ミーンミンミンミンミンミー・・・セミのけたたましい声が朝から響く。
マンションの住民が、階下でハーレーダビッドソンの轟音を吹かす。
だが今朝、私にとっての最大の騒音は、娘のうめき声だった。
うぅっ・・・!うー、うー!!!
かなり長いこと呻くので、夫が彼女に声をかけた。
だが、意識があるのかないのか彼女は苦しみ続け、いったん私が起き上がってお手洗いに行くと、本人も同じように起きて、唸りながらお手洗いへ来た。
時計を見るとまだ5時なので、寝るよう促すと、また眠った。
だが再び、起きる頃に長いこと、唸っていた。
いったい何に苦しんでいるのだろう。あれか、これか。
7月半ば、私は人生何度目かという試練に見舞われ、ドラマになるほど連日何かの事件が起こって、自律する訓練に襲われた。
心が痛くなると、食欲は失せ、お腹はみるみる、ぺったんこになっていった。
このままじゃ死ぬ、と思って、一生懸命食べた。
主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。・・・
彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、
ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。
彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、
水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。
それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、
「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。
(列王記第一19:5-7)
今日から八月になった。
暑い夏が、31日続く。私の人生もまだ続きそうだ。
カテゴリー別アーカイブ: 渋谷子育て
生き恥をさらすブログ
「文は人なりだ。自分の書いた文章には必ず自分が出ている。(精神科医きたやまおさむ「自己分析のために書く」/日経新聞夕刊より)
土曜の朝、私は母に子育ての悩みで連絡をした。私は珍しく弱っており、涙ながらだった。夫は仕事で出かけており、話す暇がなかった。
母は、私の様子を察し、なんとか私に寄り添おうと、忍耐強く私の話を聞いていたが、結局、母が放った言葉で印象に残ったのは、これだけだった。
「あなたのブログ読んでいると、“自分”、“自分”、がすごく多い。それと“仕事をしているっていう話”、あと、“親とは”。」
母が言わんとしたことは、「もっと自然に出来たらいいのに。(神さまを信じて)生まれ変わったんでしょ。肩の荷を下ろして!」というエールだったが、私は批難されている、と感じた。特に、ブログで、自分が多いという指摘は、ブログの性質上、仕方ないじゃないか、と思った。冒頭に書いた通り、文は人なり、だ。ブログで私は毎回まさに、生き恥さらして書いている。
午後、うちに遊びに来たママ友にこの話をしたら、
「すごいね、しっかり(ブログを)読んでくれているんだね!」
と、違う所に驚いていた。いや、そこに反応するんじゃなくて、私と一緒に憤慨してほしかった・・・。
確かにブログなんて一利なしだよな、とブログの全削除をすべきか、以前にも悩んだことを蒸し返しそうになったが、日曜夜、偶然入手した小説家・三浦綾子のメモリアル冊子を見て、それは少し先延ばしにすることにした。
私ね、自分が思っているよりも、神さまははるかに素晴らしく、その人をつくってくださっていると思うの。そのことにいつ気がつくかなのよ。
三浦綾子「銀色のあしあと」(いのちのことば社より)
生き恥をさらしているが、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と、聖書に書いてある。
私に文才なく、学もないが、神さまの目から見たら、「でもあなたは尊い」から、書いていいよ、と言われている気がした。
というわけで、今日も、私は“私”をつづる。
こんな駄文でも、たまには読んでいいな、という方がいたらぜひ、メルアド登録のお願いに、ご協力ください。
by桜子
日曜夜、東大院卒の塾長から電話
日曜の夜、私の携帯に知らない人からの電話が鳴った。ふだんなら出ない。
が、夜21時に「03」から始まる番号には、緊急事態を感じた。何事かとこわごわ出たら、某進学塾の塾長だった。「前にお問合せを頂きましたよね?」と相手は言うが、1年以上も前だ。
