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sakurako について

Sakurako,a business working woman who live in Shibuya,Tokyo.

毎日わが子を褒めてますか?

 小学生の娘がいる。私は親たるもの、わが子への評価はすべて控えめであれ、と、人前でわが子を褒めることは殆どしなかった。親バカはみっともない、と思った日本人ならではのメンタリティーゆえである。
 だが3年前の夏、子供キャンプのバスで移動中に、10以上年下の幼稚園先生から、こう説かれた。

「親が、わが子を世界一可愛い!!って言わないで、いったい誰が言うの?!」
「もーっ、たっくさん、可愛い、可愛いって、子どもを褒めて抱きしめてください!」

 私はけっこうビックリして、「え?!そうなの?そんなことしていいの?」と返したが、「当たり前です!」と彼女が胸をはったので、私は方針転換した。

未だにそのことを覚えているので、私にとって、相当衝撃だったのだと思う。

 というのは、今日、娘をぼんやり眺めながら、ある感情が沸き上がったので、その会話を思い出したのだ。


 

 かわいいなあ。

 
 わが子をそう思っている自分にギョッとした。余裕がある自分にも驚いたし、親として人並みに慈しむ気持ちがあることにも感動した。こんな私にも、聖母みたいな感情がちゃんとあるじゃない?
 
 目の前の娘は、まだまだ、小さな顔と細い腕で、まるで人形のよう。そんな子が、毎日、自分の頭で考えて、自分の足で、学校に一人で行く、そう思うと感動した。

・・・。


 無言で見ていると、娘と目が合った。彼女は、なんだ?とでもいう顔をして、無言で私を見るので、ニッっと私は笑った。

(わが子よ、母はお前にみとれていたのだ・・・)

 子供と言えど、よく生きている、と褒めてやりたい。学校は必ずしも楽園ではないからだ。

 時々、自分と娘を比べる。

 私は会社を選んだが、娘は学校を選んでない。
 私は会社が嫌なら辞めればいい。が、娘は嫌でも行かなくてはならない。
 私はお喋りする同僚を何百人から選べるが、娘は僅かばかりのクラスメイトからしか選べない。

 娘の方が、逃げ場がない。そんな世界で、子どもは実によく頑張っている、と私は思う。
 本当に、よくやっている。
 
 

 いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
(箴言3:3)


糸井重里に見習う、今日の爪痕

もっと勉強しろ、と夫に言われ、
「ぼぼ日のサイトでも、糸井重里さんが毎日サイト更新しているぞ」と言われ、「どんな駄文でも良いから書け」というので、書くことにした。

もっとも、夫が「勉強しろ」と私に言ったのは、ブログを書くことではなく、私が会社で評価が全く上がらない、という嘆きに対して、それなら自社商品や財務をもっと学べ、という意味だった。

「なんで自分が給料もらえているのか。そこがわかってないとダメでしょ」と、至極まっとうなことを言っている。


だが、私は言った。

「会社の製品が、ぜんぜん好きじゃないんだよ!!」

正直、転職する前から、自分とは全く合わない、と感じていた会社への思いは、今も続いている。だが、私は勤続年数が増えるたび、会社の良さを知り、離れられないでいる。

 
 過去、仕事でメンタルを病みそう(ストレスで帯状疱疹?続き)になった時もある。苦しみもあったが、たくさんの喜びもあった。
 記者でもないのに、なぜ私は、シリコンバレー(西海岸サンフランシスコ)へ行き、アップル社のエンジニア(その32:Apple Engineering manager木田泰夫氏)から、発売直後のiPhoneを操作してもらい、その33:FXPAL(富士ゼロックス出資米法人)伊東健会長直々に、PC馴れ初め、を教示頂くことが出来たのか。

 自分の実力に合わない極上の体験をつづると、前任の役員が、私のブログを読み、読むたびに「ずいぶんいい会社だねえ…」と驚き、会社のCSR貢献にもなっていると思うよ、と応援してくれていた。
 
 第一、このブログ自体、取引先の社長(ガリレオと桜子の関係~これまでの歩み~)が、「桜子さん、ブログやったら?」と、自社システムを使わせてくれたおかげであったし、同社のCTOが頑張れ!と、全くお金にならないブログ管理を無償で手伝ってくれていたおかげだった。

