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夏の軽井沢・日曜学校こどもキャンプ2016

去年に続き、今年も母子で参加した二泊三日のこどもキャンプ。

 
女友達2人が来てくれ、大人3人にこども1人で向かう。

私は子供の面倒と大人トークの両立が出来るので気楽だった。

行き、ランチを軽井沢駅前の良さげなお店でアフタヌーンティーをする。

4時から受付、半からクラス開始。

まずは名札作り。去年、名前を書いてもらった娘は、今年自分で名前を書いていた。  

  
DAY1。

二日目は、鳥の声に起こされて娘4時半起き。

朝食前にとうもろこしの皮剥き。

 
食後はバスで遠足。

  
 夜は日曜学校の先生によるお芝居を見た。去年よりも今年はさらに迫真の演技で面白かった。
最終日は、朝の集いで歌を歌う。

 
その後、工作。パパに作ったよ。

  
自分で書いた『パパに』の3文字。

帰りたくないと別れを惜しむ娘と共に、今年も参加できたことに感謝。

保育園の園庭

あっという間に6月も終わり、7月に入った。

保育園の園児たちが育てたナスも、大きく実った。

 
娘が、庭のナスを見て、と言うので、これみて茄子好きに変化してきた理由が分かった。

実地学習は大事である。

さて、今朝は心労気味なので、友の薦めもあり、朝から聖書のメッセージを聞いてみた。

朝からそんなヒマあるか?と思っていたが、トライしたところ、3分くらいで、オーディオ環境は設定できた。
あとは聴きながら、朝の支度をするだけ。

聞いてたら少し元気になった。

子供の教育

内容は聖書から考えた視点。リンク探したら、あったので、クリッカブルにしておく。

先日、年上のママ友から、巷に育児書はたくさんあれど内容がペラッペラ、と嘆いていた話を思い出した。

そうなんだよな〜。いい話こそ、実はどこかに埋もれていたりするんだよなあ、と思い、どなたかの参考になれば、と共有する。

わたしが死んだら~4歳のつぶやき~

今朝は夫が昨日から出張で、娘と私、ふたりだけで朝を迎えた。
吉祥寺の日曜学校がお休み、ということもあり、近所の東京バプテストチャーチの礼拝に出かけた。
午後からは、娘の初めてのバイオリン発表会もあったので、渡りに船だった。

と言う前置きはさておき、
礼拝後、昼食前に、頂いたクリスマスクッキーでおやつタイムを取っていると、
娘から思いがけない質問が飛んできた。

娘「ママ、私が死んだら誰が運ぶの?」
私「え?なに??身体なら誰かが運ぶけど・・・・何を?!」「身体?心?どっち??」
娘「心。」
私「心なら大丈夫だよ、神様がシューっと運んでくれるよ。」
--ふうん、という娘の顔。ふと私、心配になり、

私「ねえねえ、ママとべべちゃん、どっちが先に死ぬか分かる?」
娘「ママ。」
私「そうそう。(良かった、わかってる。)」

と会話しながら、普通の家だったら、子供に死のことを尋ねられたら、不吉なことを言ってと怒鳴るかも知れないなあ、と思った。
でも、人はいつか死ぬ、という、当たり前のことは例え小さな子でも知っておくことは私は大切だと思っているので、こんな話が出来て良かったと思ったし、、共に死に向き合えることはとてもいいことだと思った。

でも・・・・それと、死を受け入れられるかどうかは全く別の次元の話。
もしも娘が取られたら、私は発狂して死んでしまうだろう。

ママ大好き記念日

娘に、「好き」と初めて言われた。

夕方、畳の部屋で立ち上がって洋服を整理している私の足に娘がじゃれてきて、
「ちっち、ママのこと大好き」※チッチ=自分
「ママのこと、だーいすき!」
と、片足にハグしてきたからビックリ。

それはまるで、マリヤがイエスに香油を注いだときは、こんな感じだったかと思うような、甘く優しい感触でうっとり・・・。

大好きどころか、好きと言われたのも初めての私だ。

「それ、ホント!?」
と思わず聞き返した自分に心の中で苦笑い。

おかしなものだ。
一般的に子が親を好きなのは当たり前なのに・・・。

だが、私はまだ新米だし、娘が自分を好きかどうか等と考える余裕もなく、今日まで走り続けてきた。
だから、言われて心の中に灯がともるようにうれしかった・・・!

