
もう七夕ですわ。
子供がいると、ついつい願い事を書いちゃうね。
もう七夕ですわ。
子供がいると、ついつい願い事を書いちゃうね。
5月末に緊急事態宣言が解除され、自由に外出できるようになった。
3月から続いていた「STAY HOME」は、GWも過ぎるころになると、「15時になったら外で遊ぶ」というのが、この界隈の子供たちの日課に、自然となっていった。
私たち親は、日中、渋谷上空でヘリコプターがパタパタとはためき(スクランブル交差点をテレビ局が映すため)、日々監視されているようなプレッシャーを感じながら、子供の健康を守らねばならなかった。
鬱々とした雰囲気の中でも、子供には健全に育ってほしい。
数時間でも外へ出て、身体を動かすことは大切だ、と、子供だけは外へ出す家庭も多かった。
南平台に公園はない。けれど、住友ビルの広い敷地がある。本当にありがたいね、と、広場に感謝する日々だった。
だが、立場が違えば、思いも変わる。
目ざわりだ、と感じた住民もいた。大人が我慢しているのに、なぜ子供に我慢させないのか、と感じたようだ。注意する人、「外で子供たちが遊んでいる」とビルへクレームを熱心に寄せる人もいて、その様は私から見ると、すこし異常に思えた。
ビル側は、子供を慈しんでいてくれていた。が、やがて近隣の苦情に耐え兼ね、「ここで遊んではいけません」と、やむなく見張りをし始めた。
私たち親は、不寛容な日本に、やっぱり子育てがしづらい国だ、という思いを新たに、こんな緊急時ぐらい勘弁してほしいと嘆いた。とうとう、運動でも起こすしかない、と立ち上がろうとした父兄が出てきた頃、自粛は解除された。
あの戦争も、今は昔。
昨日、渋谷区教育委員会から、登校再開のお知らせが届いた。
今月再開された小学校は、分散登校の週2回だったが、毎日の登校に変わる。
コロナと共存する新しい日常の、ニューノーマルに、ノーマルが戻ってくる、と感じた瞬間だ。
長かった。いや、あっという間だった、というべきか。
コロナ自粛期間は、私たちに様々な発見を与えてくれた。
各国のリーダーも、結局は普通の人であって、神でないこと。
そして、日本という国は、少子化になるべくしてなった、と言ったらいいのか、特に子供への扱いは全くのおざなりであった。
先進国と呼ばれていても、教育面では、最下位であったことはショックだった。
渋谷区でさえ、ICT教育が盛んな23区と、児童一人一人にタブレットが配布されてはいたが、まるで使えない端末であった。
オンライン授業が出来る代物ではないことが露呈し、タブレットは、プリントのオンライン化ツールにしか、過ぎなかった。
国に頼れないし、学校にも頼れない。子供を守るのは、私たち親がまず、人生で最も大切なことは何かを見極め、学びながら、考えながら生きるしかない。
渋谷の串カツ田中も、営業再開で、店内には少なくない、お客さん。
ちょっと買ってこうか?
明日から緊急事態制限も解除らしく、今夜は家前祝いしよう。
コロナで自粛が始まって種植えしたのに、立派に実ったよ。
ひきこもり生活になって、ドイツの友人が野菜を育てているというのに触発され、家庭菜園をほんの少しだけ、している。
種を植えた、二十日大根が芽を出してきた。
小さな苗だった、さやえんどうも、ついに実がなりはじめた。
ピーマンも花が咲きはじめた。
バジルは購入。えんどう豆は種をもらって育てたら葉っぱが出てきた。けど、このまま放置してていいのかな。移し替えるべき?