これは一体どういう了見か、と応答していたら話題は小学校の話に及んでいった。
ちょうど夫婦でこの日は「小学校へ行く子供のメリット」について、真面目に話し合っていた所だった。このあり得ないタイミングに神さまの働きを覚え、私は神さまがこの人を遣わした、と感動して、思わず携帯をスピーカーオンにし、彼の見解を夫婦で聞くことにした。
というのも、実の所、私たちは、学校に行くメリットを挙げられないでいたからだ。
東大院卒の塾長は、受験戦争に挑む親からすれば、憧れの東大卒だ。「私は時給30万」と電話口で豪語する彼の「小学校へ行くメリット」に、耳を傾けた。黙っていたら、ギャフンとする回答がたくさん帰ってきた。
「学校はね、行く意味なんて、ないですよ。第一ね、先生方なんて、私らより、偏差値低いんです。そんな人たちに勉強教えてもらったって、面白いわけないでしょ!」
ズコッ。なるほど…。教育に大事なことは偏差値の高さだけではないが、彼は、自論を次々に展開した。
「学校は“集団行動を身に着ける場”、しいて言うと、それです。それ以外はね、ないです。」
「学校の授業がつまらない、それは当然です。」
「学校では先生のために頑張るふりをする。寝たまま授業を聞いているふりをする。勉強は塾で学ぶ。学校は体力を温存するところ。」
「学校は、感情をシャットダウンするスキルを学ぶ場なんです」
要するに、小学校とは、世の不条理を学ぶ場、ということであった。
うーむ、そうかあ…。
結局彼の話は夜22時まで及んだ。おまけに、その電話は私がやんわり促して、やっと切ってくれた。先方は自身の熱弁にハッとして、こんな時間まですみません、と謝ってくださったが、「彼は何か病気なのかな」と、私は切った後、夫に言った。
夫は私の電話応答を聞き、目を白黒しながら、「しかし、どうして日曜の夜に人の奥さんに電話をかけてくるんだろうね?」と言い、「結局あれだよね、東大院率でも幸せとは限らない。そういうことが分かったのかもね…」と言った。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
それは、こう書いてあるからです。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。
この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。
それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
(聖書)
皆様、良い週末を!
去年2月に行ったサイパン
NHK夜7時のニュースを観なくなった件
テレビが好き、と昨日書いたが、日中のテレビを観ることが、本当に減った。
夜7時だけは唯一、娘と私の食卓用BGMにNHKをつけていた。が、最近つけるのをやめた。
「どうせ、暗いニュースだけだし、観てもしょうがない、やめよう」
と、子どもが言う。
確かに惰性でつけていた。本当にそうだね、と私も気づかされた。特に、コロナの感染が始まってから、トップニュースは一日の感染状況と政治家たちの話で、飲食店のインタビューも、届く話は暗い情報ばかり。加えて、東京オリンピックでさえも、空しい報道ばかりが重なって、聞けば聞くほど、矛盾をはらんだ開催は、沈みゆく日本の船の象徴のようである。私たち親子が、一日の終わりに聞くニュースとしては、かなり萎える。
「どうして、もっと明るいニュースがないの?」
子どもが投げかける言葉は、時として、本質を突く。
「ほんとだね、どうしてだろうね」
私は娘にそう応えるが、「それだと、世間が収まらないからだよ」と、心の中で言う。
こういうのは、なんていうのかな、とググってみたら、こんな言葉が見つかった。
「他人の不幸は、蜜の味」
「シャーデンフロイデ」(独: Schadenfreude 他人の不幸を喜ぶ感情)
※人類にとってシャーデンフロイデは、社会を守るために必要な感情だった。
自分たちよりも不当に得をしてる人を許さない。引きずり下ろす、という行動に喜びを報酬として与えて、促進することが共同体の維持には必要(ロザン×中野信子「シャーデンフロイデは、社会を守るために必要な感情なんです」|特別”高学歴”鼎談|菅広文/中野信子 – 幻冬舎plus (gentosha.jp)
こんな社会に、神さま、Let there be light(光よ。あれ)!
毎日わが子を褒めてますか?
