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sakurako について

Sakurako,a business working woman who live in Shibuya,Tokyo.

クリスチャン生活

「私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう」詩編56:11

コロナ後、最も大きな生活の変化は、ともかく、外に出かけなくなった。この一言に尽きる。
そして、個人的に変わった点は、神さまをぐんと好きになったことだ。

家に居ると、至る所に、神さまの香りがする。
まず玄関、そしてお手洗い。
聖書の言葉が飾ってあるから、無意識に読んでしまう。

そして、室内にあるもの。
愛する家族が立ち歩き、本や、文具が転がっていると、家庭を実感する。
これらはすべて、神様が私にくださった。

生活の中心が家になり、自宅から会議をしていると、働いていても、家族が常に頭にある。
だから、神様のことを考える。つまり、
出勤していた頃より、ずっと神様に心を向けるようになった。
それはつまり、祈りだと、友が言っていた。

10代の頃、祈る、という行為を覚えた。

祈り、とは目に見えず、まったくもって地味そのものである。
特に聖書には、「部屋の奥に入って戸を閉めて、誰にも見られないようにして祈れ」と言ったような記述がある。

つまり、

私は祈っています!と公表はせず、自分の身を低くし、努力は語らず、黒子になって、情熱を神に注ぐ。
静的で、一見すると非力にみえる、この熱量こそ祈りの本質だ。

私は、この祈る機会を、この1年、たくさんもらった。
祈り始める時、最初に神様を褒めたたえると、自分の悩みが小さくなっていくこともたくさん体験した。
創世記には、私たち人間が創られた目的に、神への賛美、がある。
だから、毎日、神様を褒めたたえることを意識して祈ると、きっと神様は喜んで、私たちは祝福されるだろう。

クリスチャンの生活。

それは、祈りに始まり、祈りに終わる。

その人がどのような1日を送っても、祈って、祈って、祈る生活。
それが、クリスチャン生活だ。

ハレルヤまんじゅう

出産祝いのお返しなのか、今日届いた小包には、ハレルヤまんじゅう、とあった。

今日は、私たち夫婦の結婚記念日!

うれしい偶然なり。渋谷スクランブルスクエアのハイトレンド系のケーキでお祝い。

買ってきてもらった夫に感謝。

ランチタイムに、一緒に祈ってくれた学生時代からの親友にも感謝。

2020年コロナ禍クリスマス会_後編

今年はコロナが猛威を奮い、毎年恒例の子供クリスマス会はどうも閃かなかった。

即座に、あたりまえじゃん!と言う声がすっ飛んできそうだが、春の一斉休校時、少なくとも私の地域では、子供間だけはやむなし、という暗黙知があり、限られた仲間内で子供たちは遊んだ。

ふだんママ友グループに属していない私は、このような交流の場を作れなかったので、この自然な流れは驚きと共にうれしい悲鳴だった。親子共々、健康で過ごすことが出来て、どれだけ地域と神さまに感謝したか、分からない。

今となっては、連日、記録更新中の、東京都コロナ感染者数増を鑑みれば、クリスマス会なし、は当然の風潮だ。が、「渋谷区の子供は感染者いない」(数か月前の談話)と医師は言ってたし、小学校は常にやっている(=子供同士は接触している)ので、何かしてあげたかった。が、ヤル気が出なかった。

思い浮かんだのは、家族のクリスマス会だ。
今年で世界が終わる、と考えたら、家族のためにやろう、と思った。

が、やっぱりコロナの影響で、開催直前に、母親がブルドーザーのように参加者へキャンセルを促していき、その通りになった。ならば会は中止、と考えたら、親は来る、という。
けれどこれもまた、開始まであと2時間で、母親から「疲れた」の連絡があり、キャンセルが決まった。そして、基礎疾患のある父親だけが、あと30分で終了、という頃に、ボルシチを持ってわが家に来た。会の終了まで、あと30分である。

一方、この家族とは別に、詳細省くが、招く予定になかった母子が来ることになり、母親からは仕事だから、子供2人を行かせたい、という。2人はとても楽しみにしているのだ、と何度も連絡が来た。

私はふだん、パーティーの場合は子供に紙コップ、が常だが、この日はノリタケのボーンチャイナのカップ&ソーサーを用意し、一人前として扱った。この子たちが、神さまの用意された大事なゲストだ、と確信したからである。

実際、それはその通りだった。

というのも、急遽、彼らのために紙芝居でクリスマスの話をしたら、末っ子が大きな声で「クリスマスって、サンタの日じゃないの?!」と目を丸くしたから、私も目を丸くした。

