月別アーカイブ: 2022年9月

selective focus photography of bouquet of red rose flowers

一人で過ごした50歳の誕生日

 私のブログは、知人でほぼ成り立っている。生き恥をさらし続けて20年足らず、今日も、私は一人の読者に支えられ、日記を綴る。今日まで読んでくれた方、また偶然読んだ方、あなたの時間を、ありがとうございます!
 


 最初に、非公式だった年齢を、この節目に書いてしまった。50である!

 
 先日カミングアウトした「死にたい」とほざいた20代もある私。その理由はさておき、そんな思いを抱いた自分が、あと少しで死ぬ。そう思うと、不思議な気がした。渇望した死の曲がり角に来て、心配しなくても人生の終焉を迎えるのは事実だ。そう思うと、私はこれで終わっていいのか、と自らに問いかけていた。

 というのも、それと呼応するように、一枚のカードが引き出しから出てきたせいだ。

これは、20代で私が海外赴任する前に、弟が初任給で贈り物を買ってくれた折に添えられていたメッセージカードだ。数か月前に出てきたのが今でも不可解だ。そこに、神の計画があったように思えてならぬ。読めば読むほど、私の心の何かが、強烈に動く。

「お姉ちゃんへ 初任給で買ったプレゼント。
 神様から与えられた恵みを十分に生かせますように」

…私、これまで恵まれて生きてきた。
与えられた恵みはたくさんある。なのに、なのに、まったくソレ、生かしてないね…。

オーマイガッ!!!

 

 

  ちょうどこの日、私は家族に祝ってもらう算段が外れ、独りで過ごしていた。注文したケーキも、特に誰からも歓迎されず(注:娘を除く)、私の思いと外れた一日でしかなかったが、ちゃんと大好きなエステは堪能する機会が与えられ、私は見知らぬスタッフに手入れしてもらって、それなりの幸せを味わった。
 けれども、親しい人との暖かな交流はそこになく(注:娘を除く)それでも、私は静かに受け入れる気持ちでその感覚を味わえた。
 なぜか。

それは、時は確実に過ぎることを体感した50と言う数字に、死をすぐさま連想したからだ。私はまるで50歳の1人の誕生日を、臨終の備えであるかのように過ごす感覚に襲われ、神様の意向に沿っている気がしていた。



私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。(旧約聖書 ヨブ記1-21)



私は裸で生まれ、裸で帰っていく。

いつ亡くなるか分からないが、死を見つめて生きることはいいことだ。人の目にはまっすぐに見える道がある。その終わりは、死である。

寿命を全うさせていただけるとしても、私より年上の夫がいる私は、孤立する可能性が高い。
死ぬとき、娘や友人らがそこにいてくれるとは限らない。
人間は独りだ。

 誰からも祝われなくても、チヤホヤされなくてもいい。死ぬときは誰も天国へ連れていけない。私は一人で死を受け止める日がやがて来る。

 と、まあ、そんな風にして、私は、かなり奇特な誕生日を味わっていた。
異質な一日は、その翌日もなんだか黒い雲が迫ってきたかのように、ふわふわとおどろおどろしくもあったが、逃げてはいけない気がして、その思いを誰にも言わず口を閉じ続けていた。それが、私には必要な気がしたからだ。

けれども、夫が長い出張から帰ってきて、いつもの日常が戻るとやっぱり思った。

命あってこその人生、家族はいい。友達もありがたい。


しばらく開けずにいたFacebookを開くと、知人がメッセージをくれ、そうそう、書いておくと、誕生日当日もLINEで何人かメッセージをくれていた。返事を全く書けなかったけれども、感謝、と心では思っていた。

人は1人で生きられない。
そのことをまた実感して、人生の後半へ進む。

これから先もいろいろあるけど、踏ん張って生きていきたい。

50代以降も、ブログは更新していく。インスタに変えた方がいいのかな~と思いつつ、なぜ発信し続けているかよく分からない。でも、走りながら考えていきたい。

1ミリでも前に進めば大丈夫。 by IKKO


こんな私を、これからもよろしく!!!



