アイスティーなぜか、こんなのを夫が作ってくれた。
感謝。
by 桜子
アイスティーなぜか、こんなのを夫が作ってくれた。
感謝。
by 桜子
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」詩篇119:130
「人にはできないことも、神にはできる。(ルカ18:27)」
ブログ更新が滞っている間に、新規プロジェクトが2つ取り去られた。
一つは、賑やかなニュージーランド一家が、日本を満喫して、無事に帰国した、ということ。
そしてもう一つは、中1の娘が渋谷の家を出て、私の父のもとへ行き、そこで暮らしはじめたこと。
私はニュージーランドの家族をもてなす気力はゼロだったが、
全部できたし、箱根にもいけた。
それは、めちゃくちゃ楽しかった。
そして、わが子が早くも独立した。
どちらも全く予想外だった。
娘がいない家は静かだ。
私は、意気揚々と家を出る娘を見て、苦々しく思う(娘は私をうざったいと感じている)と同時に、妻を手放さざるを得なかった父のもとへ、”太陽”を送り込んだ気がした。
かようにして、神の計画と言うのは人には計り知れぬものである。
by桜子
3月、私は怒涛の介護生活は突然に!をブログに書いた。
私は、助けを求めていた。
その結果は、神のみぞ知る。
が、一つ伝えたいことがある。
それは、自分が、やっぱり神に選ばれし者だなって感じているってこと。
実際のところ、私は先月こんなふうに思っていた。
ああ、なんでこんなに疲れるんだろう?!
そうだ、新規の案件がたくさん走っているからだ!
仕事も新規プロジェクトだし、プライベートも新規プロジェクトが2本、走っている!
中1の親になるのも初めてなら、介護も初めて!
3つの案件が同時進行で走っているからパンクしそうなはずだよ、オイオイ!!!
って感じ。
こうなると、脳が疲弊して、誰に連絡するかを考えるだけで、頭がシューシューと沸騰したヤカンのように音をたててくるので、何も考えずに済む外部のメンタルヘルス機関に電話した。
と、
こんな私に、神はさらに新規案件を投下してきた。
それは、ニュージーランド一家の来日(17日間)である!
昨年、私たちはニュージーランドにいて、家を失い大騒ぎであった。
この変な日本人家族(私たちのこと)が帰国後、なんと、私達ロス(=あんたがいなくなって寂しい)になってくださったニュージーランド人のご家族がおられて、時折私たちはビデオ会議などをしていたのだが、半年以上前に「会いに行くよ!」と計画くださっていた。
私にとって、大好きな彼らであるが、今の私は彼らをもてなすのも、一緒に観光へ出かけることも厳しかった。
だが、夫は彼らの提示してきたスケジュール表を見て、
「え?!毎日うちに来ないの?毎晩、うちで食事かと思っていた!」
と、呑気であった。
「いや、それ、私が困るし…。私、まったく余裕がない」と低い唸り声をあげる私に、
「僕、あるよ」と、夫。
夫も私と同じように疲れているのに、この差は何なんだ!と信じられない思いがした。
同時に、そんな彼が誇らしく、尊敬の念もあり、どうしたら私も彼のように振舞える大人になれるのか、と考えた。
by桜子
つづく。
#警報級の雨
♯入学式
♯ニュージーランドの家族と出席
♯ニュージーランド短期滞在から1年後
渋谷にできた新名所、Shibuya Sakura Stage (shibuya-sakura-stage.com)の背景と、母の転居が妙に合う。
♯渋谷サクラステージ
♯転居
♯4月1日
母がわが家に来て、1週間。
明け方、お手洗いに起きた母が、また寝室に戻るドアの音が聞こえ、布団の中で私はホッとした。
この7日間は、年末に引き取った時と今の母の違いに驚かされていた。
今日、起きてこないことをみると、少し落ち着いたか?
母は昨年末、妄想を言うようになった。おかしいと思い、主治医の所に連れていくと、うつ病だと断言する。
副院長「ちょっと精神科だね!!!」
母 「ええーっ!!そんなあ・・・」
副院長「僕には無理!ちょっとこういう状態で診てきたけど、パーキンソン病のスペクトラムで説明がつかない。精神科行って!」
あれから4か月たった。
父に内緒で、私は昨日、母をこっそり病院へ連れて行った。
夫が見つけてくれた、脳神経内科だ。
医者は言った。
「うつ病では、ありませんね」
ですよね?
ですよね?