違うんだよ。

イエスキリストが生まれたことや、聖書に書かれていることを伝えると、今度は姉が、熱心に耳を傾けている。それどころか、「ずっと聖書が読みたいと思っていた」と言う。またもや、私は目を丸くした。

この2人の来訪が、わが家を暖かく包む。それは静かで楽しい時間になってきた。

私は、中学生の姉に対し、なるべくわかりやすく伝えるよう、努めた。聖書の言葉がスラスラ、スラスラ、口から流れてくる。暗記していないが、こういう時は川の流れのように、みことばが浮かんでくるから、不思議である。

それに対して、彼女の反応が、一つ一つ、私には面白かった。

そうだ、神さまを知らないって、こんな感じ。そうだ、神さまを信じ始めるときって、こんな感じ。

今にも彼女は、私と一緒に信じます、と言い出しそうではあったが、ひとまず、初対面だったので、話はそこそこにした。

その代わり、というわけではないが、夜になって迎えに来た母親とは、祈ることが出来た。むろん、別室で、子供たちに気づかれないよう、2人で心を天に向けた。この祈れたことも、私は大変、驚いた。その予定はなかったからだ。
けれど、よくよく考えてみると、彼女と祈ったのは2度目だったかもしれない。初めて彼女に聖書の話をしたのは、たしか3年前だったか。なぜか、イエスキリストの話をしていたのを覚えている。

クリスマス会に、神さまを信じ始めたような人たちに会える、というのはどういうことだろう。

たぶん、とてつもなく、うれしい出来事だ。

そうして、わが家の小さなクリスマス会は、終わった。

終了後は、例年同様、色んな事が続いて、神さまを信じるのが嫌になるくらい、ぐったり疲れて落ち込んだ。
が、このことも、私には必要な落ち込みだったのかもしれない。(傲慢にならないため)

やっぱり、クリスマス会は毎年、大変。
それでも、毎年、いつもやってよかった、と思う。
そうして、来年は絶対に(苦労を胸に)やらないぞ、といつも心に誓うのに、なぜだか、やってしまうのが、私のクリスマス会である。

2020年コロナ禍クリスマス会_前編

 例年、クリスマスと言う日をこよなく愛している私。それは、イエスキリストがこの世に生まれた、ということを公に祝える日だからである。
 サンタの日じゃないYO

 昔、メディアで連載を開始する前、編集者に「聖書の言葉を紹介したい」と言ったら、「仏教の言葉だったらいいけど、聖書はダメ」ときっぱり断られた。売れないそうだ。

 それくらい、日本人にとって馴染みのない聖書だが、世界のベストセラーであり、欧米諸国では教養の一つとして、聖書は親しまれている。ハリウッド映画を鑑賞すると、時折これは聖書の箇所だ、と気づくが、聖書を知らない日本人に、このシーンの意味は分からないと、いつも思う。
  
 そんな日本にあって、クリスマスだけは、聖書を紹介しても、ちっとも嫌がられない。これまで、この日だけは特別よ、と、たくさんの人たちに、ささやかなクリスマスプレゼントを贈り続けてきた。

 時間に余裕のあった20代、12月になるとクッキーを焼くのが、独身時代の私の恒例行事だった。一日かけて、クッキーをオーブンで焼く。ドイツのミンヘン婦人のレシピは、バターの分量が多く、口に入れると、ホロッと崩れて美味しかった。市松模様の美しい黒と白のボックスクッキーは、見た目も華やかで、母が作るのが大変、上手かった。
 

 透明なセロファン袋に入れ、緑と赤のリボンを結んで、聖書の言葉と一緒にする。
 クッキーは大変美しく、いつもラッピングが楽しくて、渡す前からワクワクした。
 手作りのため、渡せるクッキーは少量ながら、私にとっては思い入れが深かった。
 
 
 
 結局のところ、なぜこのようなことをしていたか、と言えば、聖書を知ってもらいたい、この一言に尽きる。聖書に次の言葉がある。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
 
 この使命を胸に、毎年この時期になると、私の中の聖霊が私にささやきかけてくる。
 「誰か、いないか?」
こう書くと、一気に宗教染みてくるが、聖書によると、イエスキリストを心の中で信じて、神様だと受け入れたとき、神の聖霊が、一人一人の人間に宿る、という。(儀式は必要ない)
 