by桜子

 

woman in white crew neck t shirt sitting beside brown wooden table with candles

ハッピーバースデー自分

 今日は原点に戻り、バカバカしい日常を綴る。


誕生日の前日、友人のウッディがNYから電話をくれた。
私は彼の用件はそこそこに、自分の話を切り出した。

「ちょっと、今日は私の特別な日なの。40代最後の日なのよ!」と声高に言ったら、

「えっ!!50になるの?…」
そう言った瞬間、間髪入れず、こう言われた。


「ババアじゃない!!!」


もう、私は絶句した。それ、友達に言う?!
でも、すぐに応えた。

「だよねー!!!アハハハハ!!!」

私、大爆笑。久しぶりにお腹を抱えて笑ったね。

うっすら、そうかな~と思っていたけど、やっぱりそうかってことで、大笑い。
電話の向こうで彼も笑っていた。彼の方がずっと、ジジイ、だけど!



 そして私はこの、ババアが、非常にツボった。こんな彼が、たまらなく好きだな、と感じた。
彼はクリスチャンで、深い信仰の持ち主だが、その彼がこのような言葉を使うとは!そう、クリスチャンだって、自由でいていい。私はそのことを味わい、爽快で幸せな気持ちになった。

 クリスチャンだから言っちゃいけないとか、これしちゃダメとかたくさんあるけど、私は彼と話すと、いつも心が軽くなることを知っている。
 彼の信仰に触れると、生き方全てを肯定できるようになる。前へ進む勇気をもらえる。

日本のクリスチャンはね、ババア、なんて汚い言葉は使わないよ。そんなこと言ったら教会から、矢が飛んでくるからね。


 長い教会生活において、「クリスチャンらしく」は私の呪いの言葉だった、と言語化できるようになったのは割と最近のことだ。「〇〇らしく」という呪文におさらばできたのは、今日にいたる成長だが、その昔、若い頃はよくこんなことを考えて教会に通っていた。 

 持って生まれた性格が地味な人は、教会だと有利…である。

 お化粧せず、飾りっ気のない女性は“いかにも姉妹らしく”見え、周囲から好かれやすい。
一方、そうでない華美で俗っぽい人は、眉を顰められてしまう。私はどちらかといえば後者に近かった方だと思うので、一生懸命にクリスチャンらしくあろう、と努力した方だったから、余計辛かった。

 
 こんな私も50歳。もうそれはとっくに過ぎたのだが、この日について、また書いてみる。

by桜子

うちのスプラコレクション

9日、任天堂のスプラトゥーン3が発売!

だから何?というのが私で、子どもはせっせと夫にプレゼンしていたらしく、気づくとグッズが山のよう…。

そんなスプラ経済効果をみていると、にわかに鬼滅を思い出す。。。いや、鬼滅は凄かった。スプラはどれくらいなのかな?

adult attractive beautiful brunette

オープンダイアローグと私⑩トラウマを持つ人との関わり

 私はごく普通の、渋谷在住ワーママだ。トラウマ、という言葉と無縁に生きている。

そう思っていたのは半月前までで、「フィンランド式精神医療、オープンダイアローグ(開かれた対話)①」のセミナーで女医さんから、「トラウマインフォームド・ケア」の説明を教わってから、考えが少し変わった。私にも関係あるかも、と思った。

 * * *
 前回、パワハラ上司の裏にトラウマありか、という気づきを書いた。本日は野坂祐子著「トラウマインフォームドケア」(*)に記載の事例から、他者のトラウマをどう認識するか、と言う点について考察したい。以降、性的虐待の記載があるため、不安を覚える方はどうぞ読み進めないでください。

