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NHK夜7時のニュースを観なくなった件

テレビが好き、と昨日書いたが、日中のテレビを観ることが、本当に減った。
夜7時だけは唯一、娘と私の食卓用BGMにNHKをつけていた。が、最近つけるのをやめた。

「どうせ、暗いニュースだけだし、観てもしょうがない、やめよう」
と、子どもが言う。

確かに惰性でつけていた。本当にそうだね、と私も気づかされた。特に、コロナの感染が始まってから、トップニュースは一日の感染状況と政治家たちの話で、飲食店のインタビューも、届く話は暗い情報ばかり。加えて、東京オリンピックでさえも、空しい報道ばかりが重なって、聞けば聞くほど、矛盾をはらんだ開催は、沈みゆく日本の船の象徴のようである。私たち親子が、一日の終わりに聞くニュースとしては、かなり萎える。


「どうして、もっと明るいニュースがないの?」


子どもが投げかける言葉は、時として、本質を突く。


「ほんとだね、どうしてだろうね」


私は娘にそう応えるが、「それだと、世間が収まらないからだよ」と、心の中で言う。


こういうのは、なんていうのかな、とググってみたら、こんな言葉が見つかった。

「他人の不幸は、蜜の味」

「シャーデンフロイデ」(独: Schadenfreude 他人の不幸を喜ぶ感情)

※人類にとってシャーデンフロイデは、社会を守るために必要な感情だった。
 自分たちよりも不当に得をしてる人を許さない。引きずり下ろす、という行動に喜びを報酬として与えて、促進することが共同体の維持には必要(ロザン×中野信子「シャーデンフロイデは、社会を守るために必要な感情なんです」|特別”高学歴”鼎談|菅広文/中野信子 – 幻冬舎plus (gentosha.jp)


こんな社会に、神さま、Let there be light(光よ。あれ)!

テレビが好き、100分de名著が好き

私はテレビが未だに好きだ。
わが家のテレビは、YouTubeも、Netflixも、ボタン一つで見られるデバイス仕様で、YouTubeが最近面白い、というのも重々理解しているが、まだまだ、2クリック、3クリックしないと辿り着かないネット番組は、私には手間であって、夜になると、簡単な1クリックテレビを選んでしまう。

もっとも、リアルタイムでテレビは殆ど見ない。
録画済みの中から好きな番組を選ぶのだ。
「青天を衝け」や先週終わった「ドラゴン桜」も、夫婦で日曜の夜、子供が寝た後に楽しんでみていた。

で、その中に、「100分de名著」という、NHKのEテレ番組が長いこと録画済で放置されており、今日ちょっとみたら、ものすごく面白かった。硬派な番組タイトルに嫌煙していたが、今の時代にも通用する古典を聞くと、人間って変わらないのね、と感動するし、昔の人がどんなことを考えて名著と評されまで社会に影響を及ぼしたのか、知ることに喜びを感じる。


 で、今放送中の書物は、フランスの哲学者、ボーヴォワールの「老い」。
7月いっぱい、このシリーズは続く。老いる私や母世代はもちろんのこと、定年退職前後の男性にも、知っておくと有益な文章がたくさん散りばめられている予感がしている。

 日本女性の4人に1人が70歳以上(2020年9月20日朝日新聞報道より)の超高齢化社会にあって、老いは大きなテーマだ。私がいくスポーツジムには、いかにもお年寄り、というシニアが少なくない。それに、会社の先輩(レオン課長のエイジクライシス)も、老いをかなり気にしていた(今はどうだか、知らないが)。

 外見が衰える、白髪が増える、筋肉が低下する、新しいことが身につかなくなる、動きが緩慢になる。不安、焦り、焦燥感、孤独、自己卑下。

 老いの考えを深めておきたい、とamazonで本を取り寄せようと思ったら、売り切れていた。でも、NHKテキストはたったの600円で入手可能!(amazonベストセラー1位6/29現在)

同番組の司会は、お笑いタレント伊集院光で、ゲストは東大名誉教授の上野千鶴子。
上野千鶴子はたしか、毒舌コメンテーターの古市と交流があったなあ、と番組を観ていたら、類は友を呼ぶのか、彼女の方こそ、古市に負けないような大胆発言をしており、「NHKでそれ放送していいんですかね?!」と、伊集院光をドギマギさせていた。(でも放送されたから、アッパレEテレ!)
 

