カテゴリー別アーカイブ: 渋谷子育て

小2の壁、夏休みを乗り切れ!

夏休みがやってきた。

働くママにとって、夏の学童は欠かせない。しかし、私は学童に長期間、子を預けることに強い罪悪感を覚えてしまう。

よその人はどうだろう?その考えは、人それぞれだ。

目黒のママ友は、子供を送迎付きの学童に夜7時まで預け、なんの罪悪感もない、と豪語。加えて、学校の保護者会も全く出ず、どうやら小学校のママ友がいないらしい。

それ、ダメでしょ!?

と、私が非難したら、彼女はケロリと言った。

「出なくてもプリントもらう。何の問題もない」

確かに…。でも、子供の学校生活が気にならない?尋ねたら、

「娘のそれを私が知って、何になるの?」

と言われた。

娘は娘、私は私、今は仕事に夢中らしく、私には自分の人生をしっかり歩んでいるようにみえる彼女を眩しく思った。

ちょうど、恵比寿のママ友にこの話をふってみたら、あり得ない、と言う。彼女の子の学校は、保護者会の出席は必須で、欠席の場合は代理人をたてる、というから、彼女にしたら、あり得ない選択肢だ。

どちらが良い・悪い、でなく、同じ母親でも、価値観がまるで違うことが、私たち人間の面白さである。

そして、私は、と言えば、仮に専業主婦になったとしても、立派な親でいられないにも拘らず、学童に入れるのに躊躇してしまう、中途半端な母である。

去年は、娘をたくさん外で遊ばせた。今年はどうやって、楽しい夏を演出しようか。

今週も頑張ろう~マイワーキングライフ~

無駄な一日。それは笑いのない日である。
A day without laughter is a day wasted. by チャーリーチャプリン

チャップリンの言葉を今朝、思いだした。
タレントの関根勤も、毎日娘を笑わすことを目標に、生活を送っていた。
私にも、笑いが必要である。

過ぎし3連休は、家族の入院で元気が出なかった。
家族の一人が、少なくとも3ヵ月の入院生活を送ることになり、意外と自分が傷ついているのに驚いた。夜、寝床につくと、涙が出る。離れて暮らしているのに、家族はやはり家族なのか。冷酷非情な私にも、愛の心があることを知って驚いた。

そんな今朝は鉛のように心が重かった。会社に行きたくなかった。朝、聖書を開く元気も出なかった。ところが、そんな私に、神様は「ここにいるよ」と愛を送ってくれた。

親友の一人とバッタリ、会ったのである。
Mが銀座線利用者だということも、知らなかった。Mは表参道で降りるという。たった一駅だが、私に
「ミルク味とサイダー味、どっちがいい?」
と、お菓子ポーチを取り出し、2つしかなかった飴の1つを私にくれた。

私は、慰められた。神様が、私に、みているよ、というメッセージを送ってくれているように感じたからだ。

職場についたら、ソニーのVAIOのどら焼きがデデン、と置いてあった。

そうだ、なんかパーティーでもらったと上司がスラック(アプリ)で言っていた。

私はドラッグストアで買ったチョコを取り出した。

ストレスに勝つチョコレート。

職場に来たら気分が変わった。今日も一日頑張ろう、と思えた。

どうせムリ、を口癖にしない子育て

今から5年前に講演されたTEDスピーチ(価値ある考え、案を世に広める講演※アメリカ発祥)がとても良い。

「思うは招く」by植松努

これは、子供の頃に、お前なんかには無理、と言われた北海道の少年が、大人になってあきらめずに生きている、という身の上話であって、どうせムリと言われた彼がどうやって立ち上がったか、述べられているスピーチである。

昨夜、娘に、ちょっと難しいかもしれないけど、と前置きした上で10分ほど入浴前に聞かせてみた。
これから、日本の学校で育つ娘が、大人に少なからず言われるであろう、「あなたにはムリ」を前もって、予防したかったのである。

