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sakurako について

Sakurako,a business working woman who live in Shibuya,Tokyo.

試練に直面した時、聖書のことば

「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」詩編84:5

人生には、様々な出来事が織りなされる。胸が張り裂けそうな悲しい事や、悶々状態の苦しい事、理解に苦しむ理不尽な事、なぜ自分にとわけがわからないような事態が起きる。苦しみや悲しみは、クリスチャンにも未信者にも同じように起きる。

クリスチャンになれば、苦しみや悲しみが無くなるのではない。
同じように置かれている。

しかし両者は異なる。

その違いは、神を信じる人は、どんな苦しい事、悲惨な事、悲しみの中にも、神を認
めて行く。そこに神を見て行く。神を信じているからだ。だから涙の深い谷を通る時も、感謝が湧く所とする。そこに神がおられ、神の愛、慈しみ、助けを実際に体験して行くからだ。

神を信じない人は、どんなに素晴らしい事があっても、そこに神を認める事は無い。神に感謝する事も無い。ラッキーであり、ただの偶然にすぎない。

信じる人は何があっても、どんな事が起きても、そこに神を認め、神の愛を信じる。どんな悩みが来たとしても、神を信じているから、涙の谷であっても、そこを泉の湧く所として行
く。

そこで神を見、神に出会って行く。何をどうして良いかもわからない、まさにどん底で、慰めや平安の泉が湧き上がる。

なぜなら、そのどん底に神がおられるからだ。信仰とはそういう事だ。もし思い煩いや、不満、怒りがあるなら、神以外のものを頼り、見ているという事になる。どんな苦しみの中でも、そこが泉の湧く所とされる。
シオンへの大路にある人、神に向いている人は、幸いを経験して行く。

上記全文、広島の教会にある日々の光のメール配信より抜粋。

在宅勤務、北欧流で快適

 先週の日経夕刊で、北欧諸国のテレワークには、同僚と週二回コーヒーブレイクがあるという記事を読んだ。羨ましい。雪景色を眺めながら、コーヒー片手にPC。想像するだけで、仕事がはかどりそうな雰囲気。

 フィンランドは、国民一人当たりの年間コーヒー消費量が世界トップレベルで、業務内にコーヒー休憩時間を確保することが必要な場合もあるそうだ。確かに、家で仕事するようになると、気づく。人間の集中力には限界がある。効率よく働くためには、メリハリが必要だ。家だと、うまく息抜きしないと、頭ばかり疲れて、身体が重い。おまけに家中心の生活の中で、情報は限られ、運動不足になる。
 
 私も、情報はともかく、運動不足に悩んでいる。意識しないと、運動を忘れる。一日30歩しか歩いていない気がする、と眠る夜が、何度も続いている。

 会社は在宅勤務が主流になって、様々な試みを半年前に始めているが、正直、今の所、イケてない。

 例えば運動。配信時間が、業務時間外に設定されており、勤務中に身体を動かすなよ、という会社の圧を感じて、ガッカリした。次に、社内コミュニケーション。参加してみたら、社内というより、トップとのコミュニケーションタイムであって、気を遣ってしまい、中身が違うな、と感じた。運営する事務局に、ZOOMのブレイクアウトタイム機能(大勢の参加者を少人数のグループに分けられる機能)を使えばいいよ、と教えたが、決裁がその都度必要になるそうで、運営側も苦労していた。

 今日も在宅が始まる。今週一週間も、セルフマネージメントができますように。

ステイホームでも外国気分・ナショナル麻布で買い物

子供が赤ちゃんの頃は、よく来た広尾。

久しぶりに通りかかったので覗きに寄った。

15分なら駐車無料。2,000円以上買えば、1時間駐車無料。

店内はやっぱり外国人率高かった〜。皆さん、どういう人だろ?

夫と、ふだん買わないものを選ぼう、ということで、今夜の夕飯に、外国パッケージのチーズやデカデカのマフィン、クスクスに、シンガポールチキンなどの惣菜をチョイス。

家に帰ったら、ボジョレーでゆっくり食べよー!

今夜は、子供は友達の家でお泊まりなり。

お二階の雑貨

急いで帰らなくても良し。海外グッズをチラ見。

外に出たらポインセチアが綺麗。

もうすぐクリスマスである。

銀座にやってきたよ

静かな銀座

約一か月ぶりの出勤に合わせ、今日の午後は半休して銀座へ。

社会人になってからの職場、銀座に来ると、やっぱり清々しい感じ。

でも、あの頃にはなかった、マツキヨやサンドラッグの店舗がチラホラ…。

吉野家だけは昔から四丁目にあったけど、今もあるのかな?

と、思ったら、あった!