「最近、歳とったわ~」とか、「老けたくねえなあ」といった、これから老いていく、あなた。
一緒に老いを考えてみませんか。


しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる」(箴言16・31)

 

 

 





当事者研究をした、ボーヴォワール。「老い」という本を執筆したのは、62歳だったそう。

「この年代は、何を考えているんだろう?」ようなので、これから老いていくのが、

「第二の性」


毎日わが子を褒めてますか?

 小学生の娘がいる。私は親たるもの、わが子への評価はすべて控えめであれ、と、人前でわが子を褒めることは殆どしなかった。親バカはみっともない、と思った日本人ならではのメンタリティーゆえである。
 だが3年前の夏、子供キャンプのバスで移動中に、10以上年下の幼稚園先生から、こう説かれた。

「親が、わが子を世界一可愛い!!って言わないで、いったい誰が言うの?!」
「もーっ、たっくさん、可愛い、可愛いって、子どもを褒めて抱きしめてください!」

 私はけっこうビックリして、「え?!そうなの?そんなことしていいの?」と返したが、「当たり前です!」と彼女が胸をはったので、私は方針転換した。

未だにそのことを覚えているので、私にとって、相当衝撃だったのだと思う。

 というのは、今日、娘をぼんやり眺めながら、ある感情が沸き上がったので、その会話を思い出したのだ。


 

 かわいいなあ。

 
 わが子をそう思っている自分にギョッとした。余裕がある自分にも驚いたし、親として人並みに慈しむ気持ちがあることにも感動した。こんな私にも、聖母みたいな感情がちゃんとあるじゃない?
 
 目の前の娘は、まだまだ、小さな顔と細い腕で、まるで人形のよう。そんな子が、毎日、自分の頭で考えて、自分の足で、学校に一人で行く、そう思うと感動した。

・・・。


 無言で見ていると、娘と目が合った。彼女は、なんだ?とでもいう顔をして、無言で私を見るので、ニッっと私は笑った。

(わが子よ、母はお前にみとれていたのだ・・・)

 子供と言えど、よく生きている、と褒めてやりたい。学校は必ずしも楽園ではないからだ。

 時々、自分と娘を比べる。

 私は会社を選んだが、娘は学校を選んでない。
 私は会社が嫌なら辞めればいい。が、娘は嫌でも行かなくてはならない。
 私はお喋りする同僚を何百人から選べるが、娘は僅かばかりのクラスメイトからしか選べない。

 娘の方が、逃げ場がない。そんな世界で、子どもは実によく頑張っている、と私は思う。
 本当に、よくやっている。
 
 

 いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
(箴言3:3)


クリスチャン生活

「私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう」詩編56:11

コロナ後、最も大きな生活の変化は、ともかく、外に出かけなくなった。この一言に尽きる。
そして、個人的に変わった点は、神さまをぐんと好きになったことだ。

家に居ると、至る所に、神さまの香りがする。
まず玄関、そしてお手洗い。
聖書の言葉が飾ってあるから、無意識に読んでしまう。

そして、室内にあるもの。
愛する家族が立ち歩き、本や、文具が転がっていると、家庭を実感する。
これらはすべて、神様が私にくださった。

生活の中心が家になり、自宅から会議をしていると、働いていても、家族が常に頭にある。
だから、神様のことを考える。つまり、
出勤していた頃より、ずっと神様に心を向けるようになった。
それはつまり、祈りだと、友が言っていた。

10代の頃、祈る、という行為を覚えた。

祈り、とは目に見えず、まったくもって地味そのものである。
特に聖書には、「部屋の奥に入って戸を閉めて、誰にも見られないようにして祈れ」と言ったような記述がある。

つまり、

私は祈っています!と公表はせず、自分の身を低くし、努力は語らず、黒子になって、情熱を神に注ぐ。
静的で、一見すると非力にみえる、この熱量こそ祈りの本質だ。

私は、この祈る機会を、この1年、たくさんもらった。
祈り始める時、最初に神様を褒めたたえると、自分の悩みが小さくなっていくこともたくさん体験した。
創世記には、私たち人間が創られた目的に、神への賛美、がある。
だから、毎日、神様を褒めたたえることを意識して祈ると、きっと神様は喜んで、私たちは祝福されるだろう。

