、違ったらマズいなとググった所、どうやらウィル・スミスはクリスチャンのようです。よし、フォローするぞ!祈っていたら、いつかウィルにも、インタビューできる日が来るかもね!

神さま、今日のニュースを、そしてウィル・スミスの受賞をありがとう!

クリスチャン生活

「私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう」詩編56:11

コロナ後、最も大きな生活の変化は、ともかく、外に出かけなくなった。この一言に尽きる。
そして、個人的に変わった点は、神さまをぐんと好きになったことだ。

家に居ると、至る所に、神さまの香りがする。
まず玄関、そしてお手洗い。
聖書の言葉が飾ってあるから、無意識に読んでしまう。

そして、室内にあるもの。
愛する家族が立ち歩き、本や、文具が転がっていると、家庭を実感する。
これらはすべて、神様が私にくださった。

生活の中心が家になり、自宅から会議をしていると、働いていても、家族が常に頭にある。
だから、神様のことを考える。つまり、
出勤していた頃より、ずっと神様に心を向けるようになった。
それはつまり、祈りだと、友が言っていた。

10代の頃、祈る、という行為を覚えた。

祈り、とは目に見えず、まったくもって地味そのものである。
特に聖書には、「部屋の奥に入って戸を閉めて、誰にも見られないようにして祈れ」と言ったような記述がある。

つまり、

私は祈っています!と公表はせず、自分の身を低くし、努力は語らず、黒子になって、情熱を神に注ぐ。
静的で、一見すると非力にみえる、この熱量こそ祈りの本質だ。

私は、この祈る機会を、この1年、たくさんもらった。
祈り始める時、最初に神様を褒めたたえると、自分の悩みが小さくなっていくこともたくさん体験した。
創世記には、私たち人間が創られた目的に、神への賛美、がある。
だから、毎日、神様を褒めたたえることを意識して祈ると、きっと神様は喜んで、私たちは祝福されるだろう。

クリスチャンの生活。

それは、祈りに始まり、祈りに終わる。

その人がどのような1日を送っても、祈って、祈って、祈る生活。
それが、クリスチャン生活だ。

オンライン葬儀に参列

去年のGW、私は米国アリゾナにいた。首都フェニックスは、ちょうどその頃、気温がぐんぐん上昇していくシーズンで、私たちの滞在中は、空が底抜けに青く広い日々だった。野鳥のけたたましい鳴き声が、目覚ましのように、私たちを毎朝起こす。帰国後、住んでみたいな、と不動産を少し見てみたが、空想で終わった。それで、良かった。まさか、一年後に世界が激変するとは。

今朝はそんなことを思い出し、空を眺めていると、どこからか鳥の声がした。雀だけでない。何種類か鳥の音がハミングして、それが、いつまでも続く。不思議なことだが、都心の渋谷にも自然はある。アリゾナから帰国したとき、そんな渋谷の朝に気づき、生物の息吹があると知って感動したが、今朝また、そのことも思い出し、心が豊かになった。心を向ければ、聞こえなかった鳥の音が聞こえる。私たちのコロナ禍な生活も、心をどこに向けるかが、本当に大切だと日々感じている。

先月、わが家には訃報の知らせが毎週一回、入ってきた。
うち2つは、昨日まで元気にしていた人が、突然召された連絡だ。

その1つが、小学六年生の死である。

お母さまから「一昨日召されました」と頂き、「こういう状況下なので」と、Zoomによるライブ配信葬儀の案内を受けた。

べべ(仮称:うちの娘)ちゃんの誕生日に、うちの息子と遊んでくださったお子さんへ、良かったら連絡してほしい」と言われ、私が連絡したところ、一度しか遊んでいないのに、「参列します」と返答くださった方々がいた。皆、母親だから、その辛さが痛いほど分かる。

彼女の息子は、ある日具合が悪くなって、何度か吐き、母親は病院へ行こうかと考えたものの、息子に熱はなく、今はコロナだから、病院へ行く方が危険と考え、様子を見ようとなった。

彼は、「吐いたら楽になった」と言って眠ったので、母親もその傍らで休んだ。

翌朝、なかなか起きてこず、よく眠っているな、と母親が思っていたら、子どもの身体が冷たくなっていた、ということだ。
(※結局、検査の結果コロナ陰性であり、死因は不明であった)

これを、悲劇と言わずして、何と言おう。葬儀で、自分をひどく責めた、と母親が言っていたが、誰が責められよう?寝たら子供をそのまま休ませるのは、おそらく、すべての母親が考える判断だ。

