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sakurako について

Sakurako,a business working woman who live in Shibuya,Tokyo.

コロナ禍の子供ケアをプリーズ#安倍首相

今日の午後、わが家の呼び鈴が鳴った。

みると、近所の子が、娘に、遊ぼう、と言う。

よく来たね。

どうぞ、どうぞ、お上がりなさい。

普段の私なら、そう言うと思うのに、今は、それが難しい。

たぶん、私もこの子もコロナ陽性ではない。でも、何かあったら迷惑がかかる可能性がある以上、うちに上がって、とも言えない。

今日は難しそうでごめんね、と話すと、子供が今にも涙が出そうな顔をして、私に訴えてきた。

今日は外に誰もいないの。

ああ、いつもの広場に、今日は人がいないのか。皆、自宅なのかな。

ほんとになんとかしてあげたいけど、その瞬間どうしてあげることも思い浮かばなくて、来てくれてありがとう!とお礼を言うのが精一杯だった。

あとから、お菓子を分けて帰したらよかったのかな、と追いかけようとしたが、それもふと、今は自宅の物をあげてはいけないとモヤモヤした。

今日は歯科医でこんな貼り紙を見たばかり。

院長先生が、雑誌は除菌できませんからね、と言った。

私は、ステイホームも仕方ないと思ってはいるけれど、家に居るのが難しい人が老若男女問わずいることを、忘れてはならない、と思う。

こうなったら、早く一般家庭にコロナ検査をしてもらい、陰性の人が陰性の人を助けられる仕組みを確立してほしい。

いや、自分に何か出来ると思う方が不遜なのか。黙って祈ることこそが、今の自分に出来る最大限の支援であろうか。

絵本作家・五味太郎氏が語る「休校はチャンスだぞ」ガキ向けメッセージが秀逸!

朝日新聞さんのインタビュー記事が素晴らしすぎて、シェアせずにはいられない。全文無料開放中でしたのでコピペを失礼します。m(_ _)m

朝日新聞 2020.4.14

 突然の休校から学校再開と思ったら、また休校――。新型コロナウイルスを巡り二転三転する状況に、すっかり疲れている親子も多いのでは。しかし、絵本作家の五味太郎さんは、愛情を込めて「ガキ」と呼ぶ子どもたちへ、「これはチャンスだぞ」と呼びかけます。

本当は何がしたい?  問えるとき

 ――急に学校が閉められて先の見通しも立たず、大人も子どもも心が不安定になっていると感じます。

それじゃ、逆に聞くけど、コロナの前は安定してた? 居心地はよかった? 普段から感じてる不安が、コロナ問題に移行しているだけじゃないかな。こういう時、いつも「早く元に戻ればいい」って言われがちだけど、じゃあその元は本当に充実してたの?と問うてみたい。

■子どもに失礼

 おれはもともと、今の学校や社会は、子どもに失礼だと思ってる。

 ――失礼、ですか。

 子どもにとって教育は「権利」だと憲法に書いてあるのに、6歳になったら必ず小学校に行き、しかも学校も先生もほぼ選べない。おれの娘は2人とも途中で学校に行くのをやめたけど、学校に向いてる子と向いてない子、あるいはどっちでもいい子がいる。

学校に行きたくない子どもに親が行きなさいというのは、子どもが「お風呂が熱い」って言ってるのに、親が「肩までつかって100まで数えなさい」というようなもので……。

 ――耳が痛いです。

 そうでしょう。これに耐えれば卒業証書、修了証書、退職金と続いていく。で、疲れちゃって、考えるのをやめていく。それを繰り返しているうちに、自分が何がしたいかわからなくなっていく。わくわくしながら仕事に行ってる人ってどれぐらいいるのかな。

 ――子どもの邪魔をしないように、大人が気をつけることは何でしょう。

 例えば、子どもが絵を描いてるわきに行って「なに描いてるの? 上手ね」なんて言わないこと。ピカソに対してはそう言わないでしょう。それはその子個人の絵なんだから。

 そんな大人にいっぱい来られて、「お花かわいいわね」と言われたりしてると、めんどうくさくなって、ウケるものを描いてしまう。大人がやりがちなミスです。

ガキたちには、むしろこれがチャンスだぞって言いたいな。心も日常生活も、乱れるがゆえのチャンス。

■本質はっきり

 ――チャンス?