クリスチャンの生活。

それは、祈りに始まり、祈りに終わる。

その人がどのような1日を送っても、祈って、祈って、祈る生活。
それが、クリスチャン生活だ。

2020年コロナ禍クリスマス会_前編

 例年、クリスマスと言う日をこよなく愛している私。それは、イエスキリストがこの世に生まれた、ということを公に祝える日だからである。
 サンタの日じゃないYO

 昔、メディアで連載を開始する前、編集者に「聖書の言葉を紹介したい」と言ったら、「仏教の言葉だったらいいけど、聖書はダメ」ときっぱり断られた。売れないそうだ。

 それくらい、日本人にとって馴染みのない聖書だが、世界のベストセラーであり、欧米諸国では教養の一つとして、聖書は親しまれている。ハリウッド映画を鑑賞すると、時折これは聖書の箇所だ、と気づくが、聖書を知らない日本人に、このシーンの意味は分からないと、いつも思う。
  
 そんな日本にあって、クリスマスだけは、聖書を紹介しても、ちっとも嫌がられない。これまで、この日だけは特別よ、と、たくさんの人たちに、ささやかなクリスマスプレゼントを贈り続けてきた。

 時間に余裕のあった20代、12月になるとクッキーを焼くのが、独身時代の私の恒例行事だった。一日かけて、クッキーをオーブンで焼く。ドイツのミンヘン婦人のレシピは、バターの分量が多く、口に入れると、ホロッと崩れて美味しかった。市松模様の美しい黒と白のボックスクッキーは、見た目も華やかで、母が作るのが大変、上手かった。
 

 透明なセロファン袋に入れ、緑と赤のリボンを結んで、聖書の言葉と一緒にする。
 クッキーは大変美しく、いつもラッピングが楽しくて、渡す前からワクワクした。
 手作りのため、渡せるクッキーは少量ながら、私にとっては思い入れが深かった。
 
 
 
 結局のところ、なぜこのようなことをしていたか、と言えば、聖書を知ってもらいたい、この一言に尽きる。聖書に次の言葉がある。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
 
 この使命を胸に、毎年この時期になると、私の中の聖霊が私にささやきかけてくる。
 「誰か、いないか?」
こう書くと、一気に宗教染みてくるが、聖書によると、イエスキリストを心の中で信じて、神様だと受け入れたとき、神の聖霊が、一人一人の人間に宿る、という。(儀式は必要ない)
 
 義務なのか、欲求なのか。私の中の霊が、絶えず、私に働きかける。

 私にとって、誰かが神さまを信じたとて、私にご利益があるわけでもなく、私には全く、関係ないこと。

 けれども、私がこの世で生かされているのは、このためである、と思うから、勇気を出して渡しす。
たとえ、相手に喜ばれなくても、その人にとって、渡した聖書の言葉が、いつか彼/彼女の人生の局面で、必要になるときがあるかもしれない。その人の運命は分からないから、今この瞬間、ご縁があった人へ私が出来るプレゼントを贈るのだ。

「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。ルカによる福音書 2:11」

 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。ルカによる福音書 2:14」

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、 ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネの福音書 3章16節 」

 
 クリスマス礼拝が、今日は世界各地で行われる日曜日だ。洗礼式もある。

 わが魂よ、主を褒めたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
 どうか、たくさんの人たちが、喜ぶ日曜日でありますように。