小学生の娘がいる。私は親たるもの、わが子への評価はすべて控えめであれ、と、人前でわが子を褒めることは殆どしなかった。親バカはみっともない、と思った日本人ならではのメンタリティーゆえである。
だが3年前の夏、子供キャンプのバスで移動中に、10以上年下の幼稚園先生から、こう説かれた。
「親が、わが子を世界一可愛い!!って言わないで、いったい誰が言うの?!」
「もーっ、たっくさん、可愛い、可愛いって、子どもを褒めて抱きしめてください!」
私はけっこうビックリして、「え?!そうなの?そんなことしていいの?」と返したが、「当たり前です!」と彼女が胸をはったので、私は方針転換した。
未だにそのことを覚えているので、私にとって、相当衝撃だったのだと思う。
というのは、今日、娘をぼんやり眺めながら、ある感情が沸き上がったので、その会話を思い出したのだ。
かわいいなあ。
わが子をそう思っている自分にギョッとした。余裕がある自分にも驚いたし、親として人並みに慈しむ気持ちがあることにも感動した。こんな私にも、聖母みたいな感情がちゃんとあるじゃない?
目の前の娘は、まだまだ、小さな顔と細い腕で、まるで人形のよう。そんな子が、毎日、自分の頭で考えて、自分の足で、学校に一人で行く、そう思うと感動した。
・・・。
無言で見ていると、娘と目が合った。彼女は、なんだ?とでもいう顔をして、無言で私を見るので、ニッっと私は笑った。
(わが子よ、母はお前にみとれていたのだ・・・)
子供と言えど、よく生きている、と褒めてやりたい。学校は必ずしも楽園ではないからだ。
時々、自分と娘を比べる。
私は会社を選んだが、娘は学校を選んでない。
私は会社が嫌なら辞めればいい。が、娘は嫌でも行かなくてはならない。
私はお喋りする同僚を何百人から選べるが、娘は僅かばかりのクラスメイトからしか選べない。
娘の方が、逃げ場がない。そんな世界で、子どもは実によく頑張っている、と私は思う。
本当に、よくやっている。
いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
(箴言3:3)
#子猫が欲しいfrom渋谷
Today is #TakeYourDogToWorkDay!
今日はアメリカで、職場に犬を連れて行っていい日、だそうです。わが家には、連れていく犬も、開かれている職場もなかったですが。(1999年アメリカ動物愛護団体が始めた「職場のストレスが低減する」など広まった“職場に犬を連れていこう”運動)
犬、欲しいですね~。猫、欲しいですね~。
でも、「お願いだから、むやみやたらにペットを買わないで」と、トリマー(ペットの専門美容師)の友人に言われたので、わが家は自粛しています。。
事の発端は現在、ペットが高値で売れることで、悪質な環境下で動物を繁殖させたり、安易に買う人達が増えていることで、飽きたら捨てる、といった、命の尊さを無視した社会になっていることに、彼女が嘆いていたから。
その話を聞いて、
「それなら、わが家は買わないわ。でも犬や猫が欲しいから、もし保護された犬や猫がいて、貰い手に困ったら、一声かけてね」とお願いしました。でも、あれから、うんとも、すんとも連絡が入ってこず……。
ちなみに、欲しがっているのは私でなく、娘です。
彼女が、「超」が何個もつくほどの動物好きで、一日一回は近所のペットショップへ足を運んでは、お気に入りの犬や猫に触れ、「〇〇に、癒された~」と、帰宅するたび、騒いでいるので、飼ってあげたくなったのです。
というのも、
「私、もし犬か猫が買えたら、なんでも我慢できるわ」
と言うので、もしかしたら、苦手なアレやコレも、犬や猫がいたら、乗り越えらえるのかな?と考えてしまいました。
神さま、プリーズ!
求めなさい。そうすれば与えられます。
捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
(新約聖書マタイ7:7)
ああ、小学校よ、プールはなぜ赤い帽子必須か?
