月別アーカイブ: 2021年6月

NHK夜7時のニュースを観なくなった件

テレビが好き、と昨日書いたが、日中のテレビを観ることが、本当に減った。
夜7時だけは唯一、娘と私の食卓用BGMにNHKをつけていた。が、最近つけるのをやめた。

「どうせ、暗いニュースだけだし、観てもしょうがない、やめよう」
と、子どもが言う。

確かに惰性でつけていた。本当にそうだね、と私も気づかされた。特に、コロナの感染が始まってから、トップニュースは一日の感染状況と政治家たちの話で、飲食店のインタビューも、届く話は暗い情報ばかり。加えて、東京オリンピックでさえも、空しい報道ばかりが重なって、聞けば聞くほど、矛盾をはらんだ開催は、沈みゆく日本の船の象徴のようである。私たち親子が、一日の終わりに聞くニュースとしては、かなり萎える。


「どうして、もっと明るいニュースがないの?」


子どもが投げかける言葉は、時として、本質を突く。


「ほんとだね、どうしてだろうね」


私は娘にそう応えるが、「それだと、世間が収まらないからだよ」と、心の中で言う。


こういうのは、なんていうのかな、とググってみたら、こんな言葉が見つかった。

「他人の不幸は、蜜の味」

「シャーデンフロイデ」(独: Schadenfreude 他人の不幸を喜ぶ感情)

※人類にとってシャーデンフロイデは、社会を守るために必要な感情だった。
 自分たちよりも不当に得をしてる人を許さない。引きずり下ろす、という行動に喜びを報酬として与えて、促進することが共同体の維持には必要(ロザン×中野信子「シャーデンフロイデは、社会を守るために必要な感情なんです」|特別”高学歴”鼎談|菅広文/中野信子 – 幻冬舎plus (gentosha.jp)


こんな社会に、神さま、Let there be light(光よ。あれ)!

テレビが好き、100分de名著が好き

私はテレビが未だに好きだ。
わが家のテレビは、YouTubeも、Netflixも、ボタン一つで見られるデバイス仕様で、YouTubeが最近面白い、というのも重々理解しているが、まだまだ、2クリック、3クリックしないと辿り着かないネット番組は、私には手間であって、夜になると、簡単な1クリックテレビを選んでしまう。

もっとも、リアルタイムでテレビは殆ど見ない。
録画済みの中から好きな番組を選ぶのだ。
「青天を衝け」や先週終わった「ドラゴン桜」も、夫婦で日曜の夜、子供が寝た後に楽しんでみていた。

で、その中に、「100分de名著」という、NHKのEテレ番組が長いこと録画済で放置されており、今日ちょっとみたら、ものすごく面白かった。硬派な番組タイトルに嫌煙していたが、今の時代にも通用する古典を聞くと、人間って変わらないのね、と感動するし、昔の人がどんなことを考えて名著と評されまで社会に影響を及ぼしたのか、知ることに喜びを感じる。


 で、今放送中の書物は、フランスの哲学者、ボーヴォワールの「老い」。
7月いっぱい、このシリーズは続く。老いる私や母世代はもちろんのこと、定年退職前後の男性にも、知っておくと有益な文章がたくさん散りばめられている予感がしている。

 日本女性の4人に1人が70歳以上(2020年9月20日朝日新聞報道より)の超高齢化社会にあって、老いは大きなテーマだ。私がいくスポーツジムには、いかにもお年寄り、というシニアが少なくない。それに、会社の先輩(レオン課長のエイジクライシス)も、老いをかなり気にしていた(今はどうだか、知らないが)。

 外見が衰える、白髪が増える、筋肉が低下する、新しいことが身につかなくなる、動きが緩慢になる。不安、焦り、焦燥感、孤独、自己卑下。

 老いの考えを深めておきたい、とamazonで本を取り寄せようと思ったら、売り切れていた。でも、NHKテキストはたったの600円で入手可能!(amazonベストセラー1位6/29現在)

同番組の司会は、お笑いタレント伊集院光で、ゲストは東大名誉教授の上野千鶴子。
上野千鶴子はたしか、毒舌コメンテーターの古市と交流があったなあ、と番組を観ていたら、類は友を呼ぶのか、彼女の方こそ、古市に負けないような大胆発言をしており、「NHKでそれ放送していいんですかね?!」と、伊集院光をドギマギさせていた。(でも放送されたから、アッパレEテレ!)
 

「最近、歳とったわ~」とか、「老けたくねえなあ」といった、これから老いていく、あなた。
一緒に老いを考えてみませんか。


しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる」(箴言16・31)

 

 

 





当事者研究をした、ボーヴォワール。「老い」という本を執筆したのは、62歳だったそう。

「この年代は、何を考えているんだろう?」ようなので、これから老いていくのが、

「第二の性」


毎日わが子を褒めてますか?