植松氏のスピーチは分かりやすい。単語も平易である。娘は手作業をしながら、耳を傾けていたらしく、途中でやや興奮気味に言った。
「ママ、これ、すごくいいじゃない。すごく正しいこと、言ってる気がする!…この人、クリスチャンなの?」

植松氏のタイトルである「思うは招く」は、聖書に同じ言葉がある。

「求めよ、さらば受けん」

思えば、私は子供のころ、この言葉が大好きだった。シンプルで分かりやすい。条件なんて、何もない。

求めなさい。そうすれば与えられます。
探しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、探す者は見つけだし、門をたたく者には開かれるのです。

そういえば、娘にこれを伝えていなかった、と思い、私は付箋にこれを書いて、筆箱にコッソリ貼った。
これから先の人生で、あきらめる子になりませんように。

そうして貼ってみたら、私こそ、あきらめている大人であることに気づき、さっそく、その晩はこの聖句を念頭にお祈りした。
「神様、まずは、紛失した電動自転車のカギが見つかりますように」

子供であれ、大人であれ、どうせムリ、と言わない生き方が出来ますように、
これは老若男女問わず、すべての人に伝えたい聖書の言葉である。

証をした感想とその日のニュース

証。する、しない?を、以前書いた私だが、昨日やっとそれが終わった。

昨日は在宅勤務に切り替え、その時間だけ休みをもらった。
最近の会社には、時間休、といって、所用を済ませやすい制度がある。

さて、
私が行った所は、「聖書の学び会」で2部構成。①11時から兄弟による聖書メッセージ、②証。ちょうど正午頃に終わる。

5分遅刻した私が、前を見ると、壇上に立つのは以前ドイツで、私の人生相談に乗ってくれた人であった。私が進退について迷っていると、彼は忍耐強く関わってくれ、のちに私へ直筆の手紙をくれた。読んだら、Aを選ぼうとする私へ、B、と書いてあった。がっかりしたが、彼の手紙には大きな愛を感じた。(結局、私はBを選択)

そういう兄弟と、私のペア。よし、と私は思った。
それで耳を傾けていたら、語られたテーマは、隣の人を(なかなかできないけれども)愛そう、であった。
奇しくも、私が準備した証と合致した。世間ではこれを「偶然だね」というが、私は神様が、“導いている”、と確信した。

私の番が来て、前に立つ。

生まれて初めて、人前で話す証。
神様のことを語るんだから、小声でなく、しっかり、ゆっくり、堂々と、を心掛けた。
それなのに、喋りながら、胸の鼓動は高まりっぱなしで、なんと、生まれて初めて(?)指先まで手が震えた…!

おまけに原稿を用意していたのに、冒頭から読み違えた。
しっかり、私!、と鼓舞しつつ、原稿を読んだら、なんということだろう、感情が入ってきて、不覚にも泣きそうに。電車の中でリハーサルしたときは、全然悲しくなかったのに、辛かった信仰生活の過去を思い出してしまった。

結局、
それでもぶっ倒れず、時折、前を見て、最後まで話しきった。
マラソンを走り終えた気分である。
最後の賛美を全員で歌ったら、私は仕事が残っていたので、そそくさと立ち去った。

すると、なんということだろう、同じように一足早く出た姉妹方がどうやら証の感想を話し合っているようだった。聞こえてくる単語にギョッとした。もしかして私、否定されている?何か、変なこといったっけ?

