月別アーカイブ: 2021年7月

生き恥をさらすブログ

「文は人なりだ。自分の書いた文章には必ず自分が出ている。(精神科医きたやまおさむ「自己分析のために書く」/日経新聞夕刊より)

 土曜の朝、私は母に子育ての悩みで連絡をした。私は珍しく弱っており、涙ながらだった。夫は仕事で出かけており、話す暇がなかった。
 母は、私の様子を察し、なんとか私に寄り添おうと、忍耐強く私の話を聞いていたが、結局、母が放った言葉で印象に残ったのは、これだけだった。

「あなたのブログ読んでいると、“自分”、“自分”、がすごく多い。それと“仕事をしているっていう話”、あと、“親とは”。」

 母が言わんとしたことは、「もっと自然に出来たらいいのに。(神さまを信じて)生まれ変わったんでしょ。肩の荷を下ろして!」というエールだったが、私は批難されている、と感じた。特に、ブログで、自分が多いという指摘は、ブログの性質上、仕方ないじゃないか、と思った。冒頭に書いた通り、文は人なり、だ。ブログで私は毎回まさに、生き恥さらして書いている。


 午後、うちに遊びに来たママ友にこの話をしたら、
「すごいね、しっかり(ブログを)読んでくれているんだね!」

と、違う所に驚いていた。いや、そこに反応するんじゃなくて、私と一緒に憤慨してほしかった・・・。


 確かにブログなんて一利なしだよな、とブログの全削除をすべきか、以前にも悩んだことを蒸し返しそうになったが、日曜夜、偶然入手した小説家・三浦綾子のメモリアル冊子を見て、それは少し先延ばしにすることにした。


 私ね、自分が思っているよりも、神さまははるかに素晴らしく、その人をつくってくださっていると思うの。そのことにいつ気がつくかなのよ。 
三浦綾子「銀色のあしあと」(いのちのことば社より)


 生き恥をさらしているが、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と、聖書に書いてある。
私に文才なく、学もないが、神さまの目から見たら、「でもあなたは尊い」から、書いていいよ、と言われている気がした。
 というわけで、今日も、私は“私”をつづる。
こんな駄文でも、たまには読んでいいな、という方がいたらぜひ、メルアド登録のお願いに、ご協力ください。


by桜子

新潟の姉妹からの写真

極めて異例!買収受領の100人を不起訴

 私を含め、日本人の司法に対する関心は低い。多くの人にとって、“他人事”だからだ。でも、ちょっとしたことで、誰でも自分事になる可能性は、いつでもあると思うのだ。
 たとえば、交通事故や、痴漢(冤罪)は、運の良し悪しが、その後の人生を大いに狂わす。私は縁あって、日本の裁判の在り方に、関心を持つようになった。Bizcompass(NTTコムのサイト)連載中、元エリート裁判官が日本の裁判所の実態を暴露!で、生の声を聞いた。彼の著書「絶望の裁判所」を読み、衝撃を受けた。伺った話は、実際に瀬木さんのお宅で対峙し、話し方やその佇まいから総合して、伺った話に偽りなし、と私は信じた。(まさに百聞は一見に如かず)

 以来、ニュースで報道される事件の“容疑者”に対して、すぐさま犯人と思わなくなった。そうかもしれないが、“そうではないかもしれない”という、ニュートラルな視点をもつようになった。できればぜひ、皆さんにもそういうふうにニュースを聞いてもらいたい、と願っている。

 私は、人が「アイツは悪い」と裁く気持ちはよく分かる。そして悪人には、それ相当の末路を期待している。聖書を信じている、と普段豪語する私だが、嫌な奴は嫌、と言って、聖書に書かれている「あなたの隣人を愛せよ」をどこか遠くに放り投げたくなることはごまんとある。
 だが、立場変われば、事実が異なれば、裁くことは簡単にはできない。
 例えば、犯人が家族だったら?あるいは、えん罪、つまり犯人ではなかったら?あるいは、背景を知ったなら?
まさしく、真実は神のみぞ知る、だ。実際には分からないことが多くて、人が人を裁くのは実に難しいのだろうと推察する。(だから、私には裁判官志望の人の気もちが全くわからない)

