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woman standing beside woman on white wooden chair facing body of water

老年期の過ごし方、真価が問われるとき

先日読んだフライデーの記事によれば、武蔵野市「吉祥寺駅」で救急医療病院がなくなりつつあるという。渋谷区でも、救急医療ではないが、東京女子医科大学附属成人医学センターが来年閉院だ。他人ごとと思えない。

娘を産んだとたん、街中でベビーカーや親子連れが目に入るようになった。

それと同じく、母の介護に携わると、ヘルパーさん連れの高齢者や、介護事業社のミニバンが、朝に夕に目に飛び込む。わが街でも高齢化がじりじりと進み、すれ違う人みなに老いを感じる。


教会でも同じだ。
以前はぎゅうぎゅう詰めだった「礼拝」場が空いている。
来なくなった人もいるが、気になるのは来れなくなった高齢者だ。知り合いがいなければ、祈りのリストや支援の輪からこぼれ落ちる。
それは社会の縮図を色濃く現わすようだ。



「日本人の5.5人に1人が75歳以上になる」と言われる2025年問題。高齢化は2040年まで進む一方、既に減少に転じている生産年齢人口(15~64歳)は、さらに減少が加速。(厚生労働省園https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000060713.html)報道では、ヤングケアラー(若くして介護する人)、ダブルケアラー(育児と介護をやる人)という単語も珍しくなく、日本は厳しい局面にある。


こうなると、大勢に見送られて、天へ旅立ったAさんやBさんが羨ましい。
人生の正念場は、まさに老年期であると思う。

そんな教会で、先日私たち一人一人は、神の手紙なのだ、というメッセージを聞いた。
「私達の人生は、読まれている。」皆から見られているのだ、という内容だったように思う。


私の顔は泣いて赤くなり、
私のまぶたには死の陰がある。
しかし、私の手には暴虐がなく、私の祈りはきよい。
(中略)
私の友は私をあざけります。
しかし、私の目は神に向かって涙を流します。
(中略)
数年もたてば、私は帰らぬ旅路につく・・・(旧約聖書ヨブ記16:16~22)


今朝、聖書を開いてここを読んだら、思わず、父を想起した。親の姿が脳裏に浮かぶ。

日曜の礼拝メッセージでは、井上兄弟が「私たちの足りないところを、主が補ってくださる」と述べておられた。ありえないことが、聖書には至るところに書かれている。聖書を引っ張り出すと、次のような悲しいことも書かれている。


あなたがたは、世にあっては患難があります。
しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。
(ヨハネ16:33)


同時にこんな嘘みたいなことも書かれている。

…わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
(ヨハネ14:13)

私は、人にとって最もつらい時期とは、社会から必要とされなくなり、友もいなくなり、存在すらも忘れられ、歩けなくなる、そんな老年期を迎える人々だと心底思う。

先の事どもを思い出すな、昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
(イザヤ書43章18節ー19節)


こんな時代に、希望を持って生きるなんてとんでもないことだ。
だが、人には出来ないことが、神には出来る。そして、私たちは神に祈ることで、神を通して出来るようになると、書かれている。
信じるか、信じないか。

絶えず、“常識”で、世の中を眺めてしまうが、私たちは神を信じたい。
そして神が言う通り、荒野に「道」を、荒地に「川」を、用意される神に期待し、常に前向きでいたいものである。


スティーブジョブズの、
Stay foolish, stay hungryは、こんな時に使ってもいい気がする。

by桜子