 そして、それが縁で、新春プレゼント堀江貴文(ホリエモン)さん独占インタビューが実現した。彼と出会ったのは、悲しいかな、突然死した、同社の社長ご葬儀が縁だった。

 過去を振り返ると、たくさんの人に助けられたことを、山ほど、思い出す。堀江さんのインタビュー会場は、顧客が無償で貸してくれたし、読者の友達が有給を取得し、カメラマンをかって出てくれ、一緒にいい記事を作ろうと、時に私を叱ってくれた。
 
 最初にメルマガに感想を寄せてくれた企業の方や、会ったこともない読者もまた、私を励ましてくれた(エビちゃんがご縁で、NTTPC広報室に贈り物の続き)。決裁を起案してくれた課長や、下手な文章に赤入れしてくれた編集者や、隣に座っていた同僚の励ましと、関わってくれた人がいて、なんとかやってこれた。

けして、自分の実力じゃなかったよなあ…。(遠い目 (‘_’)。。。)


 夫でさえ、顧客が引き合わせてくれたことで、結婚に至ったのだ。


 会社に入らなかったら、今の私はなかった。

 こうして考えてみると、評価が悪い、と文句を垂れる自分はどうかしていた。
私はいったい、自分が何者だと勘違いしていたのか。

 今日もまた、聖書をもって、この文章を締めくくろう。

いつも喜んでいなさい。(聖書)


#子猫が欲しいfrom渋谷

Today is #TakeYourDogToWorkDay! 

今日はアメリカで、職場に犬を連れて行っていい日、だそうです。わが家には、連れていく犬も、開かれている職場もなかったですが。(1999年アメリカ動物愛護団体が始めた「職場のストレスが低減する」など広まった“職場に犬を連れていこう”運動)

犬、欲しいですね~。猫、欲しいですね~。
でも、「お願いだから、むやみやたらにペットを買わないで」と、トリマー(ペットの専門美容師)の友人に言われたので、わが家は自粛しています。。

 事の発端は現在、ペットが高値で売れることで、悪質な環境下で動物を繁殖させたり、安易に買う人達が増えていることで、飽きたら捨てる、といった、命の尊さを無視した社会になっていることに、彼女が嘆いていたから。

その話を聞いて、

「それなら、わが家は買わないわ。でも犬や猫が欲しいから、もし保護された犬や猫がいて、貰い手に困ったら、一声かけてね」とお願いしました。でも、あれから、うんとも、すんとも連絡が入ってこず……。

 ちなみに、欲しがっているのは私でなく、娘です。

彼女が、「超」が何個もつくほどの動物好きで、一日一回は近所のペットショップへ足を運んでは、お気に入りの犬や猫に触れ、「〇〇に、癒された~」と、帰宅するたび、騒いでいるので、飼ってあげたくなったのです。
というのも、

「私、もし犬か猫が買えたら、なんでも我慢できるわ」

と言うので、もしかしたら、苦手なアレやコレも、犬や猫がいたら、乗り越えらえるのかな?と考えてしまいました。

神さま、プリーズ!


求めなさい。そうすれば与えられます。
捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
(新約聖書マタイ7:7)

ああ、小学校よ、プールはなぜ赤い帽子必須か?

 大人の時間軸と、子どもの時間軸は違う。私の仕事に季節はないが、子どもには四季折々の行事がある。
 日中、私はスタジオ収録(なんと!テレビ番組「情熱大陸」のナレーター窪田等さんとご一緒)で忙しかったが、夜に夕食を食べていると、子供から「明日はプール開き」と言われ、慌てふためく悲惨な夜を過ごした。
 
 何が悲惨だったかというと、「ある」と思っていた赤い水泳帽子がなかった。黒や紫はあるのに!私は子どもが寝静まる時間になって、家中の引き出しや収納ボックスをひっくり返していた。

amazonに発注すればひとポチで済むのに・・・と時計を見たら21時。(さすがにムリ)


 パジャマ姿の娘が、「神様、見つかりますように」と祈る声が背後で聞こえ、(そういえば、祈るの忘れてた。そもそも祈って見つかるっけ?)と、不遜にも思ってしまっていた。明らかに自分の監督不行き届きで、神に祈る後ろめたさがあったせいだろうか。

私はあちこちの引き出しを見ながら、自分を強く責めていた。

仕事は誰にでもできる。だが、この子の母は私だけ。
週末に時間はあった。なのに、どうしてその時にプールの準備をしなかったのか。
愚かな自分に腹が立って仕方なかった。

「誰にでも失敗はあるよ」
「探す時間を決めて、見つからなかったら、もうあきらめたらいいよ。」
「大したことじゃないよ」
「プールを休むことが神さまの御心かも!私、ホントは明日休みたかったの。」
「そんな深刻にならないで。大したことじゃないよ」

これらはすべて、私が必死になっている傍らで、娘が私に投げかけてくれた言葉集だ。
私は上の空で相槌しつつ、どこだろう、とひたすら考え、探し続けていた。
すると、娘がタタタと洗面所へ駆けていったかと思うと、また私の所へ戻ってきて、ニールズヤードのアロマパルス(=リラックス効果のあるアロマ)を、私の耳後ろに、ぬりぬり、と塗りだすではないか!!