私は、どう動けばいいかわからず、近しい数人へ連絡をすると、皆で、ただ、彼女と家族のことを祈るほかなかった。

葬儀後、東京の空には虹が見えた、と彼女が写真を送ってきてくれた。

そして、北海道で葬儀に参列した人からも、北海道に虹がかかっている、と送ってきてくれた写真を転送してくれた。

葬儀後、彼女に、日常が戻ってくる。
息子の不在を、毎日の生活で受け入れていかねばならない。
これからが、正念場だ。

彼女は、そして、子供たちや、ご主人はどうしているだろうか。
心配でならなかった。

それが、葬儀後数日して、Zoomのオンライン祈り会の場に、彼女が参加してきれくれた。
まさか画面に出てくるとは思わなかった。

息子は天国でいま、安らいでいる。また必ず再会できる

そのように希望に満ちている彼女の顔に、やつれきった様子はなく、むしろ、綺麗で輝いているようにすら、見えた。

奇跡だ・・・。
むしろ私の方が、その顔を見て、泣けた。

「死ぬのが怖い、という大人や子どもたちに、メッセージがすごくいいので、ぜひ見てほしい」と、彼女が葬儀の模様を配信したものをYouTubeに上げた。現在、限定公開中だ。

死はけして、終わりではない。

ドイツ人の宣教師、故ベックさんのメッセージも、麗澤大学社会人講座(2014/01/24)で、このテーマについて語っている。動画を読む時間がない方は、ぜひご一読あれ。

聖書が教える育児(2)

5年前、私は2歳の娘との日々を次のようにつづっていた。
「聖書が教える育児」
今日のおやこ格闘

今読み返したら、この頃の苦悩と孤独がよみがえってきた。
私はこの時、本当に育児に疲れ、孤独の中に生き、教会に行っても、寂しさでいっぱいであった。似た境遇のクリスチャンママが欲しかったが、集っていた祈り会は廃止になり、親しかった独身時代の友とは疎遠になり、教会の知り合いとは挨拶を交わしても、祈ってもらえる間柄ではなかった。(頼んだら祈ってもらえたとは思うが)

実家の母親も、夫の家庭方針(自己肯定感を高める。よって、子の要求を極力受け入れる=生きることは素晴らしい、たくさん笑顔にさせる)に関しては、極論を言えば、当時は反対された。例えば、娘が「抱っこ」と言うと、すぐ抱っこする彼に、母親は「甘やかしすぎだ」と言っていた。

これも、私には大変辛いことだった。
だから親を頼るまいと、実家に娘を連れていくことを殆どしなかった。だから常に緊張していた気がする。

しかしあれから時は流れ、自分の考え方は間違っていたと今年になって母親が言うようになり、「宏和さんの考えは正しかったわ、ごめんなさい」と謝ってきた。それもこれも、佐々木正美さんの本を読了したせいだ。(↓こちら)

目からうろこだった、という。
そして、今はぐっと協力的過ぎるくらい、協力的になって、やっと私も、親に安心して甘えられるようになった。実に、人の信念、というのは価値観と生き方を大きく変えるものである。

他にも推薦図書はこちら。

さて、話を冒頭に戻す。この日記の読者(?)から質問メールを頂いた。
「聖書が教える育児」の本を教えてください、と。

それは、こちらです。なかなか読みごたえがある本なり。

ちなみに、前述の佐々木正美さんの方も(子供が言うことを聞かなくて困っている場合)かなり実践的でお薦めですので経済的余裕のある方は、両方購入してみてください。

なお、佐々木正美さんはクリスチャンだそう。
彼の本は過去にさらっと読んだことがあったものの、しっかり新刊を読んだのは、今年が初めて。もっと早く読んでたら良かった。

でも、神様のなさることは最善なので、私の場合、これでよかったんだろう。

追伸:「聖書」と「育児、子育て」をキーにした推薦図書は複数あり、後日書きます。そろそろ眠いので、次回また☆

結婚したくない女

先日結婚したい病の女性について日記を書いたが、
世の中には色んな女性がいる。そうさ、結婚したくないっていう女性もいるのである。

【ケース1:キャリアウーマン、彼あり】
結婚したくない、という女性だって、世の中にはいるのである。

「桜子ちゃん、私、この間自分の心の中を探ってみたんだけど、
 自分は結婚したいと思ってる、って思ってたけど、
 それ、勘違いだった。実は結婚したくないってことに気づいちゃった!
 今の暮らしがいいんだよね」

 ちなみに彼女はキャリアウーマンで、彼はいる。

 私はうん、うん、と頷いた。

 