 義務なのか、欲求なのか。私の中の霊が、絶えず、私に働きかける。

 私にとって、誰かが神さまを信じたとて、私にご利益があるわけでもなく、私には全く、関係ないこと。

 けれども、私がこの世で生かされているのは、このためである、と思うから、勇気を出して渡しす。
たとえ、相手に喜ばれなくても、その人にとって、渡した聖書の言葉が、いつか彼/彼女の人生の局面で、必要になるときがあるかもしれない。その人の運命は分からないから、今この瞬間、ご縁があった人へ私が出来るプレゼントを贈るのだ。

「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。ルカによる福音書 2:11」

 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。ルカによる福音書 2:14」

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、 ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネの福音書 3章16節 」

 
 クリスマス礼拝が、今日は世界各地で行われる日曜日だ。洗礼式もある。

 わが魂よ、主を褒めたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
 どうか、たくさんの人たちが、喜ぶ日曜日でありますように。

試練に直面した時、聖書のことば

「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」詩編84:5

人生には、様々な出来事が織りなされる。胸が張り裂けそうな悲しい事や、悶々状態の苦しい事、理解に苦しむ理不尽な事、なぜ自分にとわけがわからないような事態が起きる。苦しみや悲しみは、クリスチャンにも未信者にも同じように起きる。

クリスチャンになれば、苦しみや悲しみが無くなるのではない。
同じように置かれている。

しかし両者は異なる。

その違いは、神を信じる人は、どんな苦しい事、悲惨な事、悲しみの中にも、神を認
めて行く。そこに神を見て行く。神を信じているからだ。だから涙の深い谷を通る時も、感謝が湧く所とする。そこに神がおられ、神の愛、慈しみ、助けを実際に体験して行くからだ。

神を信じない人は、どんなに素晴らしい事があっても、そこに神を認める事は無い。神に感謝する事も無い。ラッキーであり、ただの偶然にすぎない。

信じる人は何があっても、どんな事が起きても、そこに神を認め、神の愛を信じる。どんな悩みが来たとしても、神を信じているから、涙の谷であっても、そこを泉の湧く所として行
く。

そこで神を見、神に出会って行く。何をどうして良いかもわからない、まさにどん底で、慰めや平安の泉が湧き上がる。

なぜなら、そのどん底に神がおられるからだ。信仰とはそういう事だ。もし思い煩いや、不満、怒りがあるなら、神以外のものを頼り、見ているという事になる。どんな苦しみの中でも、そこが泉の湧く所とされる。
シオンへの大路にある人、神に向いている人は、幸いを経験して行く。

上記全文、広島の教会にある日々の光のメール配信より抜粋。

在宅勤務、北欧流で快適

 先週の日経夕刊で、北欧諸国のテレワークには、同僚と週二回コーヒーブレイクがあるという記事を読んだ。羨ましい。雪景色を眺めながら、コーヒー片手にPC。想像するだけで、仕事がはかどりそうな雰囲気。

 フィンランドは、国民一人当たりの年間コーヒー消費量が世界トップレベルで、業務内にコーヒー休憩時間を確保することが必要な場合もあるそうだ。確かに、家で仕事するようになると、気づく。人間の集中力には限界がある。効率よく働くためには、メリハリが必要だ。家だと、うまく息抜きしないと、頭ばかり疲れて、身体が重い。おまけに家中心の生活の中で、情報は限られ、運動不足になる。
 
 私も、情報はともかく、運動不足に悩んでいる。意識しないと、運動を忘れる。一日30歩しか歩いていない気がする、と眠る夜が、何度も続いている。

 会社は在宅勤務が主流になって、様々な試みを半年前に始めているが、正直、今の所、イケてない。

 例えば運動。配信時間が、業務時間外に設定されており、勤務中に身体を動かすなよ、という会社の圧を感じて、ガッカリした。次に、社内コミュニケーション。参加してみたら、社内というより、トップとのコミュニケーションタイムであって、気を遣ってしまい、中身が違うな、と感じた。運営する事務局に、ZOOMのブレイクアウトタイム機能(大勢の参加者を少人数のグループに分けられる機能)を使えばいいよ、と教えたが、決裁がその都度必要になるそうで、運営側も苦労していた。

 今日も在宅が始まる。今週一週間も、セルフマネージメントができますように。

ステイホームでも外国気分・ナショナル麻布で買い物

子供が赤ちゃんの頃は、よく来た広尾。

久しぶりに通りかかったので覗きに寄った。

15分なら駐車無料。2,000円以上買えば、1時間駐車無料。

店内はやっぱり外国人率高かった〜。皆さん、どういう人だろ?

