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sakurako について

Sakurako,a business working woman who live in Shibuya,Tokyo.

朝ごはんドラゴンフルーツ

昨日、実家で持っていけ、と言われて、それなら、と大して喜びもせず、持って帰ったドラゴンフルーツ。

食べたら、美味しい。

栄養価はなんだろう?と調べたら抗酸化作用抜群のスーパーフードで、一番甘味が強い、レッドタピアだった。

抗酸化!アンチエイジング!

お父さん、お母さん、ありがとう!!

人間が創造された目的

神は仰せられた。

「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」-創世記1:26

9月に入ってから創世記を学んでいる
これが、たまらなく面白い!
 
 私にとって、聖書とは、小学生から知っているもので、「創世記」は、聖書を開くと最初に出てくる章である。
「初めに、神が天と地を創造した」は、最も有名なフレーズの一つだろう。子供向けの絵本もたくさん出ているから、聖書を知らない人でも創世記辺りの内容は、理解している人が多い。俳優の織田裕二も先日、NHKのBS番組ヒューマニエンスで、「アダムとエバ」と喋っていて、私などは、おお、織田裕二も知っている!とひそかに驚いたが(失礼)、同様に私自身、知っとるわい、とたかをくくっている章だ。だが、学びを始めて、気づいた。本当の意味で、私は、創世記の本質を掴んでいなかったのだ。

 学びのグループ(BSF:バイブルスタディーフェローシップ)内で、こんな設問がある。もし、ここにクリスチャンの方がいたら、ぜひ、以下の設問を読んで、回答を考えてもらいたい。


Q1.創世記第1章1-2節を読んでください。「初めに神が天と地を創造された。地は漠然として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた」
  これらの節は、神と創造について何を明らかにしていますか?

Q2.これらの節で最も興味をそそるものは何ですか。

 創世記は、天地万物と誕生が描かれている。私は、聖書にある通り、神が創られた、と信じているから、毎日祈って、暮らしている。

 だが、神が作られたにしては、この現実社会のありさまは酷いものである。日常に理不尽や不条理は、溢れている。「必ず正義は勝つ(※)」と日本人はよく言うが、そうでないことは誰もが知っている。 (※正義は勝つ、は聖書の言葉でない)
 トランプ大統領のでたらめぶりも、ゴーンも、かつて偉大なリーダと称された人が、好き勝手やっている。裁判を免れて国外逃亡に成功した様子を見ていると、彼の生き方(大金を稼ぐ力がある、悪賢さは大切)こそが、この世での勝利、に映る。
 
 そんな中で、聖書は言う。聖さを追い求めよ、やがてはキリストのようになれ、と。右頬を打たれたら、左頬も出せ、というのだ。
 ムリである。

 常々、クリスチャン(の生き方)は損だよな、と苦しみもがいている。 
 
 過去何度も、クリスチャンは損だから(信じるのを)やめよう、と思ったのに、そのたびに、連れ戻された。
私は信じているから、信じていなかったようにふるまうのは出来なかったのである。

 仕方ない、逃げられない。私はクリスチャンとして歩むしかない。これまで幾度そのやり取りをしたことか。
そんな私は、結婚して、この世的な幸せを掴んだわけだが、クリスチャンは損だ、という考え方に変化はなかった。

我ながら、矛盾を抱えつつも、悩み苦しんでいる人がいれば、聖書の話をしてしまっていた。
信じない方がいいと思うのに、困っている人がいると、勝手に口が聖書の話をしてしまうのである。

まあ、この話は別ですることにして、ともかく、神様を信じるものはいったい、何のために、生きるのか---!
これが私の大テーマであり、長年、この問いに対して、ろくな答えも見いだせないまま、生きてきた。

そんな私の祈りとは、ざっくり言うと、こうである。

 「神様、助けててください、できればこうしてください・・・でも、神様の御心に従います」


たとえて言えば、目の前に出てくる巨大な壁を、日夜ハンマーで打ち叩いて、打破していく毎日だ。常に、戦っている私。

つまり、 私が祈る意味とは、ひとえに、苦難を克服するため、だ。
一章ずっとこんな風に暮らして、死ぬまで戦い続けるのかと思うと、内心、暗くなっていた。
祈り忘れたら、壁が巨大化してくるので、祈りをやめるわけにはいかない。私に安らぎはないのか・・・!と。

ところが、創世記を学んでいると、衝撃の事実が発覚した。
私の解釈が間違っていた。

 創世記一章を読んで、分かったことは、すべての被造物は神を賛美するために創造された、という。
つまり、祈りとは、自分のためにするのでなく、神を賛美するために、

神のためにする

、というから、吃驚だ。

・・・ちょー、ショック。
・・・・・・・・・・みんな、知っていたのかな?
知らなかったの、私だけ・・・???