 小学生の娘がいる。私は親たるもの、わが子への評価はすべて控えめであれ、と、人前でわが子を褒めることは殆どしなかった。親バカはみっともない、と思った日本人ならではのメンタリティーゆえである。
 だが3年前の夏、子供キャンプのバスで移動中に、10以上年下の幼稚園先生から、こう説かれた。

「親が、わが子を世界一可愛い!!って言わないで、いったい誰が言うの?!」
「もーっ、たっくさん、可愛い、可愛いって、子どもを褒めて抱きしめてください!」

 私はけっこうビックリして、「え?!そうなの?そんなことしていいの?」と返したが、「当たり前です!」と彼女が胸をはったので、私は方針転換した。

未だにそのことを覚えているので、私にとって、相当衝撃だったのだと思う。

 というのは、今日、娘をぼんやり眺めながら、ある感情が沸き上がったので、その会話を思い出したのだ。


 

 かわいいなあ。

 
 わが子をそう思っている自分にギョッとした。余裕がある自分にも驚いたし、親として人並みに慈しむ気持ちがあることにも感動した。こんな私にも、聖母みたいな感情がちゃんとあるじゃない?
 
 目の前の娘は、まだまだ、小さな顔と細い腕で、まるで人形のよう。そんな子が、毎日、自分の頭で考えて、自分の足で、学校に一人で行く、そう思うと感動した。

・・・。


 無言で見ていると、娘と目が合った。彼女は、なんだ?とでもいう顔をして、無言で私を見るので、ニッっと私は笑った。

(わが子よ、母はお前にみとれていたのだ・・・)

 子供と言えど、よく生きている、と褒めてやりたい。学校は必ずしも楽園ではないからだ。

 時々、自分と娘を比べる。

 私は会社を選んだが、娘は学校を選んでない。
 私は会社が嫌なら辞めればいい。が、娘は嫌でも行かなくてはならない。
 私はお喋りする同僚を何百人から選べるが、娘は僅かばかりのクラスメイトからしか選べない。

 娘の方が、逃げ場がない。そんな世界で、子どもは実によく頑張っている、と私は思う。
 本当に、よくやっている。
 
 

 いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
(箴言3:3)


糸井重里に見習う、今日の爪痕

もっと勉強しろ、と夫に言われ、
「ぼぼ日のサイトでも、糸井重里さんが毎日サイト更新しているぞ」と言われ、「どんな駄文でも良いから書け」というので、書くことにした。

もっとも、夫が「勉強しろ」と私に言ったのは、ブログを書くことではなく、私が会社で評価が全く上がらない、という嘆きに対して、それなら自社商品や財務をもっと学べ、という意味だった。

「なんで自分が給料もらえているのか。そこがわかってないとダメでしょ」と、至極まっとうなことを言っている。


だが、私は言った。

「会社の製品が、ぜんぜん好きじゃないんだよ!!」

正直、転職する前から、自分とは全く合わない、と感じていた会社への思いは、今も続いている。だが、私は勤続年数が増えるたび、会社の良さを知り、離れられないでいる。

 
 過去、仕事でメンタルを病みそう(ストレスで帯状疱疹?続き)になった時もある。苦しみもあったが、たくさんの喜びもあった。
 記者でもないのに、なぜ私は、シリコンバレー(西海岸サンフランシスコ)へ行き、アップル社のエンジニア(その32:Apple Engineering manager木田泰夫氏)から、発売直後のiPhoneを操作してもらい、その33:FXPAL(富士ゼロックス出資米法人)伊東健会長直々に、PC馴れ初め、を教示頂くことが出来たのか。

 自分の実力に合わない極上の体験をつづると、前任の役員が、私のブログを読み、読むたびに「ずいぶんいい会社だねえ…」と驚き、会社のCSR貢献にもなっていると思うよ、と応援してくれていた。
 
 第一、このブログ自体、取引先の社長(ガリレオと桜子の関係~これまでの歩み~)が、「桜子さん、ブログやったら?」と、自社システムを使わせてくれたおかげであったし、同社のCTOが頑張れ!と、全くお金にならないブログ管理を無償で手伝ってくれていたおかげだった。

 そして、それが縁で、新春プレゼント堀江貴文(ホリエモン)さん独占インタビューが実現した。彼と出会ったのは、悲しいかな、突然死した、同社の社長ご葬儀が縁だった。

 過去を振り返ると、たくさんの人に助けられたことを、山ほど、思い出す。堀江さんのインタビュー会場は、顧客が無償で貸してくれたし、読者の友達が有給を取得し、カメラマンをかって出てくれ、一緒にいい記事を作ろうと、時に私を叱ってくれた。
 