そ、そんなに気を遣わないでくれ…


なんだかすべてがイヤになってしまった!私はただ自分が情けなかった。

結局、この責任は夫が拭ってくれた。
23時帰宅した夫が、室内の泥棒に入られたような状態を見て、私の嘆きを聞き、24時間営業のドン・キホーテを見つけ出して2件駆け回ってくれ、「大人用水泳帽子赤」を購入してきてくれた。。(※1件目に帽子はあったが、赤がなかった)

眠い目をこすりながら、赤い帽子にチクチクと苦手な裁縫を施し(amazonにあるような名札付はなかった)、名札を縫いつけた。

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」(伝道者の書7:14)

正しく生きる

 人生はいつも、選択の連続だ。朝ごはんは、パンかご飯か。今朝は外にいくか、いや家にずっといようか、とか。


 最近、私が悩む選択肢に、“悩んでいそうな人に手を差し伸べるか、否か”、というのがある。
風の便りに、困っていると聞いて、「どうしよう、連絡して、何か提案したら役に立つかな?いや、ほっておけばいいかな」というので、かなり悩んで、ひどい時には友達に相談までしてしまう。

 昔は気にならなかった、遠い存在の他人。
それが、数年前から「気にすべき人」のカテゴリーに入ってしまった所以である。


 なぜ自分がこうなってしまったかというと、「他人を愛することは、クリスチャンの使命だよ」と説く人の話を聞いたからである。恵泉塾の水谷牧師は、隣人愛の大切さを訴えている人だった。

「私たちクリスチャンは、祈りと神さまの愛をもって、隣人を愛し、愛し合う世界をこの世につくること」

 若かりし頃、私は信仰を持った。信じることが、その先の人生をどう変えるか考えもせず、神さまはいる、と存在を受け入れた。
 だから、聖書の学び会で、「聖書に〇〇と書いてある」というのを聞いて、ショックを受けたのは、一度や二度の比ではない。聞けば聞くほど、浮世離れした聖書の中身。そういうことなら、信じなければ良かった、と思ったこともまた、一度や二度の比ではない。だが、信じてしまった自分を、そうでないことに変えることは不可能だった。
 今になって、20代の私は聖書の中身をよく分かっていなかったかも、と考えることがある。が、当時はそれが精いっぱいだった。自分なりに到達した教えを胸に、一生懸命、神さまに喜ばれる生き方を志していたと思う。
 
 「絶えず祈りなさい」という言葉が聖書にある。クリスチャンというのは、一般の人から知ったら驚くほど、よく祈る。話はそれるが、主人は私と結婚してから、「祈ってます」とメールに一切、書けなくなった、と言っていた。祈ることが、どれほど深く、心を捧げる行為か、というのを間近で見ているからだと思う。
 話を戻す。
 で、私は20代の信じ始めた当初、ともかく他人の救いをよく祈るようにしていた。だが、「祈り以外の時間は何すればいいの」、と非常に悩んでもいた。広告代理店でも、そのあと転職したネットベンチャーでも、聖書の「せ」の字も知らない人達に神様のことを話す機会があれば、神さまの話を伝えつつ、その悩みは常にあった。
 それが、40になってやっと、他人を思いやることだよ、困っている人に手を差し伸べて生きることだよ、と言われ、生きる意味が、腹に落ちていた。

 そして今、他人を愛する、という言葉の重みを痛感している。

たとえ私が真心から手をさしのべても、他人にすれば、おせっかい、になることもある。
経済的にも、時間的にも、犠牲がある。デメリットが分かっているのに、神さまの役に立ちたい思いもある。面倒くさい、という正直な思いと、高き理念との間で逡巡していた。