 父親に興奮して話したら、「そうだよ。え?知らなかったの?!」と淡々と言われた。
ぎゃふん。

そう言われて、祈り方を賛美へと変えたら、毎日の生活にさっそく変化が生じた。
ぐんぐん幸せになっていく。
なにも得はしないけど、受け入れられるようになっていって、平安がでてくるようになった。

信仰をもって生きるとは、こんなに楽だったのか!
というのが、正直な感想だった。

もしかして、みんな、初めからこの境地なのかな?と思って、
ニューヨークのペントハウスに住む、クリスチャンのウッディに連絡したら、「私ずっと信じてから幸せ」と言われた。
なんだ、そうだったのか。

神が人を創られた。

私が、を主語に祈るのではなく、あなたが、と神様を主語にして祈るとき、私たちは生きやすくなる。
私にとって、令和の大発見であった。

静かな暮らしで、漕ぐ私の在宅勤務生活

白鳥は優雅に泳ぐ水面下で必死になって足を漕いでいる、と聞くが、
私の日常も、時としてこのような日がある。

コロナになって、私の人生は、家がすべて、に変わってしまった。

10月からフルタイム勤務に戻り、7時にパソコンを起動し、18時に電源を切る。

在宅勤務でいいね、と言われて、実際その通りでありつつも、家でのデメリットもある。
周りで同僚が自分を見てくれているわけじゃないから、自宅でシステムトラブルや、業務困難に陥るとき、
自分がアラートを出さなければ、誰も自分を助けてくれない。
まさに、完全な自主管理の世界。しかも、誰が助けてくれるかもおぼつかない時だってあるから、
コミュニケーション力はいつの時代も必須のスキルだと痛感する。

先日は、、
「なんかさー、(在宅勤務って)地味~に、忙しいよね」
と、オンラインチャットで「取り込み中」と表示中の同僚と、互いの労を労った。

わが社は、オンラインツールに、マイクロソフトのTeamsを利用中である。これで会議や、チャットが出来る。
業務中は、自分の状況を色やマークで周囲に知らせる。「連絡可能」「取り込み中」「応答不可」等があり、最近は「取り込み中」や、「応答不可」のマークをつけている。

「話しかけてくれるなよ」であったり、「今は話しかけてOK」と、記しておくことで、コミュニケーションの円滑化と業務効率化を目指す。

 「ま、頑張ろう!」

と、最後は同僚と言いあって、パソコンをカチカチ叩く。私はよく、家でパンクしそうになると、最近はひとりごとをいってしまう。「あーーー」

 私、今の業務はサービスのプロモーション活動である。今月は、例年にない仕事が入ってしまった。バーチャル展示会への出展準備である。その準備に大わらわなのだ。前例のない取り組みだから、説明をする人も、聞く人も、こんな展示会かな、と想像しながら当日の業務オペレーションを考える。
 オンライン接客は難しい。新しいシステムの設定はもちろん、操作方法を覚えて、臨まねばならない。
 
 ああ、年を取ったら、新しいことを覚えるのは大変、じゃなかったっけ?

 私は接客担当になっている、50代の先輩方のことが気になった。若手中心に切り替えた方が良くないか?いや、今からでは間に合わぬ、と言われ、ああでもない、こうでもないと言いながら、オンライン上の新たなスキルを思う。新しいアプリや管理画面をストレスなく使いこなしていく能力や、画面共有して会議進行するファシリテーター能力、そして、プレゼンしながらPPTをマーキングして魅せていく技術。どれも、コロナ前には問われなかったスキルである。

 
うう、家に居るのに、地味に忙しい・・・。

 というわけで、先週末は気づいたら、お手洗いに行く暇がなかったので、便秘になってしまった。やっぱり、自主管理はものすごく大切だ。

新年度の仕事への心意気

今日から10月1日なった。

私にとって、今日は記念日だ。正直、感慨深い。

誰も知らないけど、今日から、フルタイムになり、元の社員に戻ったのだ。

先月、昔の上司に来月からフルタイムになると報告の一報を入れたが、相手にしてみればどうでもいい話、「ふうん、そうなの」、と彼はさほど興味なく言った。が、今日まで支えてくれた彼のような上司がいたからこそ、今に至る。私は感謝を述べただけで、十分満足した。

思えば、延べ七年間、フルタイムに戻すことによる「収入増」や「昇給の可能性」という誘惑に、幾度も襲われた。
でも、「お金に換えられない価値」や「人からの評価を気にしない」重要性を、主人に何度も何度も、説いてもらった。

ボーナス時には、「私の評価、C+だってよ」とぼやいた私に、
「わが家での評価は満点です!」と即答してくれた主人に涙が出た(心の中でだけど)。

ともかく、今日まで働き続けられてよかった。私にとって、仕事とは何だろう、と何度も考えた。まだその答えは手探り中だが、それでも継続できて、良かった。


(わが家にたてかけてある直筆の書)

菅首相、人類が疫病に打ち勝った証に五輪開催!