コンビニで主人が買ってきた、ミニトマト栽培セット。簡単、というふれこみなのに、なかなか芽が出ず。
昨日、新しく買ってきた、きゅうりの苗。無事育ちますように。
去年のGW、私は米国アリゾナにいた。首都フェニックスは、ちょうどその頃、気温がぐんぐん上昇していくシーズンで、私たちの滞在中は、空が底抜けに青く広い日々だった。野鳥のけたたましい鳴き声が、目覚ましのように、私たちを毎朝起こす。帰国後、住んでみたいな、と不動産を少し見てみたが、空想で終わった。それで、良かった。まさか、一年後に世界が激変するとは。
今朝はそんなことを思い出し、空を眺めていると、どこからか鳥の声がした。雀だけでない。何種類か鳥の音がハミングして、それが、いつまでも続く。不思議なことだが、都心の渋谷にも自然はある。アリゾナから帰国したとき、そんな渋谷の朝に気づき、生物の息吹があると知って感動したが、今朝また、そのことも思い出し、心が豊かになった。心を向ければ、聞こえなかった鳥の音が聞こえる。私たちのコロナ禍な生活も、心をどこに向けるかが、本当に大切だと日々感じている。
先月、わが家には訃報の知らせが毎週一回、入ってきた。
うち2つは、昨日まで元気にしていた人が、突然召された連絡だ。
その1つが、小学六年生の死である。
お母さまから「一昨日召されました」と頂き、「こういう状況下なので」と、Zoomによるライブ配信葬儀の案内を受けた。
「べべ(仮称:うちの娘)ちゃんの誕生日に、うちの息子と遊んでくださったお子さんへ、良かったら連絡してほしい」と言われ、私が連絡したところ、一度しか遊んでいないのに、「参列します」と返答くださった方々がいた。皆、母親だから、その辛さが痛いほど分かる。
彼女の息子は、ある日具合が悪くなって、何度か吐き、母親は病院へ行こうかと考えたものの、息子に熱はなく、今はコロナだから、病院へ行く方が危険と考え、様子を見ようとなった。
彼は、「吐いたら楽になった」と言って眠ったので、母親もその傍らで休んだ。
翌朝、なかなか起きてこず、よく眠っているな、と母親が思っていたら、子どもの身体が冷たくなっていた、ということだ。
(※結局、検査の結果コロナ陰性であり、死因は不明であった)
これを、悲劇と言わずして、何と言おう。葬儀で、自分をひどく責めた、と母親が言っていたが、誰が責められよう?寝たら子供をそのまま休ませるのは、おそらく、すべての母親が考える判断だ。
私は、どう動けばいいかわからず、近しい数人へ連絡をすると、皆で、ただ、彼女と家族のことを祈るほかなかった。
葬儀後、東京の空には虹が見えた、と彼女が写真を送ってきてくれた。
そして、北海道で葬儀に参列した人からも、北海道に虹がかかっている、と送ってきてくれた写真を転送してくれた。
葬儀後、彼女に、日常が戻ってくる。
息子の不在を、毎日の生活で受け入れていかねばならない。
これからが、正念場だ。
彼女は、そして、子供たちや、ご主人はどうしているだろうか。
心配でならなかった。
それが、葬儀後数日して、Zoomのオンライン祈り会の場に、彼女が参加してきれくれた。
まさか画面に出てくるとは思わなかった。
息子は天国でいま、安らいでいる。また必ず再会できる
そのように希望に満ちている彼女の顔に、やつれきった様子はなく、むしろ、綺麗で輝いているようにすら、見えた。
奇跡だ・・・。
むしろ私の方が、その顔を見て、泣けた。
「死ぬのが怖い、という大人や子どもたちに、メッセージがすごくいいので、ぜひ見てほしい」と、彼女が葬儀の模様を配信したものをYouTubeに上げた。現在、限定公開中だ。
死はけして、終わりではない。
ドイツ人の宣教師、故ベックさんのメッセージも、麗澤大学社会人講座(2014/01/24)で、このテーマについて語っている。動画を読む時間がない方は、ぜひご一読あれ。
今日の午後、わが家の呼び鈴が鳴った。
みると、近所の子が、娘に、遊ぼう、と言う。
よく来たね。
どうぞ、どうぞ、お上がりなさい。
普段の私なら、そう言うと思うのに、今は、それが難しい。
たぶん、私もこの子もコロナ陽性ではない。でも、何かあったら迷惑がかかる可能性がある以上、うちに上がって、とも言えない。
今日は難しそうでごめんね、と話すと、子供が今にも涙が出そうな顔をして、私に訴えてきた。
今日は外に誰もいないの。
ああ、いつもの広場に、今日は人がいないのか。皆、自宅なのかな。
ほんとになんとかしてあげたいけど、その瞬間どうしてあげることも思い浮かばなくて、来てくれてありがとう!とお礼を言うのが精一杯だった。
あとから、お菓子を分けて帰したらよかったのかな、と追いかけようとしたが、それもふと、今は自宅の物をあげてはいけないとモヤモヤした。