同時に、言われてうれしかった自分にも驚いた。

というのは、こんな私にも、娘に対しては〝見返りを求めない愛〟---つまり、無償の愛(アガペー)を注いでいたことに気づいたからである。

血も涙もない私にも、人間味あふれる所があったのか・・・と思わされ、また聖書にある通り、親が子を愛する愛によって、私たちは神様の愛を知る、ということのくだりも、なるほどと思わされたのである。

聖書が教える育児

昨年、聖書の観点から書かれた育児本を頂いた。
ずっとこのような本を探していた私は飛びあがりたいくらい嬉しかった。
というのは、聖書に基づいた育児の価値観が知りたかったからである。

一気に読み進めるのがもったいなくて、少しづつ読み進めている。
ちょうど、先日の夜は、こんな箇所を読んだ。

【親の言うことを聞かない子をどうやって聞かせるか?】
この問題で悩まない親は1人もいない。すべての親は、子と日々格闘している。
この育児本では、上記の問題に対して、以下の対処は間違っていると書いてあった。

1)賄賂を使う方法(お菓子をあげるから、買ってあげるから、○○しなさい)
2)感情に訴える方法(あなたが○○しないとお母さんは悲しい)
3)罰を与える方法(○○しないと、テレビは1週間禁止よ)
4)行動を修正する方法(○○をしたら、シールを一枚づつ貼るわ)
5)私もちゃんと育ちましたから的方法(ママもおばあちゃんに○○するよう言われた)

夫にこの話をすると、
「たいていの親は、今言った方法で対処しているよね?それがダメなら、どうやって対処すればいいの?!」
と言った。

私も、
「だよね。その答えが次の章に書かれているみたいなんだけど、まだ読んでないの。」
と言って、夕食を終えた。

その夜。
娘をベットで寝つかせていると、夫が傍らにいたせいか、突然泣き出して
「あっち(リビング)のお部屋行きたいの~!」と大声で遊びたいと喚きだした。

今まで、わが家ではたいてい、このような状態になると、
体力のある夫が娘を抱きかかえ、リビングで娘の願うとおりに遊ぶのだが、
この日は明らかに就寝時間であって、娘が本心から遊びを希望しているというより、
ワガママだと(私には)見えた。

それで、私は絶対にダメだ、と言った。
夫は娘の言うことを聞いてあげたい風だったが、私が先に宣戦布告を訴えたので、
私に加担せざるを得なくなった様で弱ったなという態度だった。

そして、彼は娘を指導し、懸命になだめるも、べべは泣きやまなかった。
私は私で夫が対処してくれている間に、次の一手はどうすべきか頭をフル回転させて考えていた。
「そんなに泣くなら、一緒に寝ません。パパとママは(寝室を)出ていきます!」

しかし、ハッとした。罰を与えてはいけないと夕食時に話したばかりだった。
でも、どうしたらいいの!?

娘の泣き声がこだまする中、頭の中がぐるぐる回って、
ああもう!と思い切って私は夫に寝室を出ていってくれるようお願いした。

娘と私、ふたりきり。
そして私は、ママの話を聞いてと言った。

娘は泣きながら、「パパ、どこ行ったの?」と聞き、話を中断しようとしたが、
私は根気よく、「パパには出てってもらいました。あなたと二人きりでお話をしたかったからです。」と何度も答えた。

そして、私が娘に話したことは、
・パパとママが結婚してべべが産まれたこと。
・パパとママは神様からべべを授かったこと。
・パパとママは神様から授かったから、べべを育てる義務があること
・パパとママは神様から預かったから、べべを監督する義務があること
・パパとママの言うことを聞きなさい
・大きくなったら好きなことをしなさい

これらの話を娘にこんこんと説明したら、娘はすーっと寝てしまった。

このひと騒動後、戦いを終えた兵士のように隊長(夫)のもとへ戻って行き
「寝た・・・」と報告した。
そして、夫に「さっきの本の続き、読まなくても答えが分かった」と言った。