 最初にメルマガに感想を寄せてくれた企業の方や、会ったこともない読者もまた、私を励ましてくれた(エビちゃんがご縁で、NTTPC広報室に贈り物の続き)。決裁を起案してくれた課長や、下手な文章に赤入れしてくれた編集者や、隣に座っていた同僚の励ましと、関わってくれた人がいて、なんとかやってこれた。

けして、自分の実力じゃなかったよなあ…。(遠い目 (‘_’)。。。)


 夫でさえ、顧客が引き合わせてくれたことで、結婚に至ったのだ。


 会社に入らなかったら、今の私はなかった。

 こうして考えてみると、評価が悪い、と文句を垂れる自分はどうかしていた。
私はいったい、自分が何者だと勘違いしていたのか。

 今日もまた、聖書をもって、この文章を締めくくろう。

いつも喜んでいなさい。(聖書)


#子猫が欲しいfrom渋谷

Today is #TakeYourDogToWorkDay! 

今日はアメリカで、職場に犬を連れて行っていい日、だそうです。わが家には、連れていく犬も、開かれている職場もなかったですが。(1999年アメリカ動物愛護団体が始めた「職場のストレスが低減する」など広まった“職場に犬を連れていこう”運動)

犬、欲しいですね~。猫、欲しいですね~。
でも、「お願いだから、むやみやたらにペットを買わないで」と、トリマー(ペットの専門美容師)の友人に言われたので、わが家は自粛しています。。

 事の発端は現在、ペットが高値で売れることで、悪質な環境下で動物を繁殖させたり、安易に買う人達が増えていることで、飽きたら捨てる、といった、命の尊さを無視した社会になっていることに、彼女が嘆いていたから。

その話を聞いて、

「それなら、わが家は買わないわ。でも犬や猫が欲しいから、もし保護された犬や猫がいて、貰い手に困ったら、一声かけてね」とお願いしました。でも、あれから、うんとも、すんとも連絡が入ってこず……。

 ちなみに、欲しがっているのは私でなく、娘です。

彼女が、「超」が何個もつくほどの動物好きで、一日一回は近所のペットショップへ足を運んでは、お気に入りの犬や猫に触れ、「〇〇に、癒された~」と、帰宅するたび、騒いでいるので、飼ってあげたくなったのです。
というのも、

「私、もし犬か猫が買えたら、なんでも我慢できるわ」

と言うので、もしかしたら、苦手なアレやコレも、犬や猫がいたら、乗り越えらえるのかな?と考えてしまいました。

神さま、プリーズ!


求めなさい。そうすれば与えられます。
捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
(新約聖書マタイ7:7)

ああ、小学校よ、プールはなぜ赤い帽子必須か?

 大人の時間軸と、子どもの時間軸は違う。私の仕事に季節はないが、子どもには四季折々の行事がある。
 日中、私はスタジオ収録(なんと!テレビ番組「情熱大陸」のナレーター窪田等さんとご一緒)で忙しかったが、夜に夕食を食べていると、子供から「明日はプール開き」と言われ、慌てふためく悲惨な夜を過ごした。
 
 何が悲惨だったかというと、「ある」と思っていた赤い水泳帽子がなかった。黒や紫はあるのに!私は子どもが寝静まる時間になって、家中の引き出しや収納ボックスをひっくり返していた。

amazonに発注すればひとポチで済むのに・・・と時計を見たら21時。(さすがにムリ)


 パジャマ姿の娘が、「神様、見つかりますように」と祈る声が背後で聞こえ、(そういえば、祈るの忘れてた。そもそも祈って見つかるっけ?)と、不遜にも思ってしまっていた。明らかに自分の監督不行き届きで、神に祈る後ろめたさがあったせいだろうか。

私はあちこちの引き出しを見ながら、自分を強く責めていた。

仕事は誰にでもできる。だが、この子の母は私だけ。
週末に時間はあった。なのに、どうしてその時にプールの準備をしなかったのか。
愚かな自分に腹が立って仕方なかった。

「誰にでも失敗はあるよ」
「探す時間を決めて、見つからなかったら、もうあきらめたらいいよ。」
「大したことじゃないよ」
「プールを休むことが神さまの御心かも!私、ホントは明日休みたかったの。」
「そんな深刻にならないで。大したことじゃないよ」

これらはすべて、私が必死になっている傍らで、娘が私に投げかけてくれた言葉集だ。
私は上の空で相槌しつつ、どこだろう、とひたすら考え、探し続けていた。
すると、娘がタタタと洗面所へ駆けていったかと思うと、また私の所へ戻ってきて、ニールズヤードのアロマパルス(=リラックス効果のあるアロマ)を、私の耳後ろに、ぬりぬり、と塗りだすではないか!!

