月別アーカイブ: 2020年12月

クリスチャン生活

「私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう」詩編56:11

コロナ後、最も大きな生活の変化は、ともかく、外に出かけなくなった。この一言に尽きる。
そして、個人的に変わった点は、神さまをぐんと好きになったことだ。

家に居ると、至る所に、神さまの香りがする。
まず玄関、そしてお手洗い。
聖書の言葉が飾ってあるから、無意識に読んでしまう。

そして、室内にあるもの。
愛する家族が立ち歩き、本や、文具が転がっていると、家庭を実感する。
これらはすべて、神様が私にくださった。

生活の中心が家になり、自宅から会議をしていると、働いていても、家族が常に頭にある。
だから、神様のことを考える。つまり、
出勤していた頃より、ずっと神様に心を向けるようになった。
それはつまり、祈りだと、友が言っていた。

10代の頃、祈る、という行為を覚えた。

祈り、とは目に見えず、まったくもって地味そのものである。
特に聖書には、「部屋の奥に入って戸を閉めて、誰にも見られないようにして祈れ」と言ったような記述がある。

つまり、

私は祈っています!と公表はせず、自分の身を低くし、努力は語らず、黒子になって、情熱を神に注ぐ。
静的で、一見すると非力にみえる、この熱量こそ祈りの本質だ。

私は、この祈る機会を、この1年、たくさんもらった。
祈り始める時、最初に神様を褒めたたえると、自分の悩みが小さくなっていくこともたくさん体験した。
創世記には、私たち人間が創られた目的に、神への賛美、がある。
だから、毎日、神様を褒めたたえることを意識して祈ると、きっと神様は喜んで、私たちは祝福されるだろう。

クリスチャンの生活。

それは、祈りに始まり、祈りに終わる。

その人がどのような1日を送っても、祈って、祈って、祈る生活。
それが、クリスチャン生活だ。

ハレルヤまんじゅう

出産祝いのお返しなのか、今日届いた小包には、ハレルヤまんじゅう、とあった。

今日は、私たち夫婦の結婚記念日!

うれしい偶然なり。渋谷スクランブルスクエアのハイトレンド系のケーキでお祝い。

買ってきてもらった夫に感謝。

ランチタイムに、一緒に祈ってくれた学生時代からの親友にも感謝。

2020年コロナ禍クリスマス会_後編

今年はコロナが猛威を奮い、毎年恒例の子供クリスマス会はどうも閃かなかった。

即座に、あたりまえじゃん!と言う声がすっ飛んできそうだが、春の一斉休校時、少なくとも私の地域では、子供間だけはやむなし、という暗黙知があり、限られた仲間内で子供たちは遊んだ。

ふだんママ友グループに属していない私は、このような交流の場を作れなかったので、この自然な流れは驚きと共にうれしい悲鳴だった。親子共々、健康で過ごすことが出来て、どれだけ地域と神さまに感謝したか、分からない。

今となっては、連日、記録更新中の、東京都コロナ感染者数増を鑑みれば、クリスマス会なし、は当然の風潮だ。が、「渋谷区の子供は感染者いない」(数か月前の談話)と医師は言ってたし、小学校は常にやっている(=子供同士は接触している)ので、何かしてあげたかった。が、ヤル気が出なかった。

思い浮かんだのは、家族のクリスマス会だ。
今年で世界が終わる、と考えたら、家族のためにやろう、と思った。

が、やっぱりコロナの影響で、開催直前に、母親がブルドーザーのように参加者へキャンセルを促していき、その通りになった。ならば会は中止、と考えたら、親は来る、という。
けれどこれもまた、開始まであと2時間で、母親から「疲れた」の連絡があり、キャンセルが決まった。そして、基礎疾患のある父親だけが、あと30分で終了、という頃に、ボルシチを持ってわが家に来た。会の終了まで、あと30分である。

一方、この家族とは別に、詳細省くが、招く予定になかった母子が来ることになり、母親からは仕事だから、子供2人を行かせたい、という。2人はとても楽しみにしているのだ、と何度も連絡が来た。

私はふだん、パーティーの場合は子供に紙コップ、が常だが、この日はノリタケのボーンチャイナのカップ&ソーサーを用意し、一人前として扱った。この子たちが、神さまの用意された大事なゲストだ、と確信したからである。

