日別アーカイブ: 2021年6月10日

正しく生きる

 人生はいつも、選択の連続だ。朝ごはんは、パンかご飯か。今朝は外にいくか、いや家にずっといようか、とか。


 最近、私が悩む選択肢に、“悩んでいそうな人に手を差し伸べるか、否か”、というのがある。
風の便りに、困っていると聞いて、「どうしよう、連絡して、何か提案したら役に立つかな?いや、ほっておけばいいかな」というので、かなり悩んで、ひどい時には友達に相談までしてしまう。

 昔は気にならなかった、遠い存在の他人。
それが、数年前から「気にすべき人」のカテゴリーに入ってしまった所以である。


 なぜ自分がこうなってしまったかというと、「他人を愛することは、クリスチャンの使命だよ」と説く人の話を聞いたからである。恵泉塾の水谷牧師は、隣人愛の大切さを訴えている人だった。

「私たちクリスチャンは、祈りと神さまの愛をもって、隣人を愛し、愛し合う世界をこの世につくること」

 若かりし頃、私は信仰を持った。信じることが、その先の人生をどう変えるか考えもせず、神さまはいる、と存在を受け入れた。
 だから、聖書の学び会で、「聖書に〇〇と書いてある」というのを聞いて、ショックを受けたのは、一度や二度の比ではない。聞けば聞くほど、浮世離れした聖書の中身。そういうことなら、信じなければ良かった、と思ったこともまた、一度や二度の比ではない。だが、信じてしまった自分を、そうでないことに変えることは不可能だった。
 今になって、20代の私は聖書の中身をよく分かっていなかったかも、と考えることがある。が、当時はそれが精いっぱいだった。自分なりに到達した教えを胸に、一生懸命、神さまに喜ばれる生き方を志していたと思う。
 
 「絶えず祈りなさい」という言葉が聖書にある。クリスチャンというのは、一般の人から知ったら驚くほど、よく祈る。話はそれるが、主人は私と結婚してから、「祈ってます」とメールに一切、書けなくなった、と言っていた。祈ることが、どれほど深く、心を捧げる行為か、というのを間近で見ているからだと思う。
 話を戻す。
 で、私は20代の信じ始めた当初、ともかく他人の救いをよく祈るようにしていた。だが、「祈り以外の時間は何すればいいの」、と非常に悩んでもいた。広告代理店でも、そのあと転職したネットベンチャーでも、聖書の「せ」の字も知らない人達に神様のことを話す機会があれば、神さまの話を伝えつつ、その悩みは常にあった。
 それが、40になってやっと、他人を思いやることだよ、困っている人に手を差し伸べて生きることだよ、と言われ、生きる意味が、腹に落ちていた。

 そして今、他人を愛する、という言葉の重みを痛感している。

たとえ私が真心から手をさしのべても、他人にすれば、おせっかい、になることもある。
経済的にも、時間的にも、犠牲がある。デメリットが分かっているのに、神さまの役に立ちたい思いもある。面倒くさい、という正直な思いと、高き理念との間で逡巡していた。


そんなある日、クリスチャンの友達にこう言われた。

「桜子さん、あなた、正しく生きよう、と思っていない?」

「神さまはそんなことより、まずあなたが、神さまと“コネクト”することを求めているよ」
と彼女は言った。

それを聞いて、私は軽い衝撃を受けた。心構えはいいけれど、本質を見失うな。正しく生きることを目指すより、まず神との接続を目指せ、と聞こえた。
 してみると、神さまというお方は、私が正しく生きなくても、私を愛する思いは変わらないお方であった。私はそれを聞き、肩の荷がすこし下りたのを感じた。

「わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ」(箴言24:26)


神さまは全知全能で、何でも持っているお方だが、あなたの心だけは持っていない、とある宣教師は言っていた。
私たちの方に、心を神に向けるタスクがある。コネクトすることだけが、私たち人間に求められている。
きっと正しく生きることよりも。

by桜子