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祈ってください(2)

先日、祈ってくださいと書いた。
これについて、信仰は、「自分と神の問題」であるから、他者の祈りを求める、というのはどうなのか?!
という見方がある。


信仰は、自分と神の問題だから、他者に助けを求めない。
神のみに助けを求める。
そういう信仰者もいると思う。
なぜなら、「信じる者は山を動かす力もある」と聖書に書かれている。



先日、「祈ってください」と書いたが、私は軽はずみに書いたわけではなかった。
私もまた、大いに迷った。
書くべきか、否か。
正直、誰かにお願いするのは、大変な勇気がいる。
拒否されたら、悲しい。
理解してもらえなかったら、落胆する。



でも書いたのは、私に二つのことがあった。

ひとつは、私は今大丈夫だけど、家族全員は大丈夫か、という思い。
実際、心は大丈夫と思っていても、夜になると目が覚めたりして、身体がストレスに反応し始め睡眠が危なくなってきた。(今は回復)

そして、もうひとつは、(実はこっちの方が意味合いが大きいのだけど)
私たちキリスト者がつながることは非常に価値が高いのではないか?と考えたせいだ。
皆で神がこれから何をするか一緒に味わう、その意味を考えた。


祈ってください、は扉を開く。
「何があったの?」
「そうか、そんなことがあったんだね」


1人で味わう奇跡もいい。が、奇跡はみんなで味わいたい。
そう、ニュージーランドの家のように。
7つも家を転々として、最後はあれだけ、完ぺきなハッピーエンドだった。

神が私たちの人生に設計されることは、必ずしも私たちの願う通りになるということはない。
が、「神はすべてを働かせて益としてくださる(聖書)」


祈ってくださる方に、知ってもらいたい。
神様はこんなことしてくれた、あんなことしてくれた。

聞いて、凄いんだよ。
リアルタイムで味わうと、その真実を一緒に体感できる。


私はちょうど、その奇跡を最近、味わっていた。
次回その話を書こうと思う。


どうぞ、良い週末を。


by桜子

photography of monument valley arizona

神様だけにできること


今日、伝えたいことが1つある。
それは沢山の種類の神の中、主イエス・キリスト「だけ」に出来ることは何か、という話。

前置きが長いと、ここで読まなくなる人がいる。
だから一気に結論を書く。それは、

「死の解決」

である。

人の目にはまっすぐに見える道がある。
その道の終わりは死の道である。


笑うときにも心は痛み、
終わりには喜びが悲しみとなる。(箴言14章12,13節)



聖書を信じるメリットは、死の問題からの解放だ。
聖書によれば、イエスキリストを信じると、死んでも生きる、とある。


私はよみがえりです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。(聖書)


死んで生きるってどういうこと?いやいや、人間、死んだら無でしょ、と思う人も多いだろう。

聖書はさらに、続く。


次のように書いてあります。
キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、
罪の許しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

(ルカ24:46,47)


罪は、的外れ、という意味だ。
神様を知らない人生は、的が外れているんだよ、と聖書は伝えていて、
ひとりひとり、神様と共に歩んで、的外れを悔い改めて、神と共に歩んで、と言っている。

死んで蘇るなんて、あり得ないと思うけれど、もし神なら、あり得るよね?!
だって、


神にとって不可能なことは一つもありません。(ルカ1:37)


そう書いてあるから。



目に見えない神様なんて、信じられない!
私は10代の頃、そう思って、神様がいるなら、目の前に出て来て!と何度も祈った。

その答えもまた、聖書に書いてある。


イエスは彼に言われた。
『あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』
(ヨハネ20:29)


見ずに信じられない者ですよ、私は…!などと言ってた私が、信じるようになった。
これもまた、神がなした一つの奇跡。
私は今、当たり前のように、イエスキリストとブログに書いているけど、
それをここに書いて、ひいてしまう読者の気持ちもよく分かる一人である。

かつて、聖書を否んで、たぶん多くの人が否んだり、疑ったりして、信じるようになった人たちなのではないかと思う。(※子供以外)



20年続いた、私のブログと、次の聖書の御言葉、について、ちょっと考えた。

私はいつも私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。(詩編16:8)



振り返ると、聖書の御言葉(みことば)を、右に載せて、20年ゆらぎっぱなし。

お手本にならない話をたくさん、赤裸々に載せてきて、正直消したくもなるけど、
色々考えた末、削除しないでいる。


立派な人じゃなくても、
ダメダメな人でも、
神様は共にいてくださる。
こんな私が今でも神様を信じていることこそ、証といえるのかもしれない。

主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(聖書)


これからも神様を賛美し続けられるか自信はまったくないけれど、
いつ自分もイエスを裏切るユダになるか分からないけれど、
今日の最後にこの御言葉を紹介して、終わる。



イエス・キリストは、
きのうもきょうも、いつまでも、同じです。
(ヘブル13:8)



わたしの目にはあなたは高価で貴い。
わたしはあなたを愛している。

(聖書)



今日、あなたが神様を信じる日となりますように!


by桜子

text fired on cardboard

会社クビになりました

あなたはどっち?