実際、それはその通りだった。

というのも、急遽、彼らのために紙芝居でクリスマスの話をしたら、末っ子が大きな声で「クリスマスって、サンタの日じゃないの?!」と目を丸くしたから、私も目を丸くした。

違うんだよ。

イエスキリストが生まれたことや、聖書に書かれていることを伝えると、今度は姉が、熱心に耳を傾けている。それどころか、「ずっと聖書が読みたいと思っていた」と言う。またもや、私は目を丸くした。

この2人の来訪が、わが家を暖かく包む。それは静かで楽しい時間になってきた。

私は、中学生の姉に対し、なるべくわかりやすく伝えるよう、努めた。聖書の言葉がスラスラ、スラスラ、口から流れてくる。暗記していないが、こういう時は川の流れのように、みことばが浮かんでくるから、不思議である。

それに対して、彼女の反応が、一つ一つ、私には面白かった。

そうだ、神さまを知らないって、こんな感じ。そうだ、神さまを信じ始めるときって、こんな感じ。

今にも彼女は、私と一緒に信じます、と言い出しそうではあったが、ひとまず、初対面だったので、話はそこそこにした。

その代わり、というわけではないが、夜になって迎えに来た母親とは、祈ることが出来た。むろん、別室で、子供たちに気づかれないよう、2人で心を天に向けた。この祈れたことも、私は大変、驚いた。その予定はなかったからだ。
けれど、よくよく考えてみると、彼女と祈ったのは2度目だったかもしれない。初めて彼女に聖書の話をしたのは、たしか3年前だったか。なぜか、イエスキリストの話をしていたのを覚えている。

クリスマス会に、神さまを信じ始めたような人たちに会える、というのはどういうことだろう。

たぶん、とてつもなく、うれしい出来事だ。

そうして、わが家の小さなクリスマス会は、終わった。

終了後は、例年同様、色んな事が続いて、神さまを信じるのが嫌になるくらい、ぐったり疲れて落ち込んだ。
が、このことも、私には必要な落ち込みだったのかもしれない。(傲慢にならないため)

やっぱり、クリスマス会は毎年、大変。
それでも、毎年、いつもやってよかった、と思う。
そうして、来年は絶対に(苦労を胸に)やらないぞ、といつも心に誓うのに、なぜだか、やってしまうのが、私のクリスマス会である。

2020年コロナ禍クリスマス会_前編

 例年、クリスマスと言う日をこよなく愛している私。それは、イエスキリストがこの世に生まれた、ということを公に祝える日だからである。
 サンタの日じゃないYO

 昔、メディアで連載を開始する前、編集者に「聖書の言葉を紹介したい」と言ったら、「仏教の言葉だったらいいけど、聖書はダメ」ときっぱり断られた。売れないそうだ。

 それくらい、日本人にとって馴染みのない聖書だが、世界のベストセラーであり、欧米諸国では教養の一つとして、聖書は親しまれている。ハリウッド映画を鑑賞すると、時折これは聖書の箇所だ、と気づくが、聖書を知らない日本人に、このシーンの意味は分からないと、いつも思う。
  
 そんな日本にあって、クリスマスだけは、聖書を紹介しても、ちっとも嫌がられない。これまで、この日だけは特別よ、と、たくさんの人たちに、ささやかなクリスマスプレゼントを贈り続けてきた。

 時間に余裕のあった20代、12月になるとクッキーを焼くのが、独身時代の私の恒例行事だった。一日かけて、クッキーをオーブンで焼く。ドイツのミンヘン婦人のレシピは、バターの分量が多く、口に入れると、ホロッと崩れて美味しかった。市松模様の美しい黒と白のボックスクッキーは、見た目も華やかで、母が作るのが大変、上手かった。
 

 透明なセロファン袋に入れ、緑と赤のリボンを結んで、聖書の言葉と一緒にする。
 クッキーは大変美しく、いつもラッピングが楽しくて、渡す前からワクワクした。
 手作りのため、渡せるクッキーは少量ながら、私にとっては思い入れが深かった。
 
 
 
 結局のところ、なぜこのようなことをしていたか、と言えば、聖書を知ってもらいたい、この一言に尽きる。聖書に次の言葉がある。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
 
 この使命を胸に、毎年この時期になると、私の中の聖霊が私にささやきかけてくる。
 「誰か、いないか?」
こう書くと、一気に宗教染みてくるが、聖書によると、イエスキリストを心の中で信じて、神様だと受け入れたとき、神の聖霊が、一人一人の人間に宿る、という。(儀式は必要ない)
 