夜、私を気にして?早く帰った夫に、気のせいかもしれないけど、と前置きした上で、帰り際に偶然、私の悪口を聞いた、と言ったら、気にするな、と言われた。

「私の証ってどうだったんだろう?良かったのかな?」

会場に居なかった夫に聞いても仕方ないのに聞いてみたら、
「証って、良いとか悪いっていうものなの?」と言われた。「いや、違う…。」

「ま、おつかれさま」と言って、既にベッドで寝ながら喋っていた私の腕をとり、夫は手をマッサージしてくれた。

その安堵感に包まれ、その日はぐっすり眠った。証は大変だったが、私の過去が整理できた。今日から新しい章が始まるような気がして、心は晴れやかだった。

その日のニュース(恵み)
1)消息不明だった人が、家に戻ってきた知らせが来た(驚愕)
2)娘が朝、願って出かけたことが午後に実現
4)クリスチャンママ友Aからの電話連絡、ママ友Bからのお菓子差し入れ、ママ友Cからサマーキッズキャンプに行きたいの連絡

感謝。

親の思い通りにならない子供

今日読んだ文章が良かったので、子供の教育に悩む母親のために、以下を転記する。

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエス
にあって神があなたがたに望んでおられることですテサロニケ5:18

ある母親が、子供にいら立っていた。学校から帰宅するや、暗くなるまで外で遊び回り、なかなか勉強へと向かない。友達も沢山いて、外で元気に遊ぶのは良いのだが、内心は勉強しない事に不満だった。

元気で良いと頭では思うが、心では決してそうでなく、ちゃんと勉強して、良い成績を取って欲しかった。

子供に対して、こうあって欲しいとの思い、決してそうならない子供。そんなモヤモヤ悶々を抱えた日々のところに、その子供が事
故に会った。

大きな事故で、救急搬送され、すぐ手術となった。予断を許さない厳しい状況に、医師には、「覚悟をして下さい」と言われた。突然の事態にわけもわからない中、とにかく命をとどめて下さいと、祈りに祈り、手術の間中、必死に祈り続けた。

その時に、生きていてくれさえしたら、後はどうでも良いと心の底から思った。成績なんてどうでもよい。何も要らない。生きていて
くれるだけでいい。長い手術の間に、偏差値でしか子供を見ていな自分の姿を見せられ、心から悔い改めた。

九死に一生を得て、子供の命は助かった。そして順調に快復が与えられた。

自分自身が全く変えられた。

子供の見方も全く変えられ、子供をあがまま、受け入れられるようにされた。もしあのまま行っていたら、子供をどんなに酷く損なっていただろう。痛い、辛い出来事だったが、心から感謝だと思えた。主に在って、すべての事が感謝であること、心から受け取れた。

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決して喜べない状況でも、最悪に思える出来事にも、感謝するとき、
背後におられる主を仰げる。いつも最善を送ってくださる主にあって条件をつけず、すべての事にいつも感謝していたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会み言葉配信係り

「渋谷のラジオ」でラジオを初体験

今日は娘が学校を午前中で早退し、主人が娘を預かることになった。
彼女を職場へ連れて行く、という。
とはいえ、今日はラジオ出演の日である。娘、どうするんだろ?

夫「あっ!そうだった。どうしよう、そうだね、一緒にラジオ局へいくか・・・」

娘「ラジオ局ってどんなとこ?」

夫「渋谷のラジオ局は小さい部屋なの。離れたとこで(放映を)見てて」

娘「出れないの?」

夫「出れないよ」

正午過ぎて、携帯の渋谷ラジオアプリをクリック。

主人の番組は、12時から13時までの一時間枠である。
今日は娘がいるなら聴かなくちゃ、と、ランチはデスクで食べることにして、イヤホンをしながらラジオの会話を聞く。実は夫の放送を聴くのはこれが、2回目である。去年から番組が始まったのに、ラジオってなかなか身内であっても聴かないものである。
司会者は3人。うちの主人ともう一人の方とアナウンサーさんで、今日のゲストは二人。

なんだ、娘は入ってないのか、そりゃそうか、と思っていたら半ばになって、娘に話がふられ、娘の声がした。
おまけにずっと聞いていたら、子供の名づけの話になって、また娘の話になった。司会者の方、娘を入れてくれてどうもありがとう!

今日は思いがけない、棚からボタ餅の、よい社会勉強に恵まれたようだ。

デンジャラス銀座線渋谷駅

私の通勤路。

これは、渋谷マークシティを抜けて、銀座線に向かう途中の写真なのだが、改札口付近が異常に混雑しているため、改札口の手間からすでに、黒山の人だかり。

私は虎ノ門に行きたいのに、電車に乗るまでが、めちゃくちゃ大変!!