夫と、ふだん買わないものを選ぼう、ということで、今夜の夕飯に、外国パッケージのチーズやデカデカのマフィン、クスクスに、シンガポールチキンなどの惣菜をチョイス。

家に帰ったら、ボジョレーでゆっくり食べよー!

今夜は、子供は友達の家でお泊まりなり。

お二階の雑貨

急いで帰らなくても良し。海外グッズをチラ見。

外に出たらポインセチアが綺麗。

もうすぐクリスマスである。

銀座にやってきたよ

静かな銀座

約一か月ぶりの出勤に合わせ、今日の午後は半休して銀座へ。

社会人になってからの職場、銀座に来ると、やっぱり清々しい感じ。

でも、あの頃にはなかった、マツキヨやサンドラッグの店舗がチラホラ…。

吉野家だけは昔から四丁目にあったけど、今もあるのかな?

と、思ったら、あった!

なんだか、うれしい。

あのママ友は私のことがキライ

「あのね、あのママ友は、私のことがキライだと思うの。」

と、ランチを食べている最中、目の前のママ友が、言いにくそうに私に言った。

「え?」

私が怪訝な顔をすると、「今日(彼女が)ここに来ないのも、私のことがキライだからだと思うの」と神妙に言う。

「いやいや、そんなはずはないよ。」

と私は否定したが、彼女はキッパリ否定した。
「そう考えると合点がいくことが今まで何度もあったの」

つまり、この日は当初、ママ友3人でランチすることになっていた。が、約束したのは2週間も前だ。詳しくは前日に、というユルい約束であったため、前日、主催者のママと私は連絡を取り合って待ち合わせ場所を決めていったが、もう一人のママ友への連絡がどうなっているかが私は気になって「連絡しなくていいか?」と彼女に聞いたが、返信がなかった(ので、そのままにした)という状況だった。

「私たち、仲良く思われているけど、実は彼女とはそんなに仲良くないの」と、彼女は困った顔をしてみせた。

「そうなんだ、へー、知らなかった…。」と返事しつつ、私は彼女の方が、もう一人のママより、もっと知らない人だった。私は、もう一人のママを知っているつもりだったから、「あの人は、そういう人じゃないよ。何か不都合だったんだろう、と思うよ」と進言したが、却下された。

だが、その時、タイミングよく、私の携帯にLINEの通知が来た。彼女が、グループ宛に送った内容で、私たち宛ではなかったが、「金曜から忙しすぎて寝込んでる。今日は家でダウン!!」とあった。

・・・ほらね、ほらね!!

あなたの思い込みだよ、と私は彼女にすぐさま、容態を伝えたが、彼女は納得できない顔をして黙っていた。
その様子を見ていたら、私の脳裏に、にわかに聖書の言葉が浮かんできた。

罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている(創世記4章7節)

彼女はクリスチャンで、もう一人のママ友もクリスチャンなのだが、こういう展開になってしまったのである。
2人が仲たがいして一番喜ぶのは、サタンであろう。
そもそも、最初に彼女は、「あのママ友は、私のことがキライだと思うの。」と、当初、推測で発言していたのに、いつから確信に変わってしまったんだろう?

それはまるで、蛇がそそのかして、エヴァに善悪の知識の果実を食べさせたように、
蛇がそそのかして、彼女にママ友はあなたのことがキライなんだよ、と思い込ませているようだった。

私がいくら言っても、一度作ってしまった固定概念を捨てるのは、彼女には難しそうだった。
私は観念して、叫んだ。

「百歩譲って、彼女があなたのことをキライだったとしても、だから何?!
人を見ない方がいいよ!人を見たら(信仰は)つまづくよ。私だって、信用しちゃだめだよ。信用できるのは神さまだけだよ!」

自分が通ってきた道だからこそ、分かる。
そして、彼女の発想は、私にもありがちな発想だから、よく分かる。
一度悪い方に思い込むと、それが、その通りであるかのようにだんだん思えてきてしまう、という現象だ。

夫はよく、「ニュートラルに物事を見ろ」と言うが、先入観を捨てて相手を見るのは実に難しい。
好きな人が行う行動は、好ましく見えるし、苦手な人が行う行動は、すべて穿って見てしまう。

だが、イエスキリストだけは、昨日も今日もいつまでも同じである。
その神様が、私たちと共にある。
邪念を捨てて、目の前にある事実だけを受け取るのである。

言うは易し、行うは難し。

それでも、創世記4章7節は続きがある。

「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである

いつも治める人間でありたいものである。