私の同級生、由加里ちゃんはアーティストだ。
国内のみならず、海外にも留学した実績を生かし、
今もその才を生かした仕事を単独で様々に活躍している。

非常に、しっかり者である。

だが、

そう見えるのは、私だけ。
ンデントな女性に見えるが、
独立して勝焼

一軒一軒
素晴らしい芸術家である。
国内外でその道に邁進し、今はその才を生かして活躍する
素晴らしい芸術家である。

さまざまな場で活躍している。

が、ある日、由加里ちゃんは私に言った。

 「ねえ、ねえ、桜子ちゃん。私さぁ・・・結婚したくないんだよね」

 ふと彼女の顔をみたら、眉毛はハの字であり、どうみても、ブルーであった。
・・・どうやら、悩んでいるらしい。しかし、なぜ!?由加里ちゃんは独身なのだ。
子持ちの未亡人でもなければ、結婚しなくてはならない責務も、傍から見ると
全くなさそうだ。

 そして、私は思い出した。
由加里ちゃんは確か5年前にも同じことを私に言ったのだ。

 「由加里ちゃん・・・。覚えてる?前にもそれ、言ったよ。」

アラフォークリスチャンの結婚(2/2)

「私は結婚したい病でした!」

カツゼツ良く、明菜ちゃんは言い放った。
いきなりそんな告白を始めたので、私はとても驚いた。
目を丸くする私に、
彼女はさらに畳みかけた。

「私、すぐ好きな人が出来てしまうの。
 それで神様に祈ってはダメでダメでダメで・・・。」

うん、うん。(私)

「だから、素直に祈るのをやめたの」

え?素直を捨てた??
神様は直ぐな心を喜ぶ方だったよね!?

「素直に祈るっていうのは聞こえがいいけど、
 自分の祈ろうと思っている感情的な心は、自分の思い。
 御心の祈りじゃない。
 だから御霊によって祈れますようにって」

・・・明菜ちゃん。
御心とか御霊とか、意味分かんないよ。
幼稚園児でも分かるように説明して。

「うーんとね、桜子ちゃん(←私を幼稚園児に見立て始めた:笑)。

 その意味は、こうなの。 
 私が結婚することによって、
 神様に喜ばれる人生を送れるんだったら、
 結婚について祈っていきたいし、

 しないで一人でいることが、神様に喜ばれる人生なら、
 結婚について祈ることを止めることができるように。
 
 ・・・(自分を)ゼロにして祈らなきゃダメだと思ったの」

さて、ここで普通の人(クリスチャンでない人)はどう考えるのだろう?
私はここで思い出した。
似た話を以前にも聞いた。
どうやらそれはクリスチャンにとって、結婚の秘訣らしい。

だが、私は・・・。

と、ここでその話を書くと長いので、割愛する。

以上、明菜ちゃんの結婚までの道のり。幸せが沢山ありますように!

アラフォークリスチャンの結婚(1/2)

先週の週末、結婚式があり、金曜の夜、北軽井沢へ出かけた。

春なのに大雪が舞い、明日はどうかと心配したが、
翌朝は青空に澄んだ銀世界が美しかった。
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今回私が泊まった宿は、教会所有のゲストハウスという宿泊施設で、
結婚式場に隣接しているため、関係者が多く集まっていた。
土日連続で1組づつが式を挙げる予定だったからである。

土曜はクリスチャンでない方が、日曜はクリスチャン同士が、結婚する。

両家それぞれの思いはあろうが、
私としてはクリスチャンの新婦を知る者として
日曜組に興味を持っていた。

明菜ちゃんは私と仲の良いタイプではなかったのが、
ある時を機会に話すようになり、親しくなった。
彼女は私より年上だが偉ぶらず、知る限り、クリスチャン歴は長い。

正直、地味なおとなしい感じで男性に興味はなさそうに見えた彼女が、
しかも、この年にして(失礼)初婚なのだから、JCFとしては励みになり、
心からの祝福を送らずにはいられない。emoji063.gif

結婚式前日、私は彼女に思いを馳せた。
今頃ホテルにこもって明日の準備中かな~などと思っていたら、
ひょっこり結婚式場の広場へ現れた。

・・・(@@)え、どうしたの!何してるの!?

すると、「お昼だから、みんなに会いたくて来ちゃった(照)」
と首をすぼめる。

さらに、宿泊先を訪ねたら「ゲストハウスに泊まっている」と答えた。

え?そんなとこでいいの!?

加えて明日の準備はいいのか尋ねると、

明日のスピーチ内容が決まってないだけでなく、
新婚旅行先も決まってないのに、
式後、新婚旅行することだけは決まってる、と笑う。

・・・マジで!?