毎朝、これでうちを早く出ても、出社ギリギリになってしまう。

10年ぶりのアリゾナ~人生に偶然はあるか~

令和元年だと大騒ぎした日本のGWは、すっかり過去となった。
日本の騒動も、アメリカでは誰一人関心を寄せなかった。おそらく、令和、という言葉をよく知っている外国は、ドメインビジネスで儲けたがる中国だけではないかと思う。

さて、私たちの日常も、帰国して1週間余が経過した。
今のところ、GWに行ってよかった、と心底思っている。

理由は、夫が「仕事の心配をせずに休めた」とリラックスしていたし、娘にいたっては、「私、アメリカで生まれたかった」と言うほど、何かが気に入ったようであり、なんといっても、プール付きのコンドミニアムが、私たちプール好きの家族には、最高の環境であった。

しかし、この環境、そうそう簡単には手に入らぬ。
そもそも、なぜ私たちがホテルではなく、コンドミニアムに住めたのか。
それは、アメリカの友人がいたからである。

この旅は、10年前にさかのぼる。
独身だった私は、仕事のプロジェクトを終え、疲れ切っていたので、親しい部長に、「どこか海外にいって、ホームステイしたい」と呟いたら、彼が願いを叶えた。30代になって、見ず知らずの外国人の家に行くとは大胆不敵だが、トントン拍子に話が進んだので、クリスマスにアリゾナへ飛び、10日間ホームスティした。それが、今回76歳になった彼と再会した所以だ。

*当時の日記はこちら「アリゾナへの切符」

だから、私たちは普通では考えられない旅行をした。


ラッキーだね!!

この一言に尽きる旅について、ふと思った。
もしも、神様から10年先を見越して計画されていた、としたらどうだろう?

私は今回、自分から夫を誘ったが、誘う気持ちになるまで、いくつか布石があった。まず、去年、ホストファミリーが何の予告もなく日本にやってきた。この予想外な出来事で、まさか自分が、この辺ぴな地へ再び来るとは、夢にも思わなかった。

人生に偶然は一つもなく、
私たちから見たら、一つの旅が、もっと大きな視点でみたとき、違う点になることがある。

私たちは、もしかしたら、この先、アリゾナと何か縁があるかもしれない。
実際、今回行ってみたら、高校時代の友人がアメリカの実業家と結婚しており、再会する機会に恵まれた。
彼女はクリスチャンになっていた。

してみると、この先の未来もまた、次につながる点になるのではないか。
そんな考えをついつい巡らせてしまう。

二十日大根、家庭菜園中

今年の冬に蒔いた、まんまるはつか大根が、こんなに大きくなった。

まるで着色料をつけたような、真っ赤な大根、とても美味しそう。

都会で作れると思わなかった。明日のサラダにしよう。

春休みの振り返り&新年度

あっという間に新学期になった。
今朝はあいにくの雨だったが、今日は子にとって新しい一年の門出だ。
「子よ、学校生活に多くの幸あれ」
これはきっと、親の誰もが、出ていく子の背中を見て願った祈りだと思う。

さて、
振り返ると、過ぎし2週間の春休みは良く過ごせた。
私は会社の制度(在宅勤務、年休)と社会の制度(学童)を活用する一方で、時に友と遊び、子を友に預かってもらう等のやりくりをして、最終的には私自身も「春休みらしさ」を満喫できた。

学童で食べるお弁当(私の記念に残しておく)

娘と焼いたお菓子。

アイシングづくりのプロ(友)に来てもらい、娘の友も招いて作ったアイシングクッキー。
私の作品。

初挑戦ながら、意外と上手だった娘の作品。

平凡な日常の積み重ねが、私たちの人生の糧となっていく。

どうか、今日から続く日々もまた神様のお守りがありますように。