 だって、学校も仕事も、ある意味でいま枠組みが崩壊しているから、ふだんの何がつまらなかったのか、本当は何がしたいのか、ニュートラルに問いやすいときじゃない?

 働き方も国会も、色んなことの本質が露呈しちゃっている。五輪延期も、オリンピックより人の命って結構大事なんだなとやっと再確認したんだろうし、優先順位がはっきりしてくる。

感染者が何人、株価がどう、と毎日ニュースで急カーブのグラフばかり見せられて、グローバルと言っても、心でグローバルしてたんじゃなくてお金がグローバルしてただけなんだなとしみじみ思うよね。

 こうなると、世界の全体像は誰もわからない。せっかくなら、前よりよくしましょうよ。

 ――そうわかっていても毎日ギスギス、オドオドしてしまいますが……。

 いまは、子どもも大人も、本当に考える時期。『じょうぶな頭とかしこい体になるために』という本を書いたことがあるけど、戦後ずーっと「じょうぶな体」がいいと言われてきた。それはつまり、働かされちゃう体。「かしこい頭」っていうのは、うまく世の中と付き合いすぎちゃう頭で、きりがないし、いざという時に弱いからね。今こそ、自分で考える頭と、敏感で時折きちんとサボれる体が必要だと思う。

心っていう漢字って、パラパラしてていいと思わない? 先人の感性はキュートだな。心は乱れて当たり前。常に揺れ動いて変わる。不安定だからこそよく考える。もっと言えば、不安とか不安定こそが生きてるってことじゃないかな。

(聞き手・田渕紫織)

*ごみ・たろう 1945年生まれ。『きんぎょが にげた』『みんなうんち』など400冊以上の著書がある。エッセーに『大人問題』など。

減収世帯へ30万を撤回、一律10万円給付へ

昨夜、緊急事態宣言が全国に発令されたことを受けて、各都道府県知事が眉をひそめていた。
中には、「朝礼暮改、と言う言葉を思い出した・・・」と絶句していた知事もいた。

安倍首相が全国民から注目を浴びている。
今までで、最もインパクトがあったのは、私にとっては“一斉休校”であったが、
以来、国のリーダーが次に何をするか、関心が高まっている。

コロナはGW明けには収束する、ということが、今、日本の希望である。
が、信じている人はどれだけいるのか。

ワクチン完成が来年、という現実を踏まえれば、私個人の考えでは、GW後も当面、この、ソーシャルディスタンスを保っていく社会は持続していく。もはや、今までのように、子供は自由に友人宅へ往来できないし、学校はいつ感染してもおかしくない危ない場所、ということになる。オンライン教育は、子供たちにとって喫緊の課題なのに、相変わらず、文科省が何をやっているのか、よく分からない。10万円給付など一律にするより、早く子供たち一人一人に、iPadを配布してやってほしい。

 新しい社会がうまれ、いかに生きるかが、今、全国民に問われている。
私も、自分なりに何が出来るか考えているが、NHKを見ていると、たまに疲れる。もっぱら安倍政権への非難や、国民の苦難やスーパーの混雑が放映されているが、それを知って何になろう。確かに私も布マスク配布の政策はガッカリしたが、彼だけが悪いのか。昨夜は「クローズアップ現代」の番組内で、フリーランスの苦境と不満を放映していたが、彼らに責任はないのか。フリーランス、という立場を選んだのは、そこに映っている、その人である。リスクがあるのは、当然だ。補償がない分、自由を得たのだから。