だから、私、精神科でもらった薬、うちに来てから飲ませてないんです。
「いいと思います」
「それから、脱水症状と栄養状態が悪くて、せん妄がひどくなっている可能性があります。絶対やらなくてはならないのは、理学療法士によるマンツーマンのリハビリです。身体が固くなっています」
採血と心電図を4月3日とることになった。
母は診察中、医師がじっくりと私の話を聞いて問診するので、何度も私を叱った。
が、医者は言った。
「初診は、長くなるものだから、いいんですよ。」
そして、母が早すぎる別れを試みてもできなかったことを吐露すると、
「それは言っちゃ、いけないよ」
と優しく語り、
「生きたくても生きられない人がいるからね」と言ったら母もすぐさま、
「そうです」
と力強く、はっきり答えた。
彼女は、わかっている。
生きなくてはならないことを。
この先、どんなにみじめになろうとも、命ある限り、生きなくてはならないことを。
医師は優しく言った。
「前向きに・・・ね」
私は母の手を握り、暗い夜道を歩いて家路についた。
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。(伝道者の書3:1)
by桜子
♯介護 ♯難病 ♯にぎやかな暮らし ♯仕事と育児と介護の両立
今年初の、ブログ投稿である。
昨年の今頃、私はニュージーランド(以下、NZと略)にいた。
家を失い、7回も住まいを求めて移動し、心底苦しい生活を営んだ。
30年NZ在住の人から、「本、出せるんじゃない?」
と言われるほど、ムチャクチャ奇想天外な日々だった。
Season2:ニュージーランドの家探し~短期移住9 | VIVA!桜子の超気まま渋谷日記since2003 (sakurako.cc)
それで、帰国したら安住の暮らしになるかと思いきや、わが家では密かに様々な試練が与えられていた。主たるものは、「両親」である。
NZ滞在中、私の両親が、それぞれ難病に罹患、義母と母がほぼ同時に大腿骨頸部骨折。
主人と私は、発症時に何かがあると、多忙を極めた。
しかし神は恵みも与えてくれ、
特に要介護3と診断された義母が、退院後、独居生活にもかかわらず、1週間に3回も機能訓練の送迎を受け、そこで友達をたくさん作り、健やかに、一人暮らしを続けている点である。
私達はむろん、うちに来るか?という話もしたが、今はいい、ということであった。
一方、非常に緊急なのは、母である。
父による老々介護を受けていたが、みるみる悪化、昨年末はわが家にちょっと連れてきたが、状態があまりにひどく、予期せぬ介護がスタート。しかし私が、慣れぬ世話と母の状況の酷さに狼狽し、ダウン。
父と私の介護方針は全く折り合わず、従って悩みに悩んだ末、母を父のもとに1月戻す。
が、やはりさらに悪化。母の死を覚悟で父に戻したが、まだ生命力あり。
先週金曜、小規模多機能の施設を見学したが、そこに入りたがらない母を見て、結局、またもや無計画にわが家に連れてくる選択をし、介護生活再スタート。現在要介護2か3の疑いあり。
詳細は割愛するが、現在、行政支援から漏れており、わが家・・・火の車状態。
行政の支援を受けるまで、あと何日待てばいい?
主治医にレスパイト入院を相談したが、断られた。
正しい医療に結び付けたい。
母は現在、わが家にいるのも、私たちに苦労をかけ、申し訳ないと萎れる。
しかし、わが家の暮らしは気に入っているようにも見える。
なぜなら、私が日中そばにいれば、母の友達とビデオ通話させたり、水分や食事補助ができるから。
というわけで、
もしも、このブログを読んで、5分でも母と話せるよ!っていう人がいたら、私か母に電話ください!
(電源オンにしました。※オフになっていたので)
また、うちに来て、母とお茶したり、お話できる~っていう方がいたら、
わが家、散らかってますが、いらしてください。(その間、私、仕事させて頂きます💦)
ともかく、行政の支援を受けるまであと2、3週間を乗り切るのが課題だ。
私は母を横において、仕事できるときはするし、
できないときは、夜に仕事をするってことで、上司の理解も得られたので、毎日祈りながらやってみます!
追伸:①本日は15時~17時は外出なり
②余裕がなくSNSこまめにできず、不義理もあります💦どうかご容赦ください💦💦
神はすべてのことを働かせて益としてくださる(聖書)
by桜子
♯介護 ♯難病 ♯にぎやかな暮らし ♯仕事と育児と介護の両立
「子ども食堂」という言葉がある。
知っている人はそれが何かすぐわかるし、わからない場合、私はその説明からする。
簡単に言うと、子供を集めて食事する場、ということになる。
が、今日までおそらく多くが想起するのは「貧困世帯に食を提供する場」=困り事を抱える人の場、ではないか?