会社クビになりました。

A.「ああ、ありがたいな、これで、新しい会社へ行ける!また新しい人達と知り合える!」
B.「どうしよう~、私の人生終わった、ダメだ!」




今朝は久しぶりに夫の「しっかり自分の人生を生きる講座」を朝から受講した。


起きてすぐ、私が色んなことを心配したからである。
「今日から台風級の雨。外にある自転車は大丈夫かな?」
「Aさん、体調は大丈夫かな?」

そんなことよりまず、自分の管理を最優先しろ、と喝を入れられた。


「自転車は、野ざらしになっていいんだよ。そんな些細なこと、心配するなよ」
「Aさんもそう。君は『会社つらい~、疲れた~』って言うよね?それではAさんに迷惑」
「君が、生き生きと人生を楽しむ。そうして初めてAさんに良くできる」





物事ってどちらの方向から見るか。人生って、どこから見るかを選択することなんだよ。

woman in white blazer holding tablet computer
「もしもし?あのね、わたし、会社クビになっちゃった。ラッキー!新しい人生の始まり!」
これが言えたら確かに最強w

                                                       信仰も一緒でさ、神様がやってくれたから、って(何もせず)
怠けている人、いっぱいいるじゃない?


ポジティブに努力できるように自分の気持ちを持っていく
仕事が首になった、人生が終わったと思うよりも、
「これでまた新しい仕事ができる」と捉えて、
そちらの方向に「踏み出していく」。そういうことが大事なんだよ。
向かい風は、立ち位置を変えたら、追い風だから。


「人間の脳っていうのはね、騙すか、騙されるか。どっちかなんだよ。
脳は、自分が抱いたイメージを全力で実現させようと働くから。
だから、自分の人生をしっかり生きなさい。」


さらには、子育てにも喝が入った。


親(桜子)が、ドーパミン出して生きてないから、しょうがないんだけど、
僕たちは、子供が楽しんでいることをどんどんやらせて、
人生は楽しいんだ、と訓練をさせるんだよ。


子供が楽しめないようなことを、人と同じようなことを子供に無理やりさせようとする。
だから、お互いに生活が辛くなっちゃうんだよ。


私はこれを聞いて2つのエピソードを思い出した。
ひとつは、ユダヤ人の親が、子供に読書の習慣をつけさせるために、
本を読む間は飴玉をなめさせて膝に乗せるという話。
(オキシトシンが出て、美味しい=幸せ、うれしい)
これも、脳を騙すことである。



次にさかなクンの母の話。
さかなクン母は、彼の小学校の授業参観で、先生にさかなクンをもっと勉強させろと言われ、
こう返したらしい。

あの子は魚と絵が好きだからそれでいいんです
その末路が、東京海洋大学名誉博士、魚類学者、タレント、イラストレーター…。



将来を不安がらない。
ブレない。
前向き。





大汗かきます💦💦



納得~。


今朝は、拍手したくなるほど、いいこと言うわ~と聞き惚れた。

ひろゆきも、中田の敦ちゃんも、ホリエモンもいいんだけど、
夫の話も、必要な人に届くといいな~と思った。





というわけで、今朝はこの感動を、共有しないともったいない、と書きました。
読者の中に、私のような人が居たらぜひ、一緒に脳を騙して前に進みましょう。

で、もしよろしければブログのお知らせが届くメールアドレス登録をお願いします。
時々、メッセもお願いします。(私の励みになるので)

今日読んでくださった方、こんなSNS時代に、ありがとうございます!
m(__)m

by桜子


diverse women stacking hands on wooden table

Trust

 「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」(旧約聖書第一列王記19:7)

 最近夜にすぐ寝れないことが増えていた。が、昨夜は炭水化物を食べたら一気に眠たくなり、いつもより早くベッドインした。すると珍しく玄関のドアがガチャリと開く音がして、夫も早く帰ってきた。「今日は疲れた、俺も早く寝る」と言い、昨夜のわが家は比較的、早く電気が消えたと思う。

 しかし明け方、私はまた早朝に目覚めた。すぐ頭に浮かんだのは上司たちと私の下期の業務で、頭の中で会議が始まってしまい、起床した。達成できない目標についてどうすればいいのか、と今朝も仕事が嫌である。しかし、朝イチに考えるのは戦略ではない。私のモーニングルーティーンは、なるべく真っ先に聖書を開くことだ。