「絶望の裁判所」Amazonにある紹介文を記載する。
===========================================
裁判官というと、少し冷たいけれども公正、中立、優秀といった印象があるかもしれない。しかし、残念ながら、そのような裁判官は、今日では絶滅危惧種。近年、最高裁幹部による、思想統制が徹底し、良識派まで排除されつつある。 三三年間裁判官を務めた著名が著者が、知られざる、裁判所腐敗の実態を告発する。情実人事に権力闘争、思想統制、セクハラ・・・、もはや裁判所に正義を求めても、得られるものは「絶望」だけだ。
===========================================

日本の裁判所は、正しそうなイメージだが、実は北朝鮮並み、と聞いたらあなたはどう思うか?
検察(取り調べ)側に殆どの権限が集約され、弁護側が勝利を勝ち取るのは稀、そんな実態を知ったら?

私は著書を読んで、日本の司法制度は変える必要があると思った。検察だけに目を付けられたら、一巻の終わりだ。警察が本気を出したら、いかようにでも、すべての人が刑務所に入れられるのだ、というのが、私の読後感だ。
(だから、こういう文章を書いて大丈夫かな、とちょっと怖い)

 昨日の報道で、前衆院議員の河井克行さんからの現金を受け取ったとされる地元議員らは、東京地検特捜部により、被買収罪で100人全員を不起訴処分とされた。多くの専門家が疑問を呈しているので、私はことさら、実態に関心がある。世間に暴露したら都合の悪い真実があるのかもしれない。


結局、世の中に正義は難しく、
私たちはいつも天に対して、目を向けるしか生きる道がないように思う。

義人はいない、一人もいない。(ローマ人への手紙3:10)

日曜夜、東大院卒の塾長から電話

  日曜の夜、私の携帯に知らない人からの電話が鳴った。ふだんなら出ない。
が、夜21時に「03」から始まる番号には、緊急事態を感じた。何事かとこわごわ出たら、某進学塾の塾長だった。「前にお問合せを頂きましたよね?」と相手は言うが、1年以上も前だ。

 これは一体どういう了見か、と応答していたら話題は小学校の話に及んでいった。
 
 ちょうど夫婦でこの日は「小学校へ行く子供のメリット」について、真面目に話し合っていた所だった。このあり得ないタイミングに神さまの働きを覚え、私は神さまがこの人を遣わした、と感動して、思わず携帯をスピーカーオンにし、彼の見解を夫婦で聞くことにした。
 というのも、実の所、私たちは、学校に行くメリットを挙げられないでいたからだ。
 
 東大院卒の塾長は、受験戦争に挑む親からすれば、憧れの東大卒だ。「私は時給30万」と電話口で豪語する彼の「小学校へ行くメリット」に、耳を傾けた。黙っていたら、ギャフンとする回答がたくさん帰ってきた。


「学校はね、行く意味なんて、ないですよ。第一ね、先生方なんて、私らより、偏差値低いんです。そんな人たちに勉強教えてもらったって、面白いわけないでしょ!」

 ズコッ。なるほど…。教育に大事なことは偏差値の高さだけではないが、彼は、自論を次々に展開した。

「学校は“集団行動を身に着ける場”、しいて言うと、それです。それ以外はね、ないです。」
「学校の授業がつまらない、それは当然です。」
「学校では先生のために頑張るふりをする。寝たまま授業を聞いているふりをする。勉強は塾で学ぶ。学校は体力を温存するところ。」
「学校は、感情をシャットダウンするスキルを学ぶ場なんです」


要するに、小学校とは、世の不条理を学ぶ場、ということであった。

うーむ、そうかあ…。


結局彼の話は夜22時まで及んだ。おまけに、その電話は私がやんわり促して、やっと切ってくれた。先方は自身の熱弁にハッとして、こんな時間まですみません、と謝ってくださったが、「彼は何か病気なのかな」と、私は切った後、夫に言った。

夫は私の電話応答を聞き、目を白黒しながら、「しかし、どうして日曜の夜に人の奥さんに電話をかけてくるんだろうね?」と言い、「結局あれだよね、東大院率でも幸せとは限らない。そういうことが分かったのかもね…」と言った。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
それは、こう書いてあるからです。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。
この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。
それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
(聖書)

皆様、良い週末を!