誕生日プレゼント

今年も誕生日がやってきた。
朝、夫を送り出したら、私の作業していた場所に、プレゼントが置いてあった。
(わ!プレゼント!!) 驚いた。 さりげなさに、愛を感じた。サプライズ成功である。 近頃、夫は休日返上で働いているだけに、これがどれだけ価値あるか、私にはよく分かった。ありがとう。。。 メッセージカードを開いてみる。どれどれ…。
「お誕生日おめでとう!いつも、育児や家事をありがとう」
…って、私は、お母さんかーーーーい!!(お笑いのルネッサンスの人風に) と、ツッコミたくなった。 まあいいや、彼らしい。ともかく、ありがとう。 さて、今日から私は、2日間夏休みだ。 誕生日、最初にやるならまず聖書でしょ、と、午前中はバイブルスタディーで課題の創世記をオーディオで聞いた。BSF(バイブルスタディーフェローシップ)という海外発の聖書学び会に、今月から新たな仲間と取り組むことになったからだ。 このBSFは、6月頃に声をかけられ、夏はアプリで平日は毎日、仕事の傍ら、聖書を読んで、自分の考えをSlackに投稿する、という作業を繰り返し、もう無理・・・と思った。だが、これは人のためにやるのでなく、自分が聖書と向き合って、今の恵みを覚える意味でやる、ということで、途中からは、投稿できない自分を責めるのはやめて、みんなの投稿を読むだけで、参加することに意義がある、となんとか、走り終えた。 それが、秋になると、このアプリのチームとは別のチームから、学びの招待状が届いた。平日学んだ内容を日曜夜にZOOMで1時間シェアする、という。日曜の夜、といったらリラックスはMaxの、ゴールデンタイムだ。 家族をよそに、夜に知らない人たちと顔を合わせるのもなんだか精神的に疲れるし、PCを立ち上げるのも億劫だし、私も夫と半沢直樹を見たいしな、と否定的な思いばかりが浮かんだが、悩みに悩んだ挙句、聖書というより、この出会いにも何か神さまの導きがあるかもしれん、と、清水の舞台から飛び降りてみた。 実に、コロナになって自分の何が変わったか、というと、神様との時間が非常に増えた、この一言に尽きる。これが、キリスト者として本来あるべき生き方だったのか。それとも私が年を取った、ということなのだろうか?! 在宅勤務になって、通勤電車に乗る習慣もなくなり、刺激が少なくなった結果、生活のシンプル化と共に、考えも非常にシンプルになっていった。自分にとって何が最も大切か、よく分かるようになったのだ。 同僚とどんなにオンラインで会議しても、体はいつもホームベースにあるから、心はいつも家庭に残る。そうすると、家の中心は何か、ということが私に迫ってきて、神様なしで生きられない、と強く感じるようになった。 私と、私の家は、主に仕えん という言葉が、まんざら、うちにもあてはまらないでもない、と思うようになった。 まさかこの不良クリスチャンの私が、こんなに真面目な考えを持つようになるとは思わなかった。私のことだから、途中でド派手にすっころんで、奈落の底に落ちていくかもしれないが、今の所、 「昨日のことは忘れた、明日のことは分からない。まずは今日よろしく」 と、今を生きることをまず大切に、後悔なく生きていきたいものである。 というわけで、 長くなったが、お父さん、お母さん、こんな私を育ててくれてありがとう。 周りにいる主にある家族も、そうでない、お友だちも、先輩も、こんな私に寄り添ってくれて、ありがとうございます。 今年は海外にもいかず、ゴージャスなホテルにも行かず、誕生日ケーキのホールも買わなかったけれど、父が昨日差し入れてくれた、ローストビーフ、サーモンのマリネ、ひじきご飯に自家製漬物が、最高級レストラン並みでした!  何もない日々が一番の贅沢って、まさにこれです。ありがとう、ありがとう。感謝、感謝な誕生日でした。 by桜子

証。する、しない?

先週、教会のママ友を経由して、私に、「証し」の打診がきた。
来月の火曜日に、教会で行われる「聖書学び会」の後に、私が証をしてはどうか、という。平日だから、会社を休まねばならぬ。一瞬、がっかりしたが、やらなきゃいけない気がした。

証とは何か?

改めて考えた。インターネットでググったら健康保険や医療証明のWEBページがでるばかりで、教会でやる証、の説明ページがなかなか出ない。しかたないので、言葉自体の定義をみたら、ー確かなよりどころを明らかにすること。証拠ーと、あった。

とどのつまり、神様の証明を私の口からするということになるのだが、
今まで私が聞いた数々の証は、誰かの経歴を延々と聞くことが多かった。どういう両親に育てられて、どのように感じて、神様を信じるようになったか、という話である。

15分間が持ち時間だから、私の履歴書(by日経新聞)を話すわけにはいかない。
ポイントを絞って話さねば、と思う。
しかし、これって、誰に対して、話すの???