っていうか、明菜ちゃん、それ、フツーの人が聞いたらドン引きだよ。

私はクリスチャンだから、なんとなく、そういうのも理解できるけど、
多分、神様の存在を信じていない人が聞いたら、驚くよ。

なのに、この場に来た彼女。

話をする時間はあるか、と聞けば、うんと言う。

そこで、私は明菜ちゃんに結婚にいたった経緯を語ってもらった。

開口一番、彼女が放った言葉は私にとって、爆弾のようであった。

(続く)

友達の結婚式

同い年の友達が、結婚した。

お相手は、一流大学の大学院を出て、
優良企業に勤める研究員である。

だがその点、私の友も全く引けを取っておらず、
有名女子大を出て、欧米等へ学会に出かける才女である。
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と、いうことを結婚式に出るまで、すっかり忘れていた。

披露宴の祝辞を聞きながら、菜々子ちゃんが昔、
「来週から学会なの~」とか言ってたな、と思い出し、
色んなスピーチを聞きながら、改めて彼女の有能さを知り、
ふだん知らなかった面を聞いた。それは、次の通りである。

●入社倍率40~60倍の難関を突破してノーベル賞受賞者もいる研究所に入った。
 (と、教授が仰っていた。私にはそんなことは一言も言ってなかった)
●日頃はノーメイクだが、この日はお化粧をしていてとても綺麗だった。
 ※1週間前に彼女は「(式では)お化粧するけど笑わないでね(笑)」
 と言っていたが、笑うどころか美しかった。

さらには彼女の幼なじみが次のように彼女を評していた。

「奈々子ちゃんて、ピアノもテニスも何でも出来る。
 出来ないことなんてないんじゃないかな?」

えーーーーーーーーーーーーーーーー! 

だが、周囲もウンウンと頷いているではないか。
(知らなかった!奈々子ちゃん、もっと私に自慢して~)

しかし、そこが彼女の彼女たるゆえんを良く表しているエピソードである。

彼女は控えめな、女性なのである。
先ほどから聞いているとスーパーウーマンのようだが、
私から見ると普通の女性であって、
どっちかといえば、能力よりも性格が特筆の、心優しい人である。

おまけに、恥を晒すようだが、彼女はいつも私を褒めてくれるので、
私は自分が凄いのかと思っていたが、現実は反対であった。

(なんだ、勘違いしてたわ。裸の王様だったじゃないのー!)と、
空想の中にいる彼女をぽかぽか叩いた。さっそく彼女にこの話をしよう。
そしたら、きっと笑ってこう言うはずだ。

「えー、桜子ちゃん!私、何も出来ないよ~」

しかし。その日の彼女は、最初から最後まで才女のままだった。
私が知っている、「出来ないよ~」という奈々子ちゃんではなかった。
宴もたけなわで、私は頭の中がこんがらがっていった。

“私は彼女の友達じゃなかったっけ?”
“今までこんなに優秀な人の傍にいて、何も教えを乞うてこなかった・・・”
“いったい今まで彼女の何を見てきたのかしら?”

と、少なからずのショックを受けていた。

それでも、その日は結婚式だ。ともかくめでたい!と結婚を祝福し、
良い気持ちでさっさと眠ろうとして

・・・まったく、眠れなかった。

ベッドに入って電気を消した途端、
目から水がぽろっとこぼれた・・・。

“なにかしら、これは!? ”

結婚式と披露宴で、涙の1滴も流さなかったのに、
目からぽろぽろと涙が出ていた。

とまれ、と念じても止まらなかった。

出会ってから今日までの日々が走馬灯のように浮かんできて、
今すぐ彼女の声が聞きたくなってしまった。

だが、そんなことは結婚式初日に出来るわけもなく、
ただただ悲しくて、何が悲しいのかよくわからないまま、夜を過ごした。

そして、数日後。
悲しみは徐々に癒され、私には次第に結婚式の概要が分かってきた。

私にとって彼女は友達以上の、やはり家族ともいうべき、
身内の存在だったのである。
だから私の及ばない人(夫)の手に渡り、
知らない世界へ旅立ったのは悲しかった!

そして、最後に、彼女が結婚式で見せた姿。
あれは、コインの表であって、私が見ていたのはコインの裏側だったのである。
(※意味がわからない人はコインの裏側をクリック)

だから、私はそこで落ち込むよりむしろ、喜ぶべきだったのである。
両方の側面を知っているからである。

そんな単純なことに気づいたとき、私はとても嬉しくなった。

友達が結婚することは、かくも深いものである。
この年になって、また新たに結婚への想いを深めた。

と、私は心底、驚いた。