今日は歯科医でこんな貼り紙を見たばかり。
院長先生が、雑誌は除菌できませんからね、と言った。
私は、ステイホームも仕方ないと思ってはいるけれど、家に居るのが難しい人が老若男女問わずいることを、忘れてはならない、と思う。
こうなったら、早く一般家庭にコロナ検査をしてもらい、陰性の人が陰性の人を助けられる仕組みを確立してほしい。
いや、自分に何か出来ると思う方が不遜なのか。黙って祈ることこそが、今の自分に出来る最大限の支援であろうか。
朝日新聞さんのインタビュー記事が素晴らしすぎて、シェアせずにはいられない。全文無料開放中でしたのでコピペを失礼します。m(_ _)m
朝日新聞 2020.4.14
突然の休校から学校再開と思ったら、また休校――。新型コロナウイルスを巡り二転三転する状況に、すっかり疲れている親子も多いのでは。しかし、絵本作家の五味太郎さんは、愛情を込めて「ガキ」と呼ぶ子どもたちへ、「これはチャンスだぞ」と呼びかけます。
本当は何がしたい? 問えるとき
――急に学校が閉められて先の見通しも立たず、大人も子どもも心が不安定になっていると感じます。
それじゃ、逆に聞くけど、コロナの前は安定してた? 居心地はよかった? 普段から感じてる不安が、コロナ問題に移行しているだけじゃないかな。こういう時、いつも「早く元に戻ればいい」って言われがちだけど、じゃあその元は本当に充実してたの?と問うてみたい。
■子どもに失礼
おれはもともと、今の学校や社会は、子どもに失礼だと思ってる。
――失礼、ですか。
子どもにとって教育は「権利」だと憲法に書いてあるのに、6歳になったら必ず小学校に行き、しかも学校も先生もほぼ選べない。おれの娘は2人とも途中で学校に行くのをやめたけど、学校に向いてる子と向いてない子、あるいはどっちでもいい子がいる。
学校に行きたくない子どもに親が行きなさいというのは、子どもが「お風呂が熱い」って言ってるのに、親が「肩までつかって100まで数えなさい」というようなもので……。
――耳が痛いです。
そうでしょう。これに耐えれば卒業証書、修了証書、退職金と続いていく。で、疲れちゃって、考えるのをやめていく。それを繰り返しているうちに、自分が何がしたいかわからなくなっていく。わくわくしながら仕事に行ってる人ってどれぐらいいるのかな。
――子どもの邪魔をしないように、大人が気をつけることは何でしょう。
例えば、子どもが絵を描いてるわきに行って「なに描いてるの? 上手ね」なんて言わないこと。ピカソに対してはそう言わないでしょう。それはその子個人の絵なんだから。
そんな大人にいっぱい来られて、「お花かわいいわね」と言われたりしてると、めんどうくさくなって、ウケるものを描いてしまう。大人がやりがちなミスです。
ガキたちには、むしろこれがチャンスだぞって言いたいな。心も日常生活も、乱れるがゆえのチャンス。
■本質はっきり
――チャンス?
だって、学校も仕事も、ある意味でいま枠組みが崩壊しているから、ふだんの何がつまらなかったのか、本当は何がしたいのか、ニュートラルに問いやすいときじゃない?
働き方も国会も、色んなことの本質が露呈しちゃっている。五輪延期も、オリンピックより人の命って結構大事なんだなとやっと再確認したんだろうし、優先順位がはっきりしてくる。
感染者が何人、株価がどう、と毎日ニュースで急カーブのグラフばかり見せられて、グローバルと言っても、心でグローバルしてたんじゃなくてお金がグローバルしてただけなんだなとしみじみ思うよね。
こうなると、世界の全体像は誰もわからない。せっかくなら、前よりよくしましょうよ。
――そうわかっていても毎日ギスギス、オドオドしてしまいますが……。
いまは、子どもも大人も、本当に考える時期。『じょうぶな頭とかしこい体になるために』という本を書いたことがあるけど、戦後ずーっと「じょうぶな体」がいいと言われてきた。それはつまり、働かされちゃう体。「かしこい頭」っていうのは、うまく世の中と付き合いすぎちゃう頭で、きりがないし、いざという時に弱いからね。今こそ、自分で考える頭と、敏感で時折きちんとサボれる体が必要だと思う。
心っていう漢字って、パラパラしてていいと思わない? 先人の感性はキュートだな。心は乱れて当たり前。常に揺れ動いて変わる。不安定だからこそよく考える。もっと言えば、不安とか不安定こそが生きてるってことじゃないかな。
(聞き手・田渕紫織)
*ごみ・たろう 1945年生まれ。『きんぎょが にげた』『みんなうんち』など400冊以上の著書がある。エッセーに『大人問題』など。