来年はコロナが収束し、五輪開催できるかはさておき、「人類が疫病に打ち勝つ」という表現は、神様の目から見た時、どう映るのか、と考えた。

古来から人を苦しめた疫病は、医学の進歩により、幾度も克服してきたわけだが、今回のコロナで明らかになったように、どれだけ医学が発達しても、人類が解明できないことはたくさんあって、神の摂理には及ばない。

私は、この、一見耳障りの良い、疫病に打ち勝つ証、という言葉が、私たち人間の傲慢さを表しているようで、不安になった。

驕り高ぶることに、日本の未来はなく、五輪もないのではないか。

そもそも、五輪などなくとも、皆が健康に生活できたら、それで充分私たちは幸せなはずだ。

大量の税金を使う、煌びやかな証が、必要不可欠というわけではないだろう。

誕生日プレゼント

今年も誕生日がやってきた。
朝、夫を送り出したら、私の作業していた場所に、プレゼントが置いてあった。
(わ!プレゼント!!) 驚いた。 さりげなさに、愛を感じた。サプライズ成功である。 近頃、夫は休日返上で働いているだけに、これがどれだけ価値あるか、私にはよく分かった。ありがとう。。。 メッセージカードを開いてみる。どれどれ…。
「お誕生日おめでとう!いつも、育児や家事をありがとう」
…って、私は、お母さんかーーーーい!!(お笑いのルネッサンスの人風に) と、ツッコミたくなった。 まあいいや、彼らしい。ともかく、ありがとう。 さて、今日から私は、2日間夏休みだ。 誕生日、最初にやるならまず聖書でしょ、と、午前中はバイブルスタディーで課題の創世記をオーディオで聞いた。BSF(バイブルスタディーフェローシップ)という海外発の聖書学び会に、今月から新たな仲間と取り組むことになったからだ。 このBSFは、6月頃に声をかけられ、夏はアプリで平日は毎日、仕事の傍ら、聖書を読んで、自分の考えをSlackに投稿する、という作業を繰り返し、もう無理・・・と思った。だが、これは人のためにやるのでなく、自分が聖書と向き合って、今の恵みを覚える意味でやる、ということで、途中からは、投稿できない自分を責めるのはやめて、みんなの投稿を読むだけで、参加することに意義がある、となんとか、走り終えた。 それが、秋になると、このアプリのチームとは別のチームから、学びの招待状が届いた。平日学んだ内容を日曜夜にZOOMで1時間シェアする、という。日曜の夜、といったらリラックスはMaxの、ゴールデンタイムだ。 家族をよそに、夜に知らない人たちと顔を合わせるのもなんだか精神的に疲れるし、PCを立ち上げるのも億劫だし、私も夫と半沢直樹を見たいしな、と否定的な思いばかりが浮かんだが、悩みに悩んだ挙句、聖書というより、この出会いにも何か神さまの導きがあるかもしれん、と、清水の舞台から飛び降りてみた。 実に、コロナになって自分の何が変わったか、というと、神様との時間が非常に増えた、この一言に尽きる。これが、キリスト者として本来あるべき生き方だったのか。それとも私が年を取った、ということなのだろうか?! 在宅勤務になって、通勤電車に乗る習慣もなくなり、刺激が少なくなった結果、生活のシンプル化と共に、考えも非常にシンプルになっていった。自分にとって何が最も大切か、よく分かるようになったのだ。 同僚とどんなにオンラインで会議しても、体はいつもホームベースにあるから、心はいつも家庭に残る。そうすると、家の中心は何か、ということが私に迫ってきて、神様なしで生きられない、と強く感じるようになった。 私と、私の家は、主に仕えん という言葉が、まんざら、うちにもあてはまらないでもない、と思うようになった。 まさかこの不良クリスチャンの私が、こんなに真面目な考えを持つようになるとは思わなかった。私のことだから、途中でド派手にすっころんで、奈落の底に落ちていくかもしれないが、今の所、 「昨日のことは忘れた、明日のことは分からない。まずは今日よろしく」 と、今を生きることをまず大切に、後悔なく生きていきたいものである。 というわけで、 長くなったが、お父さん、お母さん、こんな私を育ててくれてありがとう。 周りにいる主にある家族も、そうでない、お友だちも、先輩も、こんな私に寄り添ってくれて、ありがとうございます。 今年は海外にもいかず、ゴージャスなホテルにも行かず、誕生日ケーキのホールも買わなかったけれど、父が昨日差し入れてくれた、ローストビーフ、サーモンのマリネ、ひじきご飯に自家製漬物が、最高級レストラン並みでした!  何もない日々が一番の贅沢って、まさにこれです。ありがとう、ありがとう。感謝、感謝な誕生日でした。 by桜子

渋谷のセミ

今年初のセミは、わが家の網戸に貼りついてきたセミだった。

ちょうど子供たちがいたので、すわ、虫取りだ!と大騒ぎになったが、網戸の向こう側のセミを捕まえねばならぬ所を、

こちら側から網を振りかざしたものだから、あっという間に飛んでった。おいおい、ここはあつ森ではないんだよ。

それからほんの1週間程で、私はセミに3匹会った。

一つは道路をノロノロ歩いていて、

あれ、なぜこんな所にいるのだろうと思った瞬間、

ぷちゅっ、

と目の前で、音がして、瞬く間にタクシーの下敷きになって消えた。娘は、可哀想〜!!と、顔をクシャクシャにして嘆いた。

次は死骸。冒頭の写真がそれだ。

でも、これも見つけた。

煎餅のごとく潰れているセミ

渋谷でサバイブするには、セミにとって辛すぎる。