なんだか、うれしい。

あのママ友は私のことがキライ

「あのね、あのママ友は、私のことがキライだと思うの。」

と、ランチを食べている最中、目の前のママ友が、言いにくそうに私に言った。

「え?」

私が怪訝な顔をすると、「今日(彼女が)ここに来ないのも、私のことがキライだからだと思うの」と神妙に言う。

「いやいや、そんなはずはないよ。」

と私は否定したが、彼女はキッパリ否定した。
「そう考えると合点がいくことが今まで何度もあったの」

つまり、この日は当初、ママ友3人でランチすることになっていた。が、約束したのは2週間も前だ。詳しくは前日に、というユルい約束であったため、前日、主催者のママと私は連絡を取り合って待ち合わせ場所を決めていったが、もう一人のママ友への連絡がどうなっているかが私は気になって「連絡しなくていいか?」と彼女に聞いたが、返信がなかった(ので、そのままにした)という状況だった。

「私たち、仲良く思われているけど、実は彼女とはそんなに仲良くないの」と、彼女は困った顔をしてみせた。

「そうなんだ、へー、知らなかった…。」と返事しつつ、私は彼女の方が、もう一人のママより、もっと知らない人だった。私は、もう一人のママを知っているつもりだったから、「あの人は、そういう人じゃないよ。何か不都合だったんだろう、と思うよ」と進言したが、却下された。

だが、その時、タイミングよく、私の携帯にLINEの通知が来た。彼女が、グループ宛に送った内容で、私たち宛ではなかったが、「金曜から忙しすぎて寝込んでる。今日は家でダウン!!」とあった。

・・・ほらね、ほらね!!

あなたの思い込みだよ、と私は彼女にすぐさま、容態を伝えたが、彼女は納得できない顔をして黙っていた。
その様子を見ていたら、私の脳裏に、にわかに聖書の言葉が浮かんできた。

罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている(創世記4章7節)

彼女はクリスチャンで、もう一人のママ友もクリスチャンなのだが、こういう展開になってしまったのである。
2人が仲たがいして一番喜ぶのは、サタンであろう。
そもそも、最初に彼女は、「あのママ友は、私のことがキライだと思うの。」と、当初、推測で発言していたのに、いつから確信に変わってしまったんだろう?

それはまるで、蛇がそそのかして、エヴァに善悪の知識の果実を食べさせたように、
蛇がそそのかして、彼女にママ友はあなたのことがキライなんだよ、と思い込ませているようだった。

私がいくら言っても、一度作ってしまった固定概念を捨てるのは、彼女には難しそうだった。
私は観念して、叫んだ。

「百歩譲って、彼女があなたのことをキライだったとしても、だから何?!
人を見ない方がいいよ!人を見たら(信仰は)つまづくよ。私だって、信用しちゃだめだよ。信用できるのは神さまだけだよ!」

自分が通ってきた道だからこそ、分かる。
そして、彼女の発想は、私にもありがちな発想だから、よく分かる。
一度悪い方に思い込むと、それが、その通りであるかのようにだんだん思えてきてしまう、という現象だ。

夫はよく、「ニュートラルに物事を見ろ」と言うが、先入観を捨てて相手を見るのは実に難しい。
好きな人が行う行動は、好ましく見えるし、苦手な人が行う行動は、すべて穿って見てしまう。

だが、イエスキリストだけは、昨日も今日もいつまでも同じである。
その神様が、私たちと共にある。
邪念を捨てて、目の前にある事実だけを受け取るのである。

言うは易し、行うは難し。

それでも、創世記4章7節は続きがある。

「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである

いつも治める人間でありたいものである。

朝ごはんドラゴンフルーツ

昨日、実家で持っていけ、と言われて、それなら、と大して喜びもせず、持って帰ったドラゴンフルーツ。

食べたら、美味しい。

栄養価はなんだろう?と調べたら抗酸化作用抜群のスーパーフードで、一番甘味が強い、レッドタピアだった。

抗酸化!アンチエイジング!

お父さん、お母さん、ありがとう!!

人間が創造された目的

神は仰せられた。

「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」-創世記1:26

9月に入ってから創世記を学んでいる
これが、たまらなく面白い!
 