 義務なのか、欲求なのか。私の中の霊が、絶えず、私に働きかける。

 私にとって、誰かが神さまを信じたとて、私にご利益があるわけでもなく、私には全く、関係ないこと。

 けれども、私がこの世で生かされているのは、このためである、と思うから、勇気を出して渡しす。
たとえ、相手に喜ばれなくても、その人にとって、渡した聖書の言葉が、いつか彼/彼女の人生の局面で、必要になるときがあるかもしれない。その人の運命は分からないから、今この瞬間、ご縁があった人へ私が出来るプレゼントを贈るのだ。

「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。ルカによる福音書 2:11」

 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。ルカによる福音書 2:14」

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、 ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネの福音書 3章16節 」

 
 クリスマス礼拝が、今日は世界各地で行われる日曜日だ。洗礼式もある。

 わが魂よ、主を褒めたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
 どうか、たくさんの人たちが、喜ぶ日曜日でありますように。

試練に直面した時、聖書のことば

「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」詩編84:5

人生には、様々な出来事が織りなされる。胸が張り裂けそうな悲しい事や、悶々状態の苦しい事、理解に苦しむ理不尽な事、なぜ自分にとわけがわからないような事態が起きる。苦しみや悲しみは、クリスチャンにも未信者にも同じように起きる。

クリスチャンになれば、苦しみや悲しみが無くなるのではない。
同じように置かれている。

しかし両者は異なる。

その違いは、神を信じる人は、どんな苦しい事、悲惨な事、悲しみの中にも、神を認
めて行く。そこに神を見て行く。神を信じているからだ。だから涙の深い谷を通る時も、感謝が湧く所とする。そこに神がおられ、神の愛、慈しみ、助けを実際に体験して行くからだ。

神を信じない人は、どんなに素晴らしい事があっても、そこに神を認める事は無い。神に感謝する事も無い。ラッキーであり、ただの偶然にすぎない。

信じる人は何があっても、どんな事が起きても、そこに神を認め、神の愛を信じる。どんな悩みが来たとしても、神を信じているから、涙の谷であっても、そこを泉の湧く所として行
く。

そこで神を見、神に出会って行く。何をどうして良いかもわからない、まさにどん底で、慰めや平安の泉が湧き上がる。

なぜなら、そのどん底に神がおられるからだ。信仰とはそういう事だ。もし思い煩いや、不満、怒りがあるなら、神以外のものを頼り、見ているという事になる。どんな苦しみの中でも、そこが泉の湧く所とされる。
シオンへの大路にある人、神に向いている人は、幸いを経験して行く。

上記全文、広島の教会にある日々の光のメール配信より抜粋。

在宅勤務、北欧流で快適

 先週の日経夕刊で、北欧諸国のテレワークには、同僚と週二回コーヒーブレイクがあるという記事を読んだ。羨ましい。雪景色を眺めながら、コーヒー片手にPC。想像するだけで、仕事がはかどりそうな雰囲気。

 フィンランドは、国民一人当たりの年間コーヒー消費量が世界トップレベルで、業務内にコーヒー休憩時間を確保することが必要な場合もあるそうだ。確かに、家で仕事するようになると、気づく。人間の集中力には限界がある。効率よく働くためには、メリハリが必要だ。家だと、うまく息抜きしないと、頭ばかり疲れて、身体が重い。おまけに家中心の生活の中で、情報は限られ、運動不足になる。
 
 私も、情報はともかく、運動不足に悩んでいる。意識しないと、運動を忘れる。一日30歩しか歩いていない気がする、と眠る夜が、何度も続いている。

 会社は在宅勤務が主流になって、様々な試みを半年前に始めているが、正直、今の所、イケてない。

 例えば運動。配信時間が、業務時間外に設定されており、勤務中に身体を動かすなよ、という会社の圧を感じて、ガッカリした。次に、社内コミュニケーション。参加してみたら、社内というより、トップとのコミュニケーションタイムであって、気を遣ってしまい、中身が違うな、と感じた。運営する事務局に、ZOOMのブレイクアウトタイム機能(大勢の参加者を少人数のグループに分けられる機能)を使えばいいよ、と教えたが、決裁がその都度必要になるそうで、運営側も苦労していた。

 今日も在宅が始まる。今週一週間も、セルフマネージメントができますように。