 私の親しい人は、「日本は終わった」と言った。

 そもそもコロナウィルス大感染は、安倍政権のせいではない。世界的な流行だ。
だから、世界中の人が、これからどうしようか、と考えるべきなのに、日本人は皆、「安倍さんよ、何してくれるのか」と、依存している。少なくともNHKをはじめとした放映では、不満と国の方針を織り交ぜた報道ばかりだから、国のせいで私たちの社会がおかしくなってしまった、というふうに錯覚しそうになる。そして、安倍政権を叩くことが、国民のストレス解消になっている気がする。ちょっと、情けない。安倍さんだって、コロナの被害者なのに。

 安倍さんも国民に謝ってばかりいないで、いっそのこと、英ジョンソン首相のように、私はもうあなたたちを守れないかもしれない、とカメラの前でキッパリ発言し、私たち国民自らを奮い立たせてほしい。

 一律10万円配布は公平感があってよさそうに見えるが、今大事なのは公平性より、困窮世帯を救うことだ。安倍政権も、そう考えたから30万給付を一部へ、と言ったのに、金の亡者の私たちがあまりにもうるさいから、もういいや、と疲弊し、全国民にばらまく結論を定めたのではないか。

崇高な国民になることは難しい。

在宅勤務率の急増で思うこと

新型コロナウイルスの感染拡大で、在宅勤務のニーズは高まっているが、私はかなり前からやっている。
だから、一か月以上続くテレワークの日々に、さほどのストレスは感じていない。
が、仕事をしていて、幾つか、気になることも出てきている。

 まず、回線だ。社内環境へのアクセスが夕方になるとブツブツ(回線が)切れるのだ。業務が進まず、それもあって私は極力、朝働くことにしている。(※わが社はフレックス制になった)

 次に、スパムメールだ。会社はともかく、最近顕著なのは、個人用のメールに巧妙なスパムが届くようになったことで、コロナのせいで、デジタルへの攻撃が高まっているのではないか、と感じている。IPA(情報処理推進機構)によれば、すでに警告中のフィッシング詐欺の一つであったが、デジタル社会に個人情報を保護するのは、もはや不可能らしい。セキュリティがかかっている企業に会員登録しても、その企業から個人情報が流出した事件は山ほどあるし、なにより、4月12日に放送されたNHKの「さよならプライベート」は実に怖かった。携帯は、極力使わないようにしたいが、それも、このような状況下ではなおさら、使わない方が難しい。

 今はなんでもかんでもオンラインで、買い物でさえも、先日西友の会計で、おじいさんが手渡しで払おうとしたら断られていた。「え、現金なしなの?!」と思ったら、今は手渡しで受け取らない、という方針だそうで、店員はトレイにお金を置いて、と言っていたが、キャッシュレス化は、コロナのおかげでさらに進むだろう。しかし、登録するときには、個人情報にもっともっと、注意しよう!

が、注意して私たちの個人情報が守られるわけもなく、一番いいのは、私のようにブログを書かない、そして、携帯をなるべく障らない、検索しない、など、デジタルから離れることが最善策だ。

コロナ生活で迎える渋谷の朝

新しい朝が来た。

コロナウィルスのパンデミックで、世界は大混乱だが、朝焼けは日々美しい。

近頃は春の息吹がすさまじく、昨日の昼休みに娘と歩いた道は緑がまぶしく、野花は咲き乱れ、実に素晴らしかった。
おまけに、道沿いに、人工の川が流れていることに初めて2人で気がついて、見たら、鯉や鴨がいた。

「(こんなのがいるなんて)ぜんぜん、きづかなかったね!」と娘は目を大きくしていた。

今までは、ここを自転車でサーッと駆け抜けていたのに、今回は強風でたまたま歩いた。
制限のある暮らしになったから、あえて、歩く、という贅沢をした。
そのため、ばったり出会った“自然”は、娘と私を喜ばせた。
自然は恵みである、とコロナになってしみじみ、思わされている。室内にいても、晴天だと気持ちがいいのだ。
そういえば、この川沿いは、幼子を連れたお父さんや、2人姉妹を連れた両親がマクドナルドのハンバーガーを食べていた。
コロナ以降、家族連れを外でよく見かけるようになったことも、昨今の社会の特徴だ。

