日別アーカイブ: 2022年9月24日

selective focus photography of bouquet of red rose flowers

一人で過ごした50歳の誕生日

 私のブログは、知人でほぼ成り立っている。生き恥をさらし続けて20年足らず、今日も、私は一人の読者に支えられ、日記を綴る。今日まで読んでくれた方、また偶然読んだ方、あなたの時間を、ありがとうございます!
 


 最初に、非公式だった年齢を、この節目に書いてしまった。50である!

 
 先日カミングアウトした「死にたい」とほざいた20代もある私。その理由はさておき、そんな思いを抱いた自分が、あと少しで死ぬ。そう思うと、不思議な気がした。渇望した死の曲がり角に来て、心配しなくても人生の終焉を迎えるのは事実だ。そう思うと、私はこれで終わっていいのか、と自らに問いかけていた。

 というのも、それと呼応するように、一枚のカードが引き出しから出てきたせいだ。

これは、20代で私が海外赴任する前に、弟が初任給で贈り物を買ってくれた折に添えられていたメッセージカードだ。数か月前に出てきたのが今でも不可解だ。そこに、神の計画があったように思えてならぬ。読めば読むほど、私の心の何かが、強烈に動く。

「お姉ちゃんへ 初任給で買ったプレゼント。
 神様から与えられた恵みを十分に生かせますように」

…私、これまで恵まれて生きてきた。
与えられた恵みはたくさんある。なのに、なのに、まったくソレ、生かしてないね…。

オーマイガッ!!!

 

 

  ちょうどこの日、私は家族に祝ってもらう算段が外れ、独りで過ごしていた。注文したケーキも、特に誰からも歓迎されず(注:娘を除く)、私の思いと外れた一日でしかなかったが、ちゃんと大好きなエステは堪能する機会が与えられ、私は見知らぬスタッフに手入れしてもらって、それなりの幸せを味わった。
 けれども、親しい人との暖かな交流はそこになく(注:娘を除く)それでも、私は静かに受け入れる気持ちでその感覚を味わえた。
 なぜか。

それは、時は確実に過ぎることを体感した50と言う数字に、死をすぐさま連想したからだ。私はまるで50歳の1人の誕生日を、臨終の備えであるかのように過ごす感覚に襲われ、神様の意向に沿っている気がしていた。



私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。(旧約聖書 ヨブ記1-21)



私は裸で生まれ、裸で帰っていく。

いつ亡くなるか分からないが、死を見つめて生きることはいいことだ。人の目にはまっすぐに見える道がある。その終わりは、死である。

寿命を全うさせていただけるとしても、私より年上の夫がいる私は、孤立する可能性が高い。
死ぬとき、娘や友人らがそこにいてくれるとは限らない。
人間は独りだ。

 誰からも祝われなくても、チヤホヤされなくてもいい。死ぬときは誰も天国へ連れていけない。私は一人で死を受け止める日がやがて来る。

 と、まあ、そんな風にして、私は、かなり奇特な誕生日を味わっていた。
異質な一日は、その翌日もなんだか黒い雲が迫ってきたかのように、ふわふわとおどろおどろしくもあったが、逃げてはいけない気がして、その思いを誰にも言わず口を閉じ続けていた。それが、私には必要な気がしたからだ。

けれども、夫が長い出張から帰ってきて、いつもの日常が戻るとやっぱり思った。

命あってこその人生、家族はいい。友達もありがたい。


しばらく開けずにいたFacebookを開くと、知人がメッセージをくれ、そうそう、書いておくと、誕生日当日もLINEで何人かメッセージをくれていた。返事を全く書けなかったけれども、感謝、と心では思っていた。

人は1人で生きられない。
そのことをまた実感して、人生の後半へ進む。

これから先もいろいろあるけど、踏ん張って生きていきたい。

50代以降も、ブログは更新していく。インスタに変えた方がいいのかな~と思いつつ、なぜ発信し続けているかよく分からない。でも、走りながら考えていきたい。

1ミリでも前に進めば大丈夫。 by IKKO


こんな私を、これからもよろしく!!!



by桜子

 

woman in white crew neck t shirt sitting beside brown wooden table with candles

ハッピーバースデー自分

 今日は原点に戻り、バカバカしい日常を綴る。


誕生日の前日、友人のウッディがNYから電話をくれた。
私は彼の用件はそこそこに、自分の話を切り出した。

「ちょっと、今日は私の特別な日なの。40代最後の日なのよ!」と声高に言ったら、

「えっ!!50になるの?…」
そう言った瞬間、間髪入れず、こう言われた。


「ババアじゃない!!!」


もう、私は絶句した。それ、友達に言う?!
でも、すぐに応えた。

「だよねー!!!アハハハハ!!!」

私、大爆笑。久しぶりにお腹を抱えて笑ったね。

うっすら、そうかな~と思っていたけど、やっぱりそうかってことで、大笑い。
電話の向こうで彼も笑っていた。彼の方がずっと、ジジイ、だけど!



 そして私はこの、ババアが、非常にツボった。こんな彼が、たまらなく好きだな、と感じた。
彼はクリスチャンで、深い信仰の持ち主だが、その彼がこのような言葉を使うとは!そう、クリスチャンだって、自由でいていい。私はそのことを味わい、爽快で幸せな気持ちになった。

 クリスチャンだから言っちゃいけないとか、これしちゃダメとかたくさんあるけど、私は彼と話すと、いつも心が軽くなることを知っている。
 彼の信仰に触れると、生き方全てを肯定できるようになる。前へ進む勇気をもらえる。

日本のクリスチャンはね、ババア、なんて汚い言葉は使わないよ。そんなこと言ったら教会から、矢が飛んでくるからね。


 長い教会生活において、「クリスチャンらしく」は私の呪いの言葉だった、と言語化できるようになったのは割と最近のことだ。「〇〇らしく」という呪文におさらばできたのは、今日にいたる成長だが、その昔、若い頃はよくこんなことを考えて教会に通っていた。 

 持って生まれた性格が地味な人は、教会だと有利…である。

 お化粧せず、飾りっ気のない女性は“いかにも姉妹らしく”見え、周囲から好かれやすい。
一方、そうでない華美で俗っぽい人は、眉を顰められてしまう。私はどちらかといえば後者に近かった方だと思うので、一生懸命にクリスチャンらしくあろう、と努力した方だったから、余計辛かった。

 
 こんな私も50歳。もうそれはとっくに過ぎたのだが、この日について、また書いてみる。

by桜子