2020年コロナ禍クリスマス会_前編

 例年、クリスマスと言う日をこよなく愛している私。それは、イエスキリストがこの世に生まれた、ということを公に祝える日だからである。
 サンタの日じゃないYO

 昔、メディアで連載を開始する前、編集者に「聖書の言葉を紹介したい」と言ったら、「仏教の言葉だったらいいけど、聖書はダメ」ときっぱり断られた。売れないそうだ。

 それくらい、日本人にとって馴染みのない聖書だが、世界のベストセラーであり、欧米諸国では教養の一つとして、聖書は親しまれている。ハリウッド映画を鑑賞すると、時折これは聖書の箇所だ、と気づくが、聖書を知らない日本人に、このシーンの意味は分からないと、いつも思う。
  
 そんな日本にあって、クリスマスだけは、聖書を紹介しても、ちっとも嫌がられない。これまで、この日だけは特別よ、と、たくさんの人たちに、ささやかなクリスマスプレゼントを贈り続けてきた。

 時間に余裕のあった20代、12月になるとクッキーを焼くのが、独身時代の私の恒例行事だった。一日かけて、クッキーをオーブンで焼く。ドイツのミンヘン婦人のレシピは、バターの分量が多く、口に入れると、ホロッと崩れて美味しかった。市松模様の美しい黒と白のボックスクッキーは、見た目も華やかで、母が作るのが大変、上手かった。
 

 透明なセロファン袋に入れ、緑と赤のリボンを結んで、聖書の言葉と一緒にする。
 クッキーは大変美しく、いつもラッピングが楽しくて、渡す前からワクワクした。
 手作りのため、渡せるクッキーは少量ながら、私にとっては思い入れが深かった。
 
 
 
 結局のところ、なぜこのようなことをしていたか、と言えば、聖書を知ってもらいたい、この一言に尽きる。聖書に次の言葉がある。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
 
 この使命を胸に、毎年この時期になると、私の中の聖霊が私にささやきかけてくる。
 「誰か、いないか?」
こう書くと、一気に宗教染みてくるが、聖書によると、イエスキリストを心の中で信じて、神様だと受け入れたとき、神の聖霊が、一人一人の人間に宿る、という。(儀式は必要ない)
 
 義務なのか、欲求なのか。私の中の霊が、絶えず、私に働きかける。

 私にとって、誰かが神さまを信じたとて、私にご利益があるわけでもなく、私には全く、関係ないこと。

 けれども、私がこの世で生かされているのは、このためである、と思うから、勇気を出して渡しす。
たとえ、相手に喜ばれなくても、その人にとって、渡した聖書の言葉が、いつか彼/彼女の人生の局面で、必要になるときがあるかもしれない。その人の運命は分からないから、今この瞬間、ご縁があった人へ私が出来るプレゼントを贈るのだ。

「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。ルカによる福音書 2:11」

 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。ルカによる福音書 2:14」

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、 ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネの福音書 3章16節 」

 
 クリスマス礼拝が、今日は世界各地で行われる日曜日だ。洗礼式もある。

 わが魂よ、主を褒めたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
 どうか、たくさんの人たちが、喜ぶ日曜日でありますように。