そ、そんなに気を遣わないでくれ…


なんだかすべてがイヤになってしまった!私はただ自分が情けなかった。

結局、この責任は夫が拭ってくれた。
23時帰宅した夫が、室内の泥棒に入られたような状態を見て、私の嘆きを聞き、24時間営業のドン・キホーテを見つけ出して2件駆け回ってくれ、「大人用水泳帽子赤」を購入してきてくれた。。(※1件目に帽子はあったが、赤がなかった)

眠い目をこすりながら、赤い帽子にチクチクと苦手な裁縫を施し(amazonにあるような名札付はなかった)、名札を縫いつけた。

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」(伝道者の書7:14)

正しく生きる

 人生はいつも、選択の連続だ。朝ごはんは、パンかご飯か。今朝は外にいくか、いや家にずっといようか、とか。


 最近、私が悩む選択肢に、“悩んでいそうな人に手を差し伸べるか、否か”、というのがある。
風の便りに、困っていると聞いて、「どうしよう、連絡して、何か提案したら役に立つかな?いや、ほっておけばいいかな」というので、かなり悩んで、ひどい時には友達に相談までしてしまう。

 昔は気にならなかった、遠い存在の他人。
それが、数年前から「気にすべき人」のカテゴリーに入ってしまった所以である。


 なぜ自分がこうなってしまったかというと、「他人を愛することは、クリスチャンの使命だよ」と説く人の話を聞いたからである。恵泉塾の水谷牧師は、隣人愛の大切さを訴えている人だった。

「私たちクリスチャンは、祈りと神さまの愛をもって、隣人を愛し、愛し合う世界をこの世につくること」

 若かりし頃、私は信仰を持った。信じることが、その先の人生をどう変えるか考えもせず、神さまはいる、と存在を受け入れた。
 だから、聖書の学び会で、「聖書に〇〇と書いてある」というのを聞いて、ショックを受けたのは、一度や二度の比ではない。聞けば聞くほど、浮世離れした聖書の中身。そういうことなら、信じなければ良かった、と思ったこともまた、一度や二度の比ではない。だが、信じてしまった自分を、そうでないことに変えることは不可能だった。
 今になって、20代の私は聖書の中身をよく分かっていなかったかも、と考えることがある。が、当時はそれが精いっぱいだった。自分なりに到達した教えを胸に、一生懸命、神さまに喜ばれる生き方を志していたと思う。
 
 「絶えず祈りなさい」という言葉が聖書にある。クリスチャンというのは、一般の人から知ったら驚くほど、よく祈る。話はそれるが、主人は私と結婚してから、「祈ってます」とメールに一切、書けなくなった、と言っていた。祈ることが、どれほど深く、心を捧げる行為か、というのを間近で見ているからだと思う。
 話を戻す。
 で、私は20代の信じ始めた当初、ともかく他人の救いをよく祈るようにしていた。だが、「祈り以外の時間は何すればいいの」、と非常に悩んでもいた。広告代理店でも、そのあと転職したネットベンチャーでも、聖書の「せ」の字も知らない人達に神様のことを話す機会があれば、神さまの話を伝えつつ、その悩みは常にあった。
 それが、40になってやっと、他人を思いやることだよ、困っている人に手を差し伸べて生きることだよ、と言われ、生きる意味が、腹に落ちていた。

 そして今、他人を愛する、という言葉の重みを痛感している。

たとえ私が真心から手をさしのべても、他人にすれば、おせっかい、になることもある。
経済的にも、時間的にも、犠牲がある。デメリットが分かっているのに、神さまの役に立ちたい思いもある。面倒くさい、という正直な思いと、高き理念との間で逡巡していた。


そんなある日、クリスチャンの友達にこう言われた。

「桜子さん、あなた、正しく生きよう、と思っていない?」

「神さまはそんなことより、まずあなたが、神さまと“コネクト”することを求めているよ」
と彼女は言った。

それを聞いて、私は軽い衝撃を受けた。心構えはいいけれど、本質を見失うな。正しく生きることを目指すより、まず神との接続を目指せ、と聞こえた。
 してみると、神さまというお方は、私が正しく生きなくても、私を愛する思いは変わらないお方であった。私はそれを聞き、肩の荷がすこし下りたのを感じた。

「わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ」(箴言24:26)


神さまは全知全能で、何でも持っているお方だが、あなたの心だけは持っていない、とある宣教師は言っていた。
私たちの方に、心を神に向けるタスクがある。コネクトすることだけが、私たち人間に求められている。
きっと正しく生きることよりも。

by桜子

2年目の在宅勤務

日経新聞5月19日付

「恋も 2度目なら~ すこしはじょおずに、愛のメッセージ、伝えた~い♪」

どうしても90年代のアイドル、中森明菜のセカンドラブの曲が、この記事読んでから、私の頭から離れない。


「リモート 2度目なら~ すこしはじょおずに、会社の業務を、さばきた~い♪」


なぜか、家だと、ついつい残業しがちなのよね。