そんなある日、クリスチャンの友達にこう言われた。

「桜子さん、あなた、正しく生きよう、と思っていない?」

「神さまはそんなことより、まずあなたが、神さまと“コネクト”することを求めているよ」
と彼女は言った。

それを聞いて、私は軽い衝撃を受けた。心構えはいいけれど、本質を見失うな。正しく生きることを目指すより、まず神との接続を目指せ、と聞こえた。
 してみると、神さまというお方は、私が正しく生きなくても、私を愛する思いは変わらないお方であった。私はそれを聞き、肩の荷がすこし下りたのを感じた。

「わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ」(箴言24:26)


神さまは全知全能で、何でも持っているお方だが、あなたの心だけは持っていない、とある宣教師は言っていた。
私たちの方に、心を神に向けるタスクがある。コネクトすることだけが、私たち人間に求められている。
きっと正しく生きることよりも。

by桜子

2年目の在宅勤務

日経新聞5月19日付

「恋も 2度目なら~ すこしはじょおずに、愛のメッセージ、伝えた~い♪」

どうしても90年代のアイドル、中森明菜のセカンドラブの曲が、この記事読んでから、私の頭から離れない。


「リモート 2度目なら~ すこしはじょおずに、会社の業務を、さばきた~い♪」


なぜか、家だと、ついつい残業しがちなのよね。

大坂なおみ・全仏テニス会見拒否は神さまからみてどうか?

 女子テニスの大坂なおみが一昨日Twitterで発言した件、わが家の会話を今日は呟く。要約すると、今月30日開幕のテニスイベント「全仏オープン(グランドスラム)」で、彼女が全ての記者会見に応じない旨を事前に表明して、それはどうよ?と物議を醸している話。
 金曜の朝、リモートワーク前にSNSをチェックした限りでは、概ね、世論はなおみについていた。「良く言った!」という声も多くみられた。私自身はワイドショーで、セリーナウィリアムズ(米選手)が過去の敗退試合を受けて、記者から「引退では?」という失礼な質問に対し、極力平静を努めて回答する様子を見て、可哀想、と、なおみ側についた一人である。そもそも、大阪なおみ自身、いま世論を味方につけやすい人気スポーツ選手である。
 
 「負けても会見しなくちゃいけないなんて、可哀想よ。うん、うん」と私が頷いていたら、ソファに座っていた夫の見解は違っていた。

 「僕はそう思わないね。スポーツはエンターテイメントだから。負けた時に対応するのも、エンターテイメントである限り、応えなくちゃ。賞金をもらってスポーツをしている以上、それは仕方ないよね。それも、エンターテイメントの一つだから。いやなら、アマチュアでやればいいわけだから」と、バッサリ。

 「じゃあ、あれかな、なおみの発言は、傲慢である・・・と?」

 「うん、そうなるね…。」  

一見、冷酷に思えた見解を聞いて、私はすぐ、【インタビュー】スポーツビズ山本雅一社長の起業話ほかで、山本さんから紹介された本を思い出していた。プロスポーツはビジネスだ、ということがこの本にはシビアに、しかし明確に書かれている。良書だと思う。(もう売ってないみたい)

 今の、コロナ禍東京オリンピック実施も、オリンピックで代々木公園の森林伐採問題のパブリックビューイングという矛盾した設計も、すべてはお金が絡んでいるからこそ、おかしくてもやらなきゃいけない理論がある。

とはいえ、夫の見解は、今の世論には反発買いそうだな、と思っていたら、昨日ノバク・ジョコビッチ選手が、夫の側であった。


=MSN記事からの抜粋=
ジョコビッチは27日、報道陣に対し「彼女なりの理由があるのだろう。時に記者会見が非常に不愉快なものになり得るというのは理解できる」と大坂に一定の理解を示した上で、「これもテニスの一部であり、ツアーに参戦する選手には付き物。やらなければならないことだし、そうでなければ罰金となる。女子のことは分からないが、少なくとも男子ではそのようになっている」と述べた。=

私自身、ちょっと思ったこととしては、タレントの深田恭子さんのことを思い出した。いま、体調不良ですこし休むという。有名人は、高額報酬を受けやすいが、ストレスも多分に受ける。彼女だって記者会見に応じたくないことが、これまで山ほどあったに違いない。


 そう考えると、神様の目から見た時、大阪なおみさんって、どう映るんだろうな?と思った。ジョコビッチの発言を見ると、選手歴がまだ若い彼女がこのような公表をしたことは、同情の余地はあるが、「高ぶってないか?思い上がってないか?」と、なんとなく彼女の態度を考えてしまうところがある。

 とはいえ、もちろん私がスーパースターを裁く立場にないことはもちろん、彼女の生き方に何かを言える者ではまったくない。

 一般庶民としては、まずこの発表後の流れを静かに見守り、彼女が今大会でどのような結果を出すのか、注視したいと思う。

オリンピックで代々木公園の森林伐採問題

 昨日、「「自然破壊」と批判殺到。代々木公園で東京五輪関連会場建設へ、樹木の剪定作業が始まる。 | ハフポスト (huffingtonpost.jp)」に似た記事を読んで、目を疑った。
 国民の7-8割が反対しているともいわれる、東京オリンピックの視聴のために、東京では代々木公園と井之頭公園のパブリックビューイング(=屋外の集団視聴)が計画されていて、うち代々木公園に至っては、8m以下の木を一部切る予定、という。嘘でしょ?!