昨夜、緊急事態宣言が全国に発令されたことを受けて、各都道府県知事が眉をひそめていた。
中には、「朝礼暮改、と言う言葉を思い出した・・・」と絶句していた知事もいた。
安倍首相が全国民から注目を浴びている。
今までで、最もインパクトがあったのは、私にとっては“一斉休校”であったが、
以来、国のリーダーが次に何をするか、関心が高まっている。
コロナはGW明けには収束する、ということが、今、日本の希望である。
が、信じている人はどれだけいるのか。
ワクチン完成が来年、という現実を踏まえれば、私個人の考えでは、GW後も当面、この、ソーシャルディスタンスを保っていく社会は持続していく。もはや、今までのように、子供は自由に友人宅へ往来できないし、学校はいつ感染してもおかしくない危ない場所、ということになる。オンライン教育は、子供たちにとって喫緊の課題なのに、相変わらず、文科省が何をやっているのか、よく分からない。10万円給付など一律にするより、早く子供たち一人一人に、iPadを配布してやってほしい。
新しい社会がうまれ、いかに生きるかが、今、全国民に問われている。
私も、自分なりに何が出来るか考えているが、NHKを見ていると、たまに疲れる。もっぱら安倍政権への非難や、国民の苦難やスーパーの混雑が放映されているが、それを知って何になろう。確かに私も布マスク配布の政策はガッカリしたが、彼だけが悪いのか。昨夜は「クローズアップ現代」の番組内で、フリーランスの苦境と不満を放映していたが、彼らに責任はないのか。フリーランス、という立場を選んだのは、そこに映っている、その人である。リスクがあるのは、当然だ。補償がない分、自由を得たのだから。
私の親しい人は、「日本は終わった」と言った。
そもそもコロナウィルス大感染は、安倍政権のせいではない。世界的な流行だ。
だから、世界中の人が、これからどうしようか、と考えるべきなのに、日本人は皆、「安倍さんよ、何してくれるのか」と、依存している。少なくともNHKをはじめとした放映では、不満と国の方針を織り交ぜた報道ばかりだから、国のせいで私たちの社会がおかしくなってしまった、というふうに錯覚しそうになる。そして、安倍政権を叩くことが、国民のストレス解消になっている気がする。ちょっと、情けない。安倍さんだって、コロナの被害者なのに。
安倍さんも国民に謝ってばかりいないで、いっそのこと、英ジョンソン首相のように、私はもうあなたたちを守れないかもしれない、とカメラの前でキッパリ発言し、私たち国民自らを奮い立たせてほしい。
一律10万円配布は公平感があってよさそうに見えるが、今大事なのは公平性より、困窮世帯を救うことだ。安倍政権も、そう考えたから30万給付を一部へ、と言ったのに、金の亡者の私たちがあまりにもうるさいから、もういいや、と疲弊し、全国民にばらまく結論を定めたのではないか。
崇高な国民になることは難しい。
新型コロナウイルスの感染拡大で、在宅勤務のニーズは高まっているが、私はかなり前からやっている。
だから、一か月以上続くテレワークの日々に、さほどのストレスは感じていない。
が、仕事をしていて、幾つか、気になることも出てきている。
まず、回線だ。社内環境へのアクセスが夕方になるとブツブツ(回線が)切れるのだ。業務が進まず、それもあって私は極力、朝働くことにしている。(※わが社はフレックス制になった)
次に、スパムメールだ。会社はともかく、最近顕著なのは、個人用のメールに巧妙なスパムが届くようになったことで、コロナのせいで、デジタルへの攻撃が高まっているのではないか、と感じている。IPA(情報処理推進機構)によれば、すでに警告中のフィッシング詐欺の一つであったが、デジタル社会に個人情報を保護するのは、もはや不可能らしい。セキュリティがかかっている企業に会員登録しても、その企業から個人情報が流出した事件は山ほどあるし、なにより、4月12日に放送されたNHKの「さよならプライベート」は実に怖かった。携帯は、極力使わないようにしたいが、それも、このような状況下ではなおさら、使わない方が難しい。
今はなんでもかんでもオンラインで、買い物でさえも、先日西友の会計で、おじいさんが手渡しで払おうとしたら断られていた。「え、現金なしなの?!」と思ったら、今は手渡しで受け取らない、という方針だそうで、店員はトレイにお金を置いて、と言っていたが、キャッシュレス化は、コロナのおかげでさらに進むだろう。しかし、登録するときには、個人情報にもっともっと、注意しよう!
が、注意して私たちの個人情報が守られるわけもなく、一番いいのは、私のようにブログを書かない、そして、携帯をなるべく障らない、検索しない、など、デジタルから離れることが最善策だ。