あとで、次章を開いたら、次のように書かれていた。

エペソ6:1
子供たちよ。主にあって両親に従いなさい。

夫は理解したかどうかはともかく、べべがその話を(泣きやんで)黙って聞いていた、っていうのがすごいよね。と言った。

私は、子育ての大変さと神の奥義に改めて深呼吸をした。
そして、聖書に認められている通り、子供というのは親が意識していようがいまいが、もっとも神様に近い存在として誕生している神秘を思わされた。

育児は、娘だけでなく、私にとっても非常な学びの連続である。

一年前の1歳バースデー

2012年10月16日火曜日、べべは一歳になった。

 私の作ったお誕生日ケーキ☆

このケーキをみると思いだす。
誕生日の前日に急遽、実母がスポンジケーキを焼いてもってきてくれたこと。

ならば、と誕生日を迎えた当日の朝6時半、娘と夫が寝ている間にカーディガンを羽織って、近所のマルエツプチ(スーパーマーケット)に生クリームを買いに走ったこと。朝の忙しい時間だというのに、娘をあやしながら、生クリームを泡だて、果物を切って、デコレーションを頑張ったこと。そして、慌てて近所のママ友らに「ケーキを焼いたんだけど、食べにこない?」と誘ったこと。
(※娘が誕生日というのは内緒にした。気遣いさせると思ったので)

それで、結局、その日は10~12人(子を含む)がわが家にいらしてくださった。
すごくありがたくて嬉しかったが、私は会が終わった後、片づけなどをしていたら、ちょっと・・・な気持ちになった。

一年たった今だから書ける話だけど、

私はこの日、家は賑やかだったけれど、心は小雨だった。
というのも、自分がホステスとして忙しく、肝心の娘と向き合う時間が殆どなく、いったい誰の誕生日だったんだろう、と思ったからである。それで、自分はいったい何を見て過ごしているのかなあ、と思った。

だけど、

すごいなあ、と思ったのはその後の3日間だった。

私を落ち込ませたそのケーキが、余ったことによって、(ケーキを巡って)1日一人、来訪があり、娘の幸せを祈る機会が3度も与えられたからである。
そして、私はすごく満たされて、そのことにも驚いた。

というのは、
改めて自分が本当に神様の存在を信じているんだなあ、と思わされたことと、神様はやっぱり一人一人に良くしてくださるんだなということを実感したからである。

      *        *        *        *

明後日はべべの幼なじみパリちゃんの2歳のバースデー。
フランシス一家もまた、神様に祝福された一日を過ごせるようにと祈っている。

広島バイブルキャンプ

夕方、広島エアポートホテルに到着。

娘と初めて、こども集会に参加。
聖書のお話だけを聞くのかと思ったら、歌やお話の後、カード作りをしたので、ビックリ!

堅苦しく考えていた私には目からウロコで、

集会の人には、楽しい思い出を作ってくれたら、といわれた。

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バースデーカウントダウン

今日はべべ11ヵ月のお誕生日。
さらに、私の誕生日の一日前である。(ワクワク♪)

両親から急にメールが来て、
お祝いに実家に食事に来ないか、と言う。

ありがたいが、最近の私はかなり子育てに疲れ気味。
ベベは可愛いが、睡眠不足と疲労でクタクタ。

「だったら、うちに来てくれる方がありがたいんだけど・・・」
と言ったら、母親がパエリアを作りに父親と共に来てくれた。

お昼前、家であらかじめ洗ってくれた野菜でサラダをつくり、
サフランをお湯でふやかして素晴らしいご馳走があっという間に完成した。
改めて「明日のお誕生日はママのおかげです」とお礼を言った(つもり)。

そして、両親が揃ってうちに来てくれたので、
久しぶりに思いっきり相談したいことを話した。
意外と二人に何かを話す、という時間はないものである。
というのも、最近の主役はもっぱら娘であって、私が出る幕はあまりない。
今日ぐらいはワガママでいいよね、と思って話したらスッキリした。