改めて、考えさせられた。
そもそも、聖書の学び会で、証がセットになっているのはなぜだろうか?
たまたま隣にいた教会の人に聞いたら、「昔は初めて来る人のためにやっていたと思うんだけど・・・」と言った。
今は? 今は初めて来る人ってあまり、いないよね?

この場に集う人は、大半が信者だ。神様の存在を信じている群れである。だから、私などが話して役に立つわけもないのだが、なぜ、今、自分がやるんだろう?

 思えば、私は、現在集う教会には、小学4年生の頃から集っている、生粋の教会っ子だ。なのに、今まで一度も証をする任を受けていない。昔、バンコクで数名を前にいきなり指名されて、何か喋った記憶はかすかにあるが、公の場で正式に話すのは今度が初めてになる。
 何を話そうかなあと思いながら、日曜に会ったクリスチャンママ友らに、証のことを尋ねたら、彼女たちは口を揃えて、「今まで2-3回(証の当番が)廻ってきた」と言った。びっくりした・・・!何回も任命される人がいる一方で、私、ゼロって、どういうこと?

 やっぱり、自分は教会の人っぽくないんだよなあ、と思って、教会からお前はダメなやつ、と審判を下されたような気がした。今回証しをすることになったのは、やっと人前で証し(=話)する資格を取れた、ってことなんだろうか。

ちぇーっ。

 やさぐれそうになった瞬間、いや、待てよ、と思った。
証するという行為は人前に出る行為だから、逆に言うと、今日まで神様が人(大衆)から、守ってくれたのかもしれない。だって、私、神様に愛されているし、もしかしたら、神様の秘蔵っ子?と、勝手な妄想を膨らませた。

しかし、わからぬ。いったい何を話すと、証になるだろうか。
そもそも、神様を信じている私ではあるが、証をしていいのかどうかも、よくわからない。

主人には「変なこと言わないようにしろ」と釘をさされた。
なかなか的を得ている。さすが、私の伴侶。

私はこの人と会ったことで、人生が変わった。
彼との出会いで、自分の信仰生活がハッピーエンドになった。(注意:仮に今日が生涯最後の日だった場合)

(つづく)

30-40代前半の既婚女性「子供なく肩身狭い」5割

本日の日経新聞の社会面に、民間調査の結果がタイトルに踊っていた。

私はこれを呼んで思った。私が独身の頃は「夫なく肩身狭い」、そう思っていた。幸い、その後、結婚に恵まれ、一気にコマを進めて今は子がいる。

さて、そんな私の心境は、これまた今朝の日経に載っていた、「子供たちには楽しい夏休みだが、働く親には悪戦苦戦の季節」であって、「仕事に忙殺され、子供と接する時間が限られると親は罪悪感を抱きがち。特に母親は、物理的にも心理的にも葛藤を深めやすい(女性面原文そのまま)」。

結婚しても、子供が居ても、満ち足りることは難しいのである。


満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。 (テモテの手紙I 6:6)
私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。(ピリピ 4:11)

私はいったい、幾つになったらキリストの弟子のように、学びました、と胸をはって言える日が来るのであろう。
神様、こんなに歩みがノロい私で、すみません。それでもいつかきっと、こんな私でも役に立つ日がくるだろう、と信じて生きているのである。

暗くならない葬儀

先日、ご葬儀の受付をほんの少し、手伝わせていただいた。

私にとって、教会の葬儀で受付は初体験。教会の葬儀自体も久しぶりだった。

一緒に受付を担当した姉妹が「不慣れで・・・」と事前に仰っていたわりには、プロと見間違うほど上手かったので、焦った私も精一杯、失礼がないよう、務めた。

さて、定刻になり、お別れ会が始まった。
私は受付に立ちながら室内に流れる司会者の声を聞き、祈りの声を聞いて、今日は来てよかったと感じながら、「教会の葬儀は実にいいなあ」と素直に思った。