=====!注意!=====性的トラウマを書きます。危険を感じる人は読まないでください。

ある中学校に、「義父から性的虐待を受けていた」という申し送りとともに、女子生徒が転入してくることになった。受け入れにあたり、学校ではこの生徒への対応を検討した。

おそらく生徒は男性をこわがるだろうと考えた学校は、女性教員を担当にした。…(中略)…ところが、転入してきた女子生徒は、男子生徒や男性教員をこわがるどころか自分から近づいていき、警戒心がない様子。べたべたと馴れ馴れしい態度をとるのが目にあまるほどであった。

拍子抜けした教員らは「もう、すっかり気にしてないようだ」と思い、支援体制は不要と判断した。むしろ、「あんなに隙のある態度だから、義父とのあいだに間違いが起きたのでは」という見方が強まり、支援よりも指導の対象とみなされるようになった。(野坂祐子著「トラウマインフォームドケア」より抜粋)


さて、これはどういうことだろうか?私がもし、教員の1人であれば、同じように考えた。そう思いながら、本を読み進めると、意外なことが分かった。そこには、大人の想像をはるかに超えた、肉体及び精神的ダメージが描かれていて、胸が痛む。長文になるが、筆者の記事をそのまま引用する。


一口に性被害によるトラウマといっても、幼少期の出来事と思春期以降に体験したものでは、さまざまな違いがる。また、加害者が身内なのか、見知らぬ人なのかによっても、被害の状況や影響は異なる。(中略)幼少期に身近なおとなから性的虐待を受けた子どもは、男性との距離感が近く、ベタベタして、性的にあけすけな態度をとることがめずらしくない。(中略)違和感を覚えても、からだや性器を触って来る相手の行為がいけないことだとは教えられていない。そもそも、子どもというのは、おとなとの触れ合いを求めているものである。「高い、高ーい」とからだを持ち上げられたり、脇をくすぐられたりするような、少しこわくて、ちょっと不快な感覚に興奮する。自分が知っているおとなを疑うことがないし、たとえ『いやだ』と感じても、子どもには断る選択肢もなければ、逃げ場もない。そのため、性的虐待を受けた子どもは、混乱しながら、その状況に適応するしかないのである。

 『おまえのことが好きだから』『これはおかしなことじゃない』『二人だけの秘密だよ(誰にも言ってはいけない)』という加害者の言葉を聞きながらからだを触れられてきた子どもは、愛情や信頼は性的接触とともに得られるものだと思い込んでしまう。性的虐待を受けた子どもが、親しくなりたい相手に触れようとしたり、相手の関心をひくために性的なアピールをしたりするのは、それまでに学んできた『人との関わり方』ともいえる。(中略)『からだと関わりかた』として身につけてきた方法である。

やがて思春期を迎え、加害者の行為が性的虐待であったことに気づくと、『自分はほかの子と違う』『自分のからだは汚れている』という考えにさいなまれるようになる。自己否定的な気持ちから自暴自棄な性行動が増えたり、「タダでやられるくらいなら、お金をもらえるほうがいい」と売春行為をしたりすることもある。加害者に裏切られたという思いだけでなく、加害者に懐いていた無邪気さや自分自身も快感を覚えたことに対して、自分のからだにも裏切られたように感じている。(以下略)」

 …さて、ここまで読んで読者の方はどう感じただろう?
 私はこの女児の内面と、これから起こりうる未来について全く知らなかった。心理学専攻でない私には、知らない話だし、もしかしたら心理学専攻の人でも、トラウマ専門でないと、このような機微に気づかないこともあるのだろうか。
 
 私はこの性的トラウマを知ってもらいたいのではない。それよりも、私のような無理解の人が引き起こす悲劇について、これは書かねば、と感じた。

 先に書いた通り「あんなに隙のある態度だから、義父とのあいだに間違いが起きたのでは」と(中略)支援よりも指導の対象と判断してしまうことへの恐ろしさがそこにある。
 いや、だって、仕方ないよね。トラウマを深く学んでいなければ、教育的指導として誰もが指導側に転じるだろう。だがそれは、児童の立場になれば、攻撃でしかない。
 
