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ニューノーマルの日曜日 #オンライン礼拝

長年、日曜日といえば教会に行く。これが、私の生活様式だった。
これが、コロナで、教会自体「集えない場所」となった。
そこで生まれたのが、「オンライン礼拝」だ。

大半の日本人は、教会に行く習慣などないだろう。
友達に話したら、「ああ、そっかー、そういうことが起こるんだ!」と驚かれた。

日本人にはマイナーな教会でも、日本にクリスチャンは意外と生息している。
私はYouTubeで全国各地の教会が熱心にオンライン礼拝を立ち上げるさまを見て、それを知った。

そして、このパンデミックは、教会に属していた私たちクリスチャンを、ある意味で、目を覚まさせた。それは、私たちが、

教会に属しているのではなく、神さまに属している、

という真実だ。

悲しいかな、人の群れは、時として派閥をつくる。
次第にそれが、“自分の群れ以外は認められない感じ”を教会間に生み出していた。
「あの人は〇〇(の礼拝)へ行った」という話を、私の教会でもよく聞いていた。
私は教会での人間関係にあまりかかわっていなかったので、傷を負うことはなかったが、
教会を自分のからだのように、大切に、大切に、思っていた人ほど、その傷は大きかった。

それが、コロナによって、
「まず大切なことは、お前とわたし(神さま)の関係だ」
と、神が明らかにした。

実際、私たちは各々、改めて教会と自分の関係を見直すことになった。
残る者、他所の教会にいく者、家族だけの礼拝に切り替える者。私見では、それで、よかったように思う。
結局、その人の信仰を判断する資格は、私たちに一切なく、神が判断するからだ。

「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(Ⅰコリント12:27)

私たちが、バラバラであっても、神さまから見たら、器官となって、ひとつの身体を作っている。
それでも、群れは群れで大事だ。

「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」箴言27:17

しかしこれもまた、同じ教会でなくとも、解決されることが分かった。
物理的に離れていて、同じ所へ通えないことも多い中で、手を伸ばせば、友はすぐそばにいることも分かった。
「オンライン」で、会えるのだ。

ニューヨークでも、ドイツでも、和光でも、新座でも、友はすぐそこにいるのである。

2021年の幕開けは死と共に

新しい一年が始まり、お正月の三が日は、空がよく晴れていた。 「お正月らしいね」と、私は夫に話しかけながら、近所の慣れた道を一緒に歩いた。 今年は、日本の誰もが海外に行かず、静かに過ごす、稀有な年末年始。 世界の大波乱をみればみるほど、空がまぶしく、自然の美しさは際立って見える。 青い空だけは、昨日も、今日も、いつまでも同じ。 空を見るたびいつも思い出すことは、神様は、善人にも悪人にも等しく天の恵みを降り注ぐ、という事実。 そんなことを考える一方で、私の心は鬱屈とした思いを抱えていた。 あんなに友と祈りあって神様を身近に感じていたのに、年末になって祈る機会が減ったせいか、あるいは肉体の疲れか、どうともいえない不満が、山ほどこみあげてきて、私の心は最悪であった。 だが、そんな私を起こすかのように、年明けに、目を覚ましなさい、という連絡がいくつも入ってきた。ポツリ、ポツリ、と訃報の知らせを受けたのだ。 ・去年入院し、いつ亡くなっても不思議ではない、と言っていた、友達のお父さん。 ・私の結婚式で、来客用のクッキーを焼いてくださった井之頭公園のT夫人。 ・バンコクで知り合って以来、家族ぐるみで仲良くしてくれたMさん。 人の死は、私たちの生き方を問うものである。 死に直面すると、すべての不満が、吹っ飛んでいく。 人間だれしも死ぬ、と分かっているのに、誰もが死を、それはまだもう少し先の話、と捉えている。だから、急にそれが目の前に飛んでくると、死が輪郭を帯びて私たちに迫ってくる。 “あなたは、今を大事に生きてますか?” 故人との思い出は、走馬灯のように蘇る。残された私たちが、故人を失って最も苦しくなるのは、“あの頃には、もう二度と戻れない”、と認識した瞬間だ。 真っ逆さまに、奈落の底に落ちる。共に過ごした時間を、一緒に笑い、語り合う相手は、もう隣にいない。喉元をかきむしられるような、深い痛みがそこにある。 私にとって家族ぐるみで仲良くしてくれたMさんの死は特に、私にとって辛かった。 知らせを受けた夜、ベッドで寝られるつもりだったが、入ると彼の顔や声が聞こえてきて、瞼がじんわりと重たくなってくる。 仕方がないので、リビングにいる夫に頼み、背中をさすってもらい、しばらくそばにいてもらう。 その夜、夢の中で誰かが出てきて、私は、「助けて」、と一生懸命に声を出すが、声が出ない。 声を出さないと死ぬ、と思って、絞り出すように「助けて、、、」と言ったとたん、夫が私の手を握り締めた。 後で聞くと、なんていったかわからないけど、呻いていた、という。 そこにはもう、年末の不満はどこへやら、夫の存在に、ただ感謝であった。 私はこの人を今、神さまにとられたら本当に困る。 夫に暮れの態度をいちいち、謝ることなどしなかったが、 少なくとも、神さまが年末の態度は誤りだと私に教えていた。 死は勝利に飲み込まれた。 わたし(=神さま)の恵みはあなたに充分である。(聖書) 今年も今をしっかり生きたい。