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さよなら、わが社

 長年勤めた会社を定年退職したーーそんな諸先輩方が、今日は巷で数多く見られたに違いない。あなたの会社はどうですか?わが社では少なくない人たちがお辞めになっていかれました‥。


 私の会社では、人事速報が社内サイトの中にあるのだが、なぜだか4クリックぐらい叩かないと閲覧できない場所にあるため、そもそも人事が発令されていることすら気づかない。
 そのため、私はいつも退社する人から届く別れの一斉メールを受信してから、後手になって情報を知るのだが、今月は辞める方からの連絡もあり、4クリックしてサイトを見に行った。そしたら大勢が辞めていくように見えた。
 
 顔見知りの人が、ひとり、またひとりと、社を去っていく。コロナ禍により、諸先輩方が今日という日をどんな思いで去って行かれたのか想像すると、少し切ない。

 今朝、朝一番の会議(オンライン)に参加していると、上司が別れの挨拶をしていた。
そばの娘の耳にも届いたようで、どうしたの?と尋ねてくる。「この人、今日でサヨナラなの?」

「いや、この人は辞めないんだけどね、会社員にとって3月31日と言うのは特別な日でね、年度末というの。そして、来月から異動する人たちが居て、チームがバラバラになるから、みんなに挨拶している、そういうわけなんだよ。」

「あー、なるほどね」と、彼女が納得していた。

在宅勤務は、子供にとって大変な社会学習につながっているんじゃないか、と今日思った。そういえば、数日前も、会議の後で娘がこう呟いた。

「何言ってるか、ぜんぜん、分かんない。」

そりゃそうである。その時の話題は、ちょっと難しかった。その年でわかるわけもない。
だが、そのあとに娘が投げかけてきた言葉は鋭かった。

「ねえ、それで今、ママがやっている作業は、頼まれたから、やっているの?それとも、自分で考えて、やっているの?」

「うーん、これは自分で考えてやっている作業かなあ…」

こう答えるとわが子はこう言った。

「ママ、頼まれてない仕事はやらない方がいいよ。ママ、すぐ、(頭の中が)いっぱいになっちゃうでしょ?そしたらまた疲れがたまったり、イライラしたりするから・・・」

と、こうきた。

(@@)!!!

たしかにー!!!
そう思いつつ、私はしばし黙ってしまった。いつもどのように働くかは、サラリーマンにとって永遠のテーマな気がする。

と、話が娘ネタになってしまったが、今日は退社された方に、聖書から伝道者の書をお贈りしたい。
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【伝道者の書 3章】すべての営みには時がある

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、いやすのに時がある。
くずすのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。
抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
捜すのに時があり、失うのに時がある。
保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。
黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。

働く者は労苦して何の益を得よう。
私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。
しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。
また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。

長年の勤務大変お疲れさまでした。<(_ _)> by桜子

ポルシェのパパ友、さよならは突然に

娘が3歳の頃、南平台のデニーズで娘と夕食中に、ある父子とあった。
それが娘の同級生と分かるのに5分とかからず、私が挨拶をすると、彼はこう言った。

「僕、離婚したんですよ」

初対面にもかかわらず、サラリと妻が出て行ったことを打ち明けてくれた彼に、私は心底驚いた。が、動揺する姿を見せまいとしたら、彼がその雰囲気を払拭した。

「でも、片親だと医療費が安くなるんですよ。だから歯医者に行こうかなって」

そう言って、彼は笑った。私は経済的に困っているのかと考えた。が、ふとテーブルを見ると、ポルシェのごつい、大きな鍵が無造作に置かれていた。歯医者の話とポルシェの鍵が対照的過ぎて、当時の出会いは今でも忘れない。

やがて、暮れにわが家で真面目なクリスマス会があり、奇しくも彼らが来ることになった。

一人一人、短いスピーチをする中で、彼は正直に今の境遇を語った。居合わせた私の両親や姉妹はそれを聞き、祈らずにはいられなかったろう。彼は初めて集まるそこで、聖書の意味はおそらく分からなかっただろうが、アーメンと言った。

その父子が、3年余の月日を経て、親しい友人となった。

さらに、再婚し、今夏、第二子を授かる予定になった。私たちは、彼の新しい奥さんとも親しくなり、春には代官山ヒルサイドでランチをしたあと、さらに彼の引っ越ししたばかりの雑然とした家で、ワインを飲み直すという仲にまでなっていた。

だが、それが最後の会食になってしまった。
別れはある日突然、やってきた。
晴れた日の朝、彼の妻から、一通のLine(ライン)がきた。

「急なことですが、切迫流産になり、安静のため、明日より新潟県へ引っ越すことになりました。また会える日を楽しみにしています」

急すぎる別れの宣告に、わが目を疑った。こんなことって、あるのだろうか?
私は出勤する道すがら、電話をかけた。「あんまりじゃないの?!」

けれども、本人たちも医師の診断で決意したのが前日で、やむを得ない選択だった。
私はせめてもの慰めにと、放課後、彼の子を家で預かることにして、最後の晩餐を娘と三人で行った。(時短していてよかった、と心底思った)

夜になって、ポルシェで彼が妻をリクライニングシートに座らせ、娘を迎えにやってきた。不思議なことだが、その夜に限って夫がいた。私たち家族三人で、走りゆくポルシェに手を振った。別れは本当に突然だ。昨日とおなじ日常が、また明日もやってくるとは限らない。しみじみと、そう感じた。

彼らが引っ越す早朝に、私は胸が締め付けられる苦しさを覚えた。まるで、誰かが急に召されたような感覚に襲われた。過ごした日々はもう二度と戻らないと思うと、泣きたくもなった。よもや、私がこれほどまでに、この家族に愛情を感じているとは夢にも思わなかった。きっと、私がこんなに苦しんだことは誰も気づかない。

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、いやすのに時がある。
くずすのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。
抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
捜すのに時があり、失うのに時がある。
保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。
黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。
戦うのに時があり、和睦するのに時がある。    (聖書からの引用)

すべての背後に神様の計画がある。

出会うのに時があり、別れるのに時があるのだ。