 関わる大人が、関わる教員が、無意識に指導するその言葉や行動は、その児童の心をさらにズタズタにする。指導という名の攻撃が市民権を得たら、その子の社会的転落は自明の理である。もしそうなれば、その子の未来はどうなるか。その子は、いったい、これから続く彼女の人生で、どこで心を救ってもらえるのだろう。
 
 そう考えると、本当にトラウマを持つ人との関わりは、周りの支援が欠かせない。同時にそれは、私たち一般人(と言っていいか分からないが、トラウマという言葉に深く反応しない者たち)にとって、大きなチャレンジでもある。私たちは誰もが誰かの他人であり、それはつまり、支援者の1人、ということだ。
 そこには、非常な忍耐と寛容と苦悩と疲労が伴い、人としての品性が強く求められる。

最後に聖書の言葉を紹介する。

新約聖書コリント人への手紙I 13:4〜8

 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。


今日も良い日曜日を!


by桜子



 

shallow focus photography of white flower

オープンダイアローグと私⑨トラウマを持つ人との関わり

 私はごく普通の、渋谷在住ワーママだ。トラウマ、という言葉と無縁に生きている。

 そう思っていたのは半月前までで、「フィンランド式精神医療、オープンダイアローグ(開かれた対話)①」のセミナーで女医さんから、「トラウマインフォームド・ケア」の説明を教わってから、考えが少し変わった。私にも関係あるかも、と思った。
 
  野坂祐子著「トラウマインフォームドケア」(2019年12月25日発行)を取り寄せた。「トラウマとは、生命にかかわるような危機とそれがもたらす影響を指す」とあった。災害等の事件、家庭での虐待、ネグレクト、学校や職場の肉体的あるいは精神的暴力もトラウマになりえるそうだ。ああ、やっぱり私にはあんまり関係がないかも、と正直なところ感じた。

 だが、「生命にかかわるような危険」を、「自分の安心、安全を脅かすもの」と定義したらどうだろう?私自身にも、身近な存在として、トラウマが出てくる。そして、トラウマを抱えた人は、そこここにいるんじゃないか、という思いに至った。

 というのも、私は以前、チーム会議で発言する場になり、上司の論理に対して私自身の見解を伝えた所、彼から早口で責められたことがあった。長らく、恐怖でしかなかった彼のことを私はその日ふっと思い出した。あれは、もしかしたら、私の意見の是非よりも、彼からすれば、彼の安心と安全を脅かす行為そのものだったのでは、と。そんなことが、トラウマを聞いて、ふっと分かった。

 こんな話は、一緒に対話した参加者からも似た話が聞かれた。まるで作り話のような、パワハラ上司の実態ストーリーは耳を疑うばかりであった。そして参加者の人と二人で、元上司へ思いを馳せた。
・色々不安を抱えていたのかも ・慣れない環境になじもうと一生懸命だったのかも
・本当は孤独だったのかも   ・結果を出そうと必死になって部下からの非難を恐れていたのかも 等々。
2人でそんな話をしていると、心の中はなんだか暖かく、しんみりとする。
 
 他者を知ること、そして、その人の過去に寄り添い、配慮すること。この視点は新しい。実践は簡単ではなさそうだが、生きていく上での示唆に富んだアプローチだ。

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近年、さまざまな研究から、トラウマとなりうる体験は稀ではなく、多くの人にとって身近なものであることが明らかにされておいる。そして、暴力や対人トラブル、薬物やアルコールへの依存など、“問題行動”とみなされる言動の背景には、トラウマが影響している可能性があることもしられてきた。
 野坂祐子著「トラウマインフォームドケア」より

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#しばらくこのトラウマシリーズ続けます。

by桜子