私はこの、「子ども食堂」というネーミングが、非常に良くないな、とずっと感じている。
2021年、東京大学先端科学技術研究センター特任教授の湯浅誠氏が「つながり続ける こども食堂」という書籍を出版した。それによれば、子ども食堂の定義は次の通りだ。
「こども食堂・地域食堂・みんあ食堂などの名称にかかわらず、子どもがひとりでも安心して行ける無料または低額の食堂」
読んで、唸った。こう書かれていると、連想するのはこんな感じか?
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子どもがわざわざ自宅以外の場に出かけ、食事をする。
→何か特殊な事情があるに違いない!
→両親がいない?(かわいそう!) →食べ物がない?(かわいそう!)
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書籍には「福祉っぽい、イメージ?」とあった。人が誤解するのは仕方ないと言えよう。が、実際に、子ども食堂が目指すのは、「子ども」は単なるパワーワードで、焦点をあてているのは、老若男女問わず、地域の全住民が集まれる場づくり、だ。
・人をタテにもヨコにも割らない場所
・地域へ「つながりの提供」
誰かが「場」を提供する。
そこに、年齢も属性も多様な人が行く。
会が持続していくごとに、集まる人たちの相互理解が進む。
そうしたら、同じ地域に住む人たちが、なんとなく誰かを気にして、緩くつながる。そして、一つの居場所に(気がつけば)なっている。それが子ども食堂の目指すところだろう。
だが、残念なことに、人が集まれば当然、トラブルもあろう。意図せずとも、誰かが傷ついたり、傷つけられる。それは「子ども食堂」に限らず、コミュニティーすべてに起こりうる。けれど、それらすべてをまるっと受け容れて、明日を信じ、実行する。
さて、このような事業体は、「金銭」の対価なしに、どこまで存続しうるだろう。
真のチームは衝突を乗り越えてこそ、成長するチームになるが、私はそんな団体を知らず、もし読者の方に、知っている人がいたら、教えてほしい。
子ども食堂を運営するには、少なからず勇気が必要だ。
そして、運営するには仲間がいる。
どんな形であろうと、その思いに共感して参加する、参加者も必要だ。
そして、運営者たちの生活や活動を支援する枠組みも必要で、現在その活動が広がっている。
核家族化、少子高齢化が進む社会は、孤独を感じる人が多く、生きる希望を失いがちだ。
「私がしっかりしなければ」という精神で、今なんとか機能する社会は、男であれ、女であれ、大変な時代だ。
私は、地域が良くなることを願っている。
東京がもっと暮らしやすい街になってほしい。
日本が、もっと、もっと、住みやすくて生きやすい国になればいいと願っている。
by桜子
大人数が入れるような場所を借りて、クリスマス会をやろうかな、と考えた話。
渋谷クリスマス会、ほんとにあった話(1)
渋谷クリスマス会、ほんとにあった話(2)
渋谷クリスマス会、ほんとにあった話(3)
渋谷クリスマス会、ほんとにあった話(4)
の続き。
自分の力なしに、会場が抑えられ、一緒に会を進行くださるメンバーが揃った。
そして、クリスマス会の当日。
開始寸前に、必需品がなくて困ってしまい、急遽、部外者の夫を呼び出し、駆けつけてもらったところから。
夫が、会場に入った。
彼はこの場に来るのは初めてで、メンバーも知らない。
だが、入ると、誰かが大声で彼を呼んだ。
「田中さん…!!(夫の苗字)どうしたんですかーーーーーーーーーーー!!!」
なんということだろう。
プロジェクターの設置を手伝う劇団の一人が、彼を知っていた。
お互い、ビックリ仰天!
結局、駆けつけた夫は、場の流れでクリスマス会を最後まで参加する運びとなった。
後で、参加人数をチェックしたら、総勢50人未満だった。
そのことにも驚いた。
その夜、夫が言った。
5年前のことだから、言葉の正確さは再現できないが、確かこんな内容だった。
「今日のクリスマス会さ、僕、一番のゲストは劇団さんだったと思う。すごく熱心に話を聞いていたよ。
あんな話、今まで、聞いたことなかったんじゃないかなあ…?」
その後、劇団さんはどうしたのか。
実は、連絡先を失ってしまい、私は彼らと連絡を取りようがない。
けれど、私が彼らのことを忘れていないように、彼らもまた、あの時の変な成り行きや、当日のことを、思い出して12月を迎えるのかもしれなかった。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(使徒17:28)
今年はどんなクリスマス会になるだろう。
すべての人にとって、ハッピーな師走になりますように。
by桜子