そして昨日17時頃、父から私へ、珍しく電話がかかってきた。

「いま、お母さんと散歩しているんだけど、そういえば『桜子は何してるんだろうなあ』という話になって、元気でやってるか?」と言う。(※父は疾患があり、日々の運動が欠かせない)

いくつになっても、親は親。生きていてくれることがまず、ありがたい。私を気にかけてくれるのも、親ぐらいなものである。制限ある生活の中で、私がどうなっているか、ふと心配になったようだ。が、今のところ、すこぶる元気である。
仕事はかねてから、在宅勤務を何度か経験しているから、ある程度心得をもっているし、そもそも、人に会わなくてよくなった分、頑張らなくてよくなったので気楽になった。

コロナになってから、ケーキやクッキーを焼き、プリンも作った。今までの自分になかったゆとりがうまれている。
最近はよく眠り、のろのろ過ごしている。

が、昨日聖書を開き、箴言第20章4節を読んだ。

「怠け者は冬に耕さない。刈り入れ時に求めても、何もない」

怠けてはいかんと、今朝は早起きした。
最近本が絶好調で売れている(ような)山口周も、「桜子、もっと本を読め!」と何十年も前、私を叱咤していた。

今日は少し本でも読もう、と、新しい一日を始める。

コロナ引きこもり対策運動

室内にいるとどうしても運動不足になってしまう。そこで考えたところズンバのダンスDVDがあった。

やってみると、とても気持ちが良くて、何度も繰り返し見てしまう。

おっと、見てたらダメである。気合を入れてやってみる。とても気持ち良かった。

しょっぱかったベッコウ飴

ベッコウ飴を作ってみた。

いざ味見したらしょっぱかった。悔しくて作り直しをしてみたけれど、やはり塩っぱかった。なぜだろう?砂糖と塩を間違えたのかと、作り直してみたが、どうしてもしょっぱい。砂糖は上白糖だ。Googleで上白糖の成分に問題があるのかと、関連性をくぐってみたが、私と同じ悩みを持った人は一人しか見つけられず、おまけに原因が分からないままだった。

砂糖が悪いのかと、スティックシュガーでやってみた。頑張って作ったら、甘くなった。私の頑張りはどうでも良いとして、やはり砂糖のせいらしい。だが、家中で味見したのに、上白糖は甘く、上白糖のベッコウ飴は眉を潜めるほどのしょっぱさだ。

夫は、物凄い発見をしたのではないか?と興奮した。私は、でもさ、これで何がもらえるの?と言ったら、呆れられた。

「発見は、人類が知らなかったことを見つける、ということであって、損得でない」とのこと。はい、はい、あなたの言う通り。

それにしても、ベッコウ飴のレシピは、砂糖と水であって、中には様々な砂糖を使って実験した強者もいる。なのに、誰もしょっぱくなった、と書いてない。わが家では上白糖だと塩味になった。なぜだろう?

グラニュー糖は苦味が美味しいベッコウ飴になったのに。

こんな時間に食べたら太ると思いながら、美味しいベッコウ飴を頬張った。

ヘリがパタパタうるさい渋谷

ここ最近、土曜の11時になると、決まってヘリコプターが上空を飛ぶ。この二週間、連続してヘリが飛んでいた。

小池百合子都知事が、都内の週末自粛を呼びかけたので、これらのヘリが、ニュース番組で渋谷の街を映すのだ。最初、報道を見た時は、あのヘリコプターが撮ったんだ、と理解した。

なのに、今朝は朝から大変、騒がしい。いつも以上にヘリコプターが飛んでいる。いったい何台いるのだろう?今もヘリの音がするのだ。緊急事態宣言を誰もが待っている。そんな空気が流れている、今日の渋谷だった。

戦争中にB25が飛んでいた時もこんな感じだったのだろうかと、私の中で戦争とコロナがシンクロする。

むろん、今は戦時下と比べるべくもない。暖かい部屋に豊富な食糧。ロックダウンもなく、買い物に行けるという、人権の尊重がある。

が、けたたましいヘリの音は、何やら不安を掻き立てるようで、私は平安なのに、気持ちがモヤモヤする。どうして、マスコミはこぞっては渋谷を映すのか。

昨日は、ベランダにピーマンと、ししとうの苗を植えて、トマトや朝顔の種を巻いた。

こんな時だから、静かに家で命の素晴らしさを味わいたかったのだ。早く、育ってほしい。

ピーマンとししとうの苗、どちらがどちらか、分かるかな?