父親はそれを聞いて、こうせよ、というアドバイスを何度も私に繰り返した。
(又おんなじことを言ってる・・・)と思ったが、それは私がいつまでたっても、その通り動かないからである。

(さすが、お父さんだなあ。よく気がつくなあ)と、内心感動しながら、
(親ぐらいだよ。こうやって苦言を呈してくれるのは)と、ありがたく思った。

この歳になると、誰かから指導される機会が減っていく。
話を聞きながら、いつかやってくる両親との別れの時がチラリと頭の片隅に思い浮かんだ。
愛する親がいなくなったら本当に辛いものである。

別れ際、父親が珍しくべべを(私の代わりに)ずっと抱っこして近所を散歩してくれた。
「(重いだろうから)代わるよ」と言ったら、かたくなに父親が拒絶した。

どうやら、私が抱っこすると、私の身体に負担がかかるので、思いやってくれたようである。

親はいつまでたっても親なんだなあ・・・・と思ったと同時に、

「いつまで抱っこできるかどうか(健康状態が)分からないから」
と言った父親の言葉にしんみりした。

私がこの年まで無事に生きてこられたのは、この両親あってこそである。
本当に酷い娘だったけれど、(今も進行形だけれど・・・汗)
このお父さんとお母さんに育ててもらったことは私の人生における最大の幸運だった。

家族って不思議だなあ。

今からは、私がべべの長い道のりを寄り添って歩いていく番。
何歳まで生きるのか分からないけれど、今からの人生も神様にすがって生きていきたい。

お父さん、お母さん、結婚してくれて、ありがとう。
私を産んでくれて、(人生は辛いことも多いけれど)本当にどうもありがとう。

必要なものはすべて与えられる

年末年始、私のブログ更新は滞ったけれど、
いろんなことが起こった。(と、思う)

今日はそのうちの一つ、
クリスマスの翌日にあった話を書く。

ベベ(マイベビーの略)との二人暮らし(+夫)も2ヵ月目を迎えて、
我が家に少しづつ他者との交流が始まってきた。

ある方が、「うちに来たい」と仰って、
私がべべの育児で家事が出来ず、
部屋が散らかっている、と答えると、
「そんなの産後は当たり前よ。自分でお茶持っていくから」と
仰って、ホントにご本人自らお茶の葉とお菓子を持参して、
サクサクと遊びにきてくださった。

実は私、こう見えても、けっこう人見知りで、
その日のお客様は面識あれども、
深い話をしたことがなかったので、
緊張していた。

だけど、その方は気さくでトーク上手だったので、
私はフムフムと聞かせて頂くだけでよかった。
さらに久しぶりのオトナ時間はとても楽しかった。

で、本題はその後。

帰り際に、部屋の隅にあった三浦綾子の本を見て、
彼女が言った。

「あ、三浦綾子の本。
 本といえば、Amazonで買おうと思った本が絶版になっていてね、
 代わりに『XXX』を購入したんだけど・・・」

というので、私はすかさず別室にいき、
「一日遅れですけど、クリスマスプレゼント」と彼女に渡した。

「!?」

訝しげにする彼女。

「いや、その三浦綾子の本も、もし読んでなかったら差し上げようと
 思っていたんですけど、これは神様が今日○○さんに差し上げなさい、と
 仰った本だと思う。だって、これ、どなたかに差し上げようと、
 たったひとつだけクリスマスのラッピングをして残っていたから」

そう、そのラッピングの中に入っていたのは、絶版だという、
彼女が探していた『主のための放浪者(コーリーテンブーム著)』(という本)。

その瞬間、彼女は両目を真っ赤にして、涙ぐんだ。

「これ、絶版で、希少価値がついているのよ・・・・」
と、感動していた。

その様子をみて、私も冬だと言うのに両腕にぞわっと鳥肌が立った。

「いや、こんな風にお役に立てて光栄です・・・。
 やっぱり必要な物は与えられるんですね」

私は、数年前にあった、※「ニューヨーク・クリスマス物語」を思い出した。

必要なものはすべて与えられる、と悟った数年前。
あれからなお、神様は変わらず今日も生きている。

改めて神様を賛美した年の瀬だった。