大人の時間軸と、子どもの時間軸は違う。私の仕事に季節はないが、子どもには四季折々の行事がある。
日中、私はスタジオ収録(なんと!テレビ番組「情熱大陸」のナレーター窪田等さんとご一緒)で忙しかったが、夜に夕食を食べていると、子供から「明日はプール開き」と言われ、慌てふためく悲惨な夜を過ごした。
何が悲惨だったかというと、「ある」と思っていた赤い水泳帽子がなかった。黒や紫はあるのに!私は子どもが寝静まる時間になって、家中の引き出しや収納ボックスをひっくり返していた。
amazonに発注すればひとポチで済むのに・・・と時計を見たら21時。(さすがにムリ)
パジャマ姿の娘が、「神様、見つかりますように」と祈る声が背後で聞こえ、(そういえば、祈るの忘れてた。そもそも祈って見つかるっけ?)と、不遜にも思ってしまっていた。明らかに自分の監督不行き届きで、神に祈る後ろめたさがあったせいだろうか。
私はあちこちの引き出しを見ながら、自分を強く責めていた。
仕事は誰にでもできる。だが、この子の母は私だけ。
週末に時間はあった。なのに、どうしてその時にプールの準備をしなかったのか。
愚かな自分に腹が立って仕方なかった。
「誰にでも失敗はあるよ」
「探す時間を決めて、見つからなかったら、もうあきらめたらいいよ。」
「大したことじゃないよ」
「プールを休むことが神さまの御心かも!私、ホントは明日休みたかったの。」
「そんな深刻にならないで。大したことじゃないよ」
これらはすべて、私が必死になっている傍らで、娘が私に投げかけてくれた言葉集だ。
私は上の空で相槌しつつ、どこだろう、とひたすら考え、探し続けていた。
すると、娘がタタタと洗面所へ駆けていったかと思うと、また私の所へ戻ってきて、ニールズヤードのアロマパルス(=リラックス効果のあるアロマ)を、私の耳後ろに、ぬりぬり、と塗りだすではないか!!
そ、そんなに気を遣わないでくれ…
なんだかすべてがイヤになってしまった!私はただ自分が情けなかった。
結局、この責任は夫が拭ってくれた。
23時帰宅した夫が、室内の泥棒に入られたような状態を見て、私の嘆きを聞き、24時間営業のドン・キホーテを見つけ出して2件駆け回ってくれ、「大人用水泳帽子赤」を購入してきてくれた。。(※1件目に帽子はあったが、赤がなかった)
眠い目をこすりながら、赤い帽子にチクチクと苦手な裁縫を施し(amazonにあるような名札付はなかった)、名札を縫いつけた。
「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」(伝道者の書7:14)
オリンピックで代々木公園の森林伐採問題
昨日、「「自然破壊」と批判殺到。代々木公園で東京五輪関連会場建設へ、樹木の剪定作業が始まる。 | ハフポスト (huffingtonpost.jp)」に似た記事を読んで、目を疑った。
国民の7-8割が反対しているともいわれる、東京オリンピックの視聴のために、東京では代々木公園と井之頭公園のパブリックビューイング(=屋外の集団視聴)が計画されていて、うち代々木公園に至っては、8m以下の木を一部切る予定、という。嘘でしょ?!
今朝、もしそれが本当なら、なぜ朝のニュースで一番に報道しない?!と私はNHKをチラ見しつつ、リモートワークを後回しに、朝一番、ググって調べてみた。
事の発端は、オンライン署名サイト「change.org」に掲載されている、キャンペーン · 代々木公園の自然を破壊する、東京五輪2020ライブサイト計画の中止を求めます #代々木公園の木々をオリンピックから守りましょう · Change.org という行動から来ていた。この著名運動の発起人は、なんと日本人でなく、Rochelle Koppさんという外国人と思しき方である。(※もし日本人でしたらすみません)
どれどれ…と、リンク先の記事を一つ一つ読んでいくと、分かったことがある。オッと危ない、危うく恥をかくところだった。伐採とは書かれていない。「剪定(せんてい)する」とあった。念のため、意味は調べたら、ネットにはこう書いてあった。
目的
- 作業管理が容易にでき、同時に果実の重量を支えることができる骨格枝を作る。
- 栄養生長 と 生殖生長 を調整し、 隔年結果 の防止と樹勢の維持を行う。
- 樹冠 全体に日光が当たるようにし、果実の高品質化と品質の均一化を行う。
- 病害虫に侵されている枝を除去し、発生を抑制する。