 私にとって、聖書とは、小学生から知っているもので、「創世記」は、聖書を開くと最初に出てくる章である。
「初めに、神が天と地を創造した」は、最も有名なフレーズの一つだろう。子供向けの絵本もたくさん出ているから、聖書を知らない人でも創世記辺りの内容は、理解している人が多い。俳優の織田裕二も先日、NHKのBS番組ヒューマニエンスで、「アダムとエバ」と喋っていて、私などは、おお、織田裕二も知っている!とひそかに驚いたが(失礼)、同様に私自身、知っとるわい、とたかをくくっている章だ。だが、学びを始めて、気づいた。本当の意味で、私は、創世記の本質を掴んでいなかったのだ。

 学びのグループ(BSF:バイブルスタディーフェローシップ)内で、こんな設問がある。もし、ここにクリスチャンの方がいたら、ぜひ、以下の設問を読んで、回答を考えてもらいたい。


Q1.創世記第1章1-2節を読んでください。「初めに神が天と地を創造された。地は漠然として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた」
  これらの節は、神と創造について何を明らかにしていますか?

Q2.これらの節で最も興味をそそるものは何ですか。

 創世記は、天地万物と誕生が描かれている。私は、聖書にある通り、神が創られた、と信じているから、毎日祈って、暮らしている。

 だが、神が作られたにしては、この現実社会のありさまは酷いものである。日常に理不尽や不条理は、溢れている。「必ず正義は勝つ(※)」と日本人はよく言うが、そうでないことは誰もが知っている。 (※正義は勝つ、は聖書の言葉でない)
 トランプ大統領のでたらめぶりも、ゴーンも、かつて偉大なリーダと称された人が、好き勝手やっている。裁判を免れて国外逃亡に成功した様子を見ていると、彼の生き方(大金を稼ぐ力がある、悪賢さは大切)こそが、この世での勝利、に映る。
 
 そんな中で、聖書は言う。聖さを追い求めよ、やがてはキリストのようになれ、と。右頬を打たれたら、左頬も出せ、というのだ。
 ムリである。

 常々、クリスチャン(の生き方)は損だよな、と苦しみもがいている。 
 
 過去何度も、クリスチャンは損だから(信じるのを)やめよう、と思ったのに、そのたびに、連れ戻された。
私は信じているから、信じていなかったようにふるまうのは出来なかったのである。

 仕方ない、逃げられない。私はクリスチャンとして歩むしかない。これまで幾度そのやり取りをしたことか。
そんな私は、結婚して、この世的な幸せを掴んだわけだが、クリスチャンは損だ、という考え方に変化はなかった。

我ながら、矛盾を抱えつつも、悩み苦しんでいる人がいれば、聖書の話をしてしまっていた。
信じない方がいいと思うのに、困っている人がいると、勝手に口が聖書の話をしてしまうのである。

まあ、この話は別ですることにして、ともかく、神様を信じるものはいったい、何のために、生きるのか---!
これが私の大テーマであり、長年、この問いに対して、ろくな答えも見いだせないまま、生きてきた。

そんな私の祈りとは、ざっくり言うと、こうである。

 「神様、助けててください、できればこうしてください・・・でも、神様の御心に従います」


たとえて言えば、目の前に出てくる巨大な壁を、日夜ハンマーで打ち叩いて、打破していく毎日だ。常に、戦っている私。

つまり、 私が祈る意味とは、ひとえに、苦難を克服するため、だ。
一章ずっとこんな風に暮らして、死ぬまで戦い続けるのかと思うと、内心、暗くなっていた。
祈り忘れたら、壁が巨大化してくるので、祈りをやめるわけにはいかない。私に安らぎはないのか・・・!と。

ところが、創世記を学んでいると、衝撃の事実が発覚した。
私の解釈が間違っていた。

 創世記一章を読んで、分かったことは、すべての被造物は神を賛美するために創造された、という。
つまり、祈りとは、自分のためにするのでなく、神を賛美するために、

神のためにする

、というから、吃驚だ。

・・・ちょー、ショック。
・・・・・・・・・・みんな、知っていたのかな?
知らなかったの、私だけ・・・???

 父親に興奮して話したら、「そうだよ。え?知らなかったの?!」と淡々と言われた。
ぎゃふん。

そう言われて、祈り方を賛美へと変えたら、毎日の生活にさっそく変化が生じた。
ぐんぐん幸せになっていく。
なにも得はしないけど、受け入れられるようになっていって、平安がでてくるようになった。

信仰をもって生きるとは、こんなに楽だったのか!
というのが、正直な感想だった。

もしかして、みんな、初めからこの境地なのかな?と思って、
ニューヨークのペントハウスに住む、クリスチャンのウッディに連絡したら、「私ずっと信じてから幸せ」と言われた。
なんだ、そうだったのか。