2016年に義父が召され、身内だけで静かに見送ったが、どんなに地味に行っても、葬儀は悲しみや暗い気持ちに包まれる。一方、教会で行う葬儀は、もちろん悲しみが伴うが、同時に希望がある。暗さがないのだ。なぜなら、教会では「死んだら天国で再会する」と皆が信じているからだ。これは、

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」

という聖書の言葉に起因している。

だから、葬儀には、「またいつか会う日まで」という聖歌にある通り、しばしのお別れ、と捉えている。

死はけして終わりではない。そう信じている人たちがお別れ会を行うと、神などいない、とふだん豪語する人でも、参列した途端に不思議な安堵感を感じるのではなかろうか。

「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」伝道者の書7:2

終了後、私は帰宅すると、夫の葬儀が気になった。
今のうちに、彼のその時について意向を確認しよう、と思った。

「ねえ、ねえ、あなたが亡くなった場合なんだけど、教会式でやっていい?」

夫は間髪入れず、「俺が死んだ後のことなんか、知らんわ」と言った。ごもっとも、と思いながら、「じゃ、好きにさせてもらうね」と言った。葬儀は故人のためにあるのではなく、残された家族や関係者のために絶対的に必要なもの、というのが私の持論だ。私の納得がいくようなスタイルで、彼が亡くなったら別れをすることにしよう。

とはいえ、今はまだ、夫と離れたくない。
彼の健康が不安になるたび「彼はわが家に必要です。まだ取らないでください」と訴え続けている。

子供クリスマス会ラッシュ

12月金曜夜といえば、かつては私も街に繰り出した。

先週はそんな遠い昔に思いを馳せ、娘のいる保育園へまっしぐらに向かった。
その夜、私たち母子は近所の教会でクリスマスパーティがあった。一度家に帰って着替えようと、私は娘の手をひいて早歩きをしていた。そして同じように、わが子の手をひいて歩く母親らと何度もすれ違った。すれ違う女の子はみな揃ってディズニープリンセスのようなドレスを着ていた。

さすが代官山、パーティには事欠かない。

さて、そんな中、わが家はお地味(?)に教会へ。
うちの子は、近所の外国人向け教会のバイブルクラスが大好きで、毎回心待ちにしており、今夜も近くのお友達が数名来ていて喜んだ。

▪️英語のバイブルクラスとクリスマスパーティー

娘べべは喜々として皆の世話を焼いた。
(なんと、私の仕事仲間S子さんが新橋から去年に続き来てくれて感謝)

そして翌日は吉祥寺の子どもクリスマス会へ。

今年は賛美中心で、ホールに響く子供の声は美しかった。
私が小学生の時に歌った曲が流れていて、世代を超えて私の記憶が娘に引き継がれる瞬間に涙した。(※比喩です)

たまたま、義母も来てくれ、考えたら私の結婚式以来であった。
先生方がイエスキリストご降誕の劇をやったのを見て、「子供の会は、大人のより分かりやすくていい」と母は喜んで、「連れて来てくれてありがとう」と、何度も私にお礼を言ってくれた。

なぜか、途中の出し物でNHK大河ドラマ「真田丸」の寸劇があった。
わが家は観ていないので、いまいちよくわからなかったが、娘べべは翌日NHKのCMを見て「さなだまる~!」と叫んでいた。さすが、子供の吸収力は早い。

あと、意外にもピコ太郎の曲が流れて来たので、集会スタッフのしなやかさにも少し感動した。
こんな時代が、かつてこの吉祥寺にあっただろうか。

あれこれテンコ盛りだったが、どの会も、背後にある、「神様の愛を知ってほしい」というクリスチャンの方々(神様の存在を信じる人)の祈りを感じ、大きな安堵感を覚えた。普段の日常では俗世間にまみれている私でも、神様を信じていることは間違いない。

12月のクリスマスシーズンはこんな風にして天を想い、一日一日と、重荷を降ろしていく気がする。すべての重荷を降ろして、もう心配しなくていいよ、と言われる日の最終日が大晦日のような気さえする。
(※仕事も休みになるし・・・)

でも本当は毎日が私達の大晦日であって、
毎日の心配は不要である。

クリスマスまで、あと一週間。
しばらくこんな暮らしに浸りながら過ごしていきたい。