なーんだ、どれも木の健康を保ってるのね、私は安堵した。それなら必ずしも自然破壊、とまでは言えないのでは。もっともその通りやるかどうかという疑念もあるが、少なくとも、根元から木が根絶されることはないと知った。そうだよな、たった数日間のために、木を伐採するなんて、良識的な日本人が、そんな愚かしいことをするわけもない、と思った。いやいや、ネットメディアの情報に早合点は危険である。良かった、調べてみて、と思った。
だがしかし、その良識的な日本人が、コロナ感染で大騒ぎしている中、「パブリックビューイング」を去年の暮れに計画していた!こんなことがあってもいいのか?!いま、小池知事が口を酸っぱくして「不要不急の外出を禁止」と言っている一方で、パブリックビューイングを必要な外出として計画している、その論理が分からない。オリンピックが開催される7月は、緊急事態宣言解除後だから、不要不急以外の外出を許可、という算段なのだろうか。
オリンピック間近になって、しれっと、パブリックビューイングをアナウンスするつもりだったのかもしれないが、バレてしまった、という感が否めない。
こうしてみると、今までは私たちも声をあげる場所がなかったり、メディアといえばマス四媒体(テレビラジオ新聞など)しかなかったから、その情報に惚けていられた。
それが今はオンライン署名サイト「change.org」でオリンピック反対署名数は35万人、と数字が露わになってしまい、海外にも報道される始末である。ああ、この先のオリンピックはどうなるのか。私たち、日本人は世界でどんな国になっていくだろうか。
いつも自分を吟味して
「自分は至らないものだと、だれでも一方では思っていながら、他人に対する時は、多くの場合自分一人がよいものであるかのような気になって、他人の不行き届きを不快に思い、心ひそかに咎めたてをしているものです」
※羽仁もと子(国内女性初ジャーナリスト、自由学園創設者)の“愛と寛容”より
私たちはみな、自分自身が主役、というドラマを生きている。
朝目覚めた瞬間から、私のストーリーは始まっている。できればハッピーな記録をつづりたい。
だから、そのための工夫もするし、困難は克服しようと努力する。
7年前、朝の通勤で券売機を前にカバンから財布を漁っていると、おじさんが体当たりしてきたことがある。一瞬、何が起こったか分からず、面食らった。育児休暇を明けて3年ぶりの出勤だったから、動作が緩慢だったのか、私が邪魔だったか、単なるストレス発散か?
こんな災難を思い起こしていたら、渋谷の道玄坂で、女子高生がリュックを投げつけられ、怖がっていた姿が記憶によみがえってきた(渋谷センター街のキレ男)。
どちらもこの場合、加害者に非がある。と、私は思う。だが、本当にそうか?
分かりやすい例より、分かりにくい例は、日々の暮らしにある。近しい親や、夫、子供の存在。友達や、日々やりとりする職場の人達。そして表に出れば、出くわす近所の人々。口開くとき、楽しいこともあるが、不快な思いをすることもたくさんある。そのとき、私たちはだいたい、自分を正しいと思いがちで、相手を一刀両断して、非難し、疎ましく思ってしまいがちだ。
羽仁もとこさんは、
「世の暗黒な方面について考えてみても、大小すべての罪悪はことごとく他人を憎むこと、少なくとも愛していない冷淡ということから来ています」と上記の書籍で、続けて記述しておられた。
そのあとの文章も、味わいある内容なので、紹介したいと思う。
「ひきかえてこの世の光明の側について考えると、すべての幸福が皆われわれの愛と同情から来ているのです。私どもがもしも(中略)、今でも少しでも(人を)余計に愛することが出来たなら、それだけ多くわれら自らが幸福になり、また他を幸福にすることが出来ます。
さらに進んでもう少し余計に愛することが出来たなら、自他の幸福がまたそれだけ余計になります。
そうしてこの愛するとは、あえて物を与えるのでもなく、また世話をやくというのでもないのですから、貧しい人にでも力のない人にでも心次第で必ずできることです。ただわれわれの心を愛深くすることが、賢い人にも賢くない人にも、一様に一番むつかしいことなのでございます。」
私たちは毎日忙しい。
いちいち、自分が感じていることを、自分以外の目線や価値観でどうかと、世の中を見直す暇もない。
だからこそ、いつも自分を吟味して、と思う。
他人をいつも愛せたら素晴らしいと思う。
なかなかできないのだけど。
いま、けっこうおススメです。