 今日読んだ旧約聖書第一列王記後半部に、神を信じる預言者エリアの箇所などがあり、すこし慰められた。

 ・壊れた世界での生活は、さまざまな痛みをもたらす
 ・苦難の時は、しばしば私たちの限界を明らかにする
 ・あなたの苦しみは、主を信頼するための個人的な招待状

 中堅社員のくせに未だに職場に悩まされるってどういうこと?と考えて、自分を責めていたけども、

 ・神は、私たちがどれだけ神を必要としているかを認識させる機会を、定期的に私たちに与える
 ・真実を明らかにするために、私たちの人間性をさらけ出る。

 という学びで、新たに励まされた。

そういえば、最近、「信仰はどこへ行ったの?」と英語の先生からも日曜の礼拝でも問われていたけど、
心底信じきって、何にも心配しない状態を、自分の内側に作り出す、というのは実にコツがいる

でも今日は、もうこれ以上会社についての考えで暗くなるのはやめにしたい。
神を信用し、私の行く末をゆだね、本当に時間を割くべき大切なことに自分の時間を使ってみたい。

詩篇103:13-14
「父がその子をあわれむように、主はご自分を恐れる者をあわれまれる。主は私たち
の成り立ちを知り 私たちが土のちりにすぎないことを心に留めてくださる。」


 今日もすべての働く人に元気が宿りますように。

by桜子

証。する、しない?

先週、教会のママ友を経由して、私に、「証し」の打診がきた。
来月の火曜日に、教会で行われる「聖書学び会」の後に、私が証をしてはどうか、という。平日だから、会社を休まねばならぬ。一瞬、がっかりしたが、やらなきゃいけない気がした。

証とは何か?

改めて考えた。インターネットでググったら健康保険や医療証明のWEBページがでるばかりで、教会でやる証、の説明ページがなかなか出ない。しかたないので、言葉自体の定義をみたら、ー確かなよりどころを明らかにすること。証拠ーと、あった。

とどのつまり、神様の証明を私の口からするということになるのだが、
今まで私が聞いた数々の証は、誰かの経歴を延々と聞くことが多かった。どういう両親に育てられて、どのように感じて、神様を信じるようになったか、という話である。

15分間が持ち時間だから、私の履歴書(by日経新聞)を話すわけにはいかない。
ポイントを絞って話さねば、と思う。
しかし、これって、誰に対して、話すの???

改めて、考えさせられた。
そもそも、聖書の学び会で、証がセットになっているのはなぜだろうか?
たまたま隣にいた教会の人に聞いたら、「昔は初めて来る人のためにやっていたと思うんだけど・・・」と言った。
今は? 今は初めて来る人ってあまり、いないよね?

この場に集う人は、大半が信者だ。神様の存在を信じている群れである。だから、私などが話して役に立つわけもないのだが、なぜ、今、自分がやるんだろう?

 思えば、私は、現在集う教会には、小学4年生の頃から集っている、生粋の教会っ子だ。なのに、今まで一度も証をする任を受けていない。昔、バンコクで数名を前にいきなり指名されて、何か喋った記憶はかすかにあるが、公の場で正式に話すのは今度が初めてになる。
 何を話そうかなあと思いながら、日曜に会ったクリスチャンママ友らに、証のことを尋ねたら、彼女たちは口を揃えて、「今まで2-3回(証の当番が)廻ってきた」と言った。びっくりした・・・!何回も任命される人がいる一方で、私、ゼロって、どういうこと?

 やっぱり、自分は教会の人っぽくないんだよなあ、と思って、教会からお前はダメなやつ、と審判を下されたような気がした。今回証しをすることになったのは、やっと人前で証し(=話)する資格を取れた、ってことなんだろうか。

ちぇーっ。

 やさぐれそうになった瞬間、いや、待てよ、と思った。
証するという行為は人前に出る行為だから、逆に言うと、今日まで神様が人(大衆)から、守ってくれたのかもしれない。だって、私、神様に愛されているし、もしかしたら、神様の秘蔵っ子?と、勝手な妄想を膨らませた。

しかし、わからぬ。いったい何を話すと、証になるだろうか。
そもそも、神様を信じている私ではあるが、証をしていいのかどうかも、よくわからない。

主人には「変なこと言わないようにしろ」と釘をさされた。
なかなか的を得ている。さすが、私の伴侶。

私はこの人と会ったことで、人生が変わった。
彼との出会いで、自分の信仰生活がハッピーエンドになった。(注意:仮に今日が生涯最後の日だった場合)

(つづく)