CHANGE.ORG


 今朝、もしそれが本当なら、なぜ朝のニュースで一番に報道しない?!と私はNHKをチラ見しつつ、リモートワークを後回しに、朝一番、ググって調べてみた。
 事の発端は、オンライン署名サイト「change.org」に掲載されている、キャンペーン · 代々木公園の自然を破壊する、東京五輪2020ライブサイト計画の中止を求めます #代々木公園の木々をオリンピックから守りましょう · Change.org という行動から来ていた。この著名運動の発起人は、なんと日本人でなく、Rochelle Koppさんという外国人と思しき方である。(※もし日本人でしたらすみません)

 どれどれ…と、リンク先の記事を一つ一つ読んでいくと、分かったことがある。オッと危ない、危うく恥をかくところだった。伐採とは書かれていない。「剪定(せんてい)する」とあった。念のため、意味は調べたら、ネットにはこう書いてあった。

目的

  • 作業管理が容易にでき、同時に果実の重量を支えることができる骨格枝を作る。
  • 栄養生長 と 生殖生長 を調整し、 隔年結果 の防止と樹勢の維持を行う。
  • 樹冠 全体に日光が当たるようにし、果実の高品質化と品質の均一化を行う。
  • 病害虫に侵されている枝を除去し、発生を抑制する。

なーんだ、どれも木の健康を保ってるのね、私は安堵した。それなら必ずしも自然破壊、とまでは言えないのでは。もっともその通りやるかどうかという疑念もあるが、少なくとも、根元から木が根絶されることはないと知った。そうだよな、たった数日間のために、木を伐採するなんて、良識的な日本人が、そんな愚かしいことをするわけもない、と思った。いやいや、ネットメディアの情報に早合点は危険である。良かった、調べてみて、と思った。

 だがしかし、その良識的な日本人が、コロナ感染で大騒ぎしている中、「パブリックビューイング」を去年の暮れに計画していた!こんなことがあってもいいのか?!いま、小池知事が口を酸っぱくして「不要不急の外出を禁止」と言っている一方で、パブリックビューイングを必要な外出として計画している、その論理が分からない。オリンピックが開催される7月は、緊急事態宣言解除後だから、不要不急以外の外出を許可、という算段なのだろうか。

 オリンピック間近になって、しれっと、パブリックビューイングをアナウンスするつもりだったのかもしれないが、バレてしまった、という感が否めない。
 こうしてみると、今までは私たちも声をあげる場所がなかったり、メディアといえばマス四媒体(テレビラジオ新聞など)しかなかったから、その情報に惚けていられた。
 それが今はオンライン署名サイト「change.org」でオリンピック反対署名数は35万人、と数字が露わになってしまい、海外にも報道される始末である。ああ、この先のオリンピックはどうなるのか。私たち、日本人は世界でどんな国になっていくだろうか。

いつも自分を吟味して

「自分は至らないものだと、だれでも一方では思っていながら、他人に対する時は、多くの場合自分一人がよいものであるかのような気になって、他人の不行き届きを不快に思い、心ひそかに咎めたてをしているものです」
 ※羽仁もと子(国内女性初ジャーナリスト、自由学園創設者)の“愛と寛容”より

私たちはみな、自分自身が主役、というドラマを生きている。
朝目覚めた瞬間から、私のストーリーは始まっている。できればハッピーな記録をつづりたい。
だから、そのための工夫もするし、困難は克服しようと努力する。

7年前、朝の通勤で券売機を前にカバンから財布を漁っていると、おじさんが体当たりしてきたことがある。一瞬、何が起こったか分からず、面食らった。育児休暇を明けて3年ぶりの出勤だったから、動作が緩慢だったのか、私が邪魔だったか、単なるストレス発散か?