神が人を創られた。

私が、を主語に祈るのではなく、あなたが、と神様を主語にして祈るとき、私たちは生きやすくなる。
私にとって、令和の大発見であった。

静かな暮らしで、漕ぐ私の在宅勤務生活

白鳥は優雅に泳ぐ水面下で必死になって足を漕いでいる、と聞くが、
私の日常も、時としてこのような日がある。

コロナになって、私の人生は、家がすべて、に変わってしまった。

10月からフルタイム勤務に戻り、7時にパソコンを起動し、18時に電源を切る。

在宅勤務でいいね、と言われて、実際その通りでありつつも、家でのデメリットもある。
周りで同僚が自分を見てくれているわけじゃないから、自宅でシステムトラブルや、業務困難に陥るとき、
自分がアラートを出さなければ、誰も自分を助けてくれない。
まさに、完全な自主管理の世界。しかも、誰が助けてくれるかもおぼつかない時だってあるから、
コミュニケーション力はいつの時代も必須のスキルだと痛感する。

先日は、、
「なんかさー、(在宅勤務って)地味~に、忙しいよね」
と、オンラインチャットで「取り込み中」と表示中の同僚と、互いの労を労った。

わが社は、オンラインツールに、マイクロソフトのTeamsを利用中である。これで会議や、チャットが出来る。
業務中は、自分の状況を色やマークで周囲に知らせる。「連絡可能」「取り込み中」「応答不可」等があり、最近は「取り込み中」や、「応答不可」のマークをつけている。

「話しかけてくれるなよ」であったり、「今は話しかけてOK」と、記しておくことで、コミュニケーションの円滑化と業務効率化を目指す。

 「ま、頑張ろう!」

と、最後は同僚と言いあって、パソコンをカチカチ叩く。私はよく、家でパンクしそうになると、最近はひとりごとをいってしまう。「あーーー」

 私、今の業務はサービスのプロモーション活動である。今月は、例年にない仕事が入ってしまった。バーチャル展示会への出展準備である。その準備に大わらわなのだ。前例のない取り組みだから、説明をする人も、聞く人も、こんな展示会かな、と想像しながら当日の業務オペレーションを考える。
 オンライン接客は難しい。新しいシステムの設定はもちろん、操作方法を覚えて、臨まねばならない。
 
 ああ、年を取ったら、新しいことを覚えるのは大変、じゃなかったっけ?

 私は接客担当になっている、50代の先輩方のことが気になった。若手中心に切り替えた方が良くないか?いや、今からでは間に合わぬ、と言われ、ああでもない、こうでもないと言いながら、オンライン上の新たなスキルを思う。新しいアプリや管理画面をストレスなく使いこなしていく能力や、画面共有して会議進行するファシリテーター能力、そして、プレゼンしながらPPTをマーキングして魅せていく技術。どれも、コロナ前には問われなかったスキルである。

 
うう、家に居るのに、地味に忙しい・・・。

 というわけで、先週末は気づいたら、お手洗いに行く暇がなかったので、便秘になってしまった。やっぱり、自主管理はものすごく大切だ。

新年度の仕事への心意気

今日から10月1日なった。

私にとって、今日は記念日だ。正直、感慨深い。

誰も知らないけど、今日から、フルタイムになり、元の社員に戻ったのだ。

先月、昔の上司に来月からフルタイムになると報告の一報を入れたが、相手にしてみればどうでもいい話、「ふうん、そうなの」、と彼はさほど興味なく言った。が、今日まで支えてくれた彼のような上司がいたからこそ、今に至る。私は感謝を述べただけで、十分満足した。

思えば、延べ七年間、フルタイムに戻すことによる「収入増」や「昇給の可能性」という誘惑に、幾度も襲われた。
でも、「お金に換えられない価値」や「人からの評価を気にしない」重要性を、主人に何度も何度も、説いてもらった。

ボーナス時には、「私の評価、C+だってよ」とぼやいた私に、
「わが家での評価は満点です!」と即答してくれた主人に涙が出た(心の中でだけど)。

ともかく、今日まで働き続けられてよかった。私にとって、仕事とは何だろう、と何度も考えた。まだその答えは手探り中だが、それでも継続できて、良かった。


(わが家にたてかけてある直筆の書)

菅首相、人類が疫病に打ち勝った証に五輪開催!

来年はコロナが収束し、五輪開催できるかはさておき、「人類が疫病に打ち勝つ」という表現は、神様の目から見た時、どう映るのか、と考えた。

古来から人を苦しめた疫病は、医学の進歩により、幾度も克服してきたわけだが、今回のコロナで明らかになったように、どれだけ医学が発達しても、人類が解明できないことはたくさんあって、神の摂理には及ばない。

私は、この、一見耳障りの良い、疫病に打ち勝つ証、という言葉が、私たち人間の傲慢さを表しているようで、不安になった。

驕り高ぶることに、日本の未来はなく、五輪もないのではないか。

そもそも、五輪などなくとも、皆が健康に生活できたら、それで充分私たちは幸せなはずだ。

大量の税金を使う、煌びやかな証が、必要不可欠というわけではないだろう。