コロナは一ヶ月後にも、落ち着かない。

子供の運動会は、なくなった。

下手すると、今年はずっとホームスクールかもしれない。

コロナ自粛の渋谷暮らし

 志村けんが亡くなって、日本人のコロナ意識は、3月頭と比べ随分と変わったように思う。私もまた、然り。
だが、きっかけは彼でなく、それより少し前に届いた、ドイツからの情報だ。

 SNSで知ったメルケル首相のスピーチと、Messengerから届いたドイツの友人の声から、欧州の緊迫した状況を知り、彼らにとって日本がいかに異様か、分かるようになった。
 
 日本のテレビ放送を見ていると、国内のコロナ感染情報を終日こねくり回して推測や分析を流している気がして、入ってくる事実の量が少ない。そのため、最近は海外の報道を朝見るようになった。NHKBSはお勧めだ。各国の報道が入ってくる。CNNの動画もネットで見られる。海外の情報を知るのと知らないのでは、意識に差が出るのはある意味、当然だ。
 だがそんな私でも、都内で混雑するスタバを見、継続されている塾や学童を見ると、日本だけは大丈夫な気がする。国内の雰囲気に流されない方が、難しいといえる。なるべく人を避けて暮らしてはいるものの、欧州並みに人と2m離れて話せるか、といえば、実際のところ、しづらい。

 小池百合子都知事の最初に放ったコロナ会見以来、わが社は全面的に在宅勤務となった。そのため、娘は自宅で過ごし、午前中は勉強、午後は散歩を日課にし、私は彼女の健康維持のため、仕事を極力14時で終わらせるようにしている。(※時短勤務のため出来るワザ)
 渋谷区の小学校は6日に一斉登校で(時差登校なし)、そのあとはGW明けまで休校だ。が、一斉登校させていいのか、親として判断が難しい。下駄箱や、教室で、久しぶりに再会する子供たちが、密にならないはずがない。そしてGW後、本当に学校へ行かせていいのか。本来的にはワクチンができるまで、ホームスクールが望ましいのではなかろうか。

 そんな私のコロナ生活だが、心温まる出来事もちょいちょい、ある。

 先日、トイレットペーパーを探しに池尻大橋まで自転車を走らせていたら、遠くから私を見つけて大声で、私を呼んだ人がいた。目をやると、同じマンションの住民だった。私は眼鏡をかけ、マスクもしていた。「よく(私が)分かったね!」と買い物の事情を話したら、こう言われた。
 
 「今、トイレットペーパーはどこも売ってないよ。うちのを分けてあげる!」

 2週間余ほど前にも、大学時代の友人宅に行った際、そこの旦那さんが、別れ際、トイレットペーパーを3ロール持たせてくれたが、今回も人の親切に預かることになった。苦境の時の親切は骨身に染みる。この恩は忘れまい、と思う。

 それで、今日は、わが家に、友人が作った子供用マスクが届くらしい。昨日知ったのだが、未読80ほどのグループライン内を開いたところ、私の知らぬ間にやり取りがなされていて、発送完了しているようだ。届いたらお礼を出そう。びっくりしたが、仲間の気遣いと親切に、感動した。

 ほかにも、数日前にブログにあげた、「暗闇の訓練」は、友達からシェアされた記事で、私は元気をもらった。

 まだある。娘が「お友だちと遊びたい」と言うのをなだめ諭し、2人で散歩に出ると、ばったり仲良しの親子に会った。こういう慰めは最近しばしばあり、一緒にしばらく西郷山公園で互いの近況を語り合って、笑い合った。うれしい、偶然である。

 不自由がありながら、日常の中にはしばしば、優しい時間もしっかり流れている。その恵みの面をみつめ、大都会渋谷でのコロナ生活を乗り切っていきたい。