こんな災難を思い起こしていたら、渋谷の道玄坂で、女子高生がリュックを投げつけられ、怖がっていた姿が記憶によみがえってきた(渋谷センター街のキレ男)。

どちらもこの場合、加害者に非がある。と、私は思う。だが、本当にそうか?

分かりやすい例より、分かりにくい例は、日々の暮らしにある。近しい親や、夫、子供の存在。友達や、日々やりとりする職場の人達。そして表に出れば、出くわす近所の人々。口開くとき、楽しいこともあるが、不快な思いをすることもたくさんある。そのとき、私たちはだいたい、自分を正しいと思いがちで、相手を一刀両断して、非難し、疎ましく思ってしまいがちだ。

羽仁もとこさんは、
「世の暗黒な方面について考えてみても、大小すべての罪悪はことごとく他人を憎むこと、少なくとも愛していない冷淡ということから来ています」と上記の書籍で、続けて記述しておられた。
そのあとの文章も、味わいある内容なので、紹介したいと思う。

「ひきかえてこの世の光明の側について考えると、すべての幸福が皆われわれの愛と同情から来ているのです。私どもがもしも(中略)、今でも少しでも(人を)余計に愛することが出来たなら、それだけ多くわれら自らが幸福になり、また他を幸福にすることが出来ます。

さらに進んでもう少し余計に愛することが出来たなら、自他の幸福がまたそれだけ余計になります。

そうしてこの愛するとは、あえて物を与えるのでもなく、また世話をやくというのでもないのですから、貧しい人にでも力のない人にでも心次第で必ずできることです。ただわれわれの心を愛深くすることが、賢い人にも賢くない人にも、一様に一番むつかしいことなのでございます。


私たちは毎日忙しい。
いちいち、自分が感じていることを、自分以外の目線や価値観でどうかと、世の中を見直す暇もない。
だからこそ、いつも自分を吟味して、と思う。
他人をいつも愛せたら素晴らしいと思う。
なかなかできないのだけど。

羽生もと子選集「最も自然な生活」

いま、けっこうおススメです。

オンライン授業を加速せよ

昨日の雨雲が一転、今朝は鳥のさえずりが聞こえる渋谷である。
「気持ちいい」と好天に喜び、娘はいつもより早く家を飛び出し、二日ぶりに学校へいった。

過日、区内に児童感染者が出た報を受けて、しのびよるコロナの影に、わが子は素直に怯えた。
「学校……行きたくない!」

 一年余前の一斉休校時、最も気になったのは子どものストレスだ。大人と違い、小学生は基本的にSNSがない(許可している家もある)。家族以外の交流がない新たな日常で、メンタル面を心配した。
 幸い、わが子の場合、その心配は稀有だった。外に出ると、同じく休校中の子どもたちが出てきて、友達化し、仲間のような連帯感がうまれていた。そして家ではむしろ、マイペースで過ごせることに嬉々として過ごしていた。
そのため、休ませても引きこもりになることはないだろう、と、まずは子どもの心を尊重し、学校へ欠席連絡を入れた。

担任は、「コロナ感染予防で、欠席扱いにはなりませんからね」と優しく応えてくださった。
が、私が気がかりなことは、出欠席の日数ではない。予防終了日が予測不能なことと、教育機会の喪失だった。
「コロナ感染は、命に関わりますから」
と、先生はなお、休むことを気にするな、と私を気遣ってくださったが、私はワクチン接種までの数か月間、予防で休めるのは良いとしても教育はどうしよう、と考えていた。渋谷区はICT導入が盛ん、という印象があるが、今年になって新タブレット端末が導入されたように、実際は道半ばであって、オンライン授業の本格導入には至っていない。

 予防で休むことについて考えていると、「うちの子はマスクがダメで」と言っていた、武蔵野市のママのことを、私はふと、思い出した。すでに一年以上、家で子供の勉強を見ている。最初は父親が教えたそうだが、子どもと喧嘩になってしまうため、母親の出番となった。想像すると、その苦労は他人事ではない。
 幸い、わが子は、いくつかの証言により(友人の学校教員曰く、学校での濃厚接触の可能性は少ないという)学校に行く勇気が出てきたため、今日から登校してくれた。正直、ホッとしている。

 日本の公立小学校は、様々な教育の問題があって、オンライン授業の取り組みは、決して簡単ではないと重々承知している。だが、学校インフラ、教員のITスキル、家庭のITスキルの3軸で支援していかないと、オンライン授業は実現できない。なんとか、政府や市区町村に引っ張ってもらい、教育機会の創出をさらに進めてほしい。