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オープンダイアローグと私⑩トラウマを持つ人との関わり

 私はごく普通の、渋谷在住ワーママだ。トラウマ、という言葉と無縁に生きている。

そう思っていたのは半月前までで、「フィンランド式精神医療、オープンダイアローグ(開かれた対話)①」のセミナーで女医さんから、「トラウマインフォームド・ケア」の説明を教わってから、考えが少し変わった。私にも関係あるかも、と思った。

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 前回、パワハラ上司の裏にトラウマありか、という気づきを書いた。本日は野坂祐子著「トラウマインフォームドケア」(*)に記載の事例から、他者のトラウマをどう認識するか、と言う点について考察したい。以降、性的虐待の記載があるため、不安を覚える方はどうぞ読み進めないでください。

=====!注意!=====性的トラウマを書きます。危険を感じる人は読まないでください。

ある中学校に、「義父から性的虐待を受けていた」という申し送りとともに、女子生徒が転入してくることになった。受け入れにあたり、学校ではこの生徒への対応を検討した。

おそらく生徒は男性をこわがるだろうと考えた学校は、女性教員を担当にした。…(中略)…ところが、転入してきた女子生徒は、男子生徒や男性教員をこわがるどころか自分から近づいていき、警戒心がない様子。べたべたと馴れ馴れしい態度をとるのが目にあまるほどであった。

拍子抜けした教員らは「もう、すっかり気にしてないようだ」と思い、支援体制は不要と判断した。むしろ、「あんなに隙のある態度だから、義父とのあいだに間違いが起きたのでは」という見方が強まり、支援よりも指導の対象とみなされるようになった。(野坂祐子著「トラウマインフォームドケア」より抜粋)


さて、これはどういうことだろうか?私がもし、教員の1人であれば、同じように考えた。そう思いながら、本を読み進めると、意外なことが分かった。そこには、大人の想像をはるかに超えた、肉体及び精神的ダメージが描かれていて、胸が痛む。長文になるが、筆者の記事をそのまま引用する。


一口に性被害によるトラウマといっても、幼少期の出来事と思春期以降に体験したものでは、さまざまな違いがる。また、加害者が身内なのか、見知らぬ人なのかによっても、被害の状況や影響は異なる。(中略)幼少期に身近なおとなから性的虐待を受けた子どもは、男性との距離感が近く、ベタベタして、性的にあけすけな態度をとることがめずらしくない。(中略)違和感を覚えても、からだや性器を触って来る相手の行為がいけないことだとは教えられていない。そもそも、子どもというのは、おとなとの触れ合いを求めているものである。「高い、高ーい」とからだを持ち上げられたり、脇をくすぐられたりするような、少しこわくて、ちょっと不快な感覚に興奮する。自分が知っているおとなを疑うことがないし、たとえ『いやだ』と感じても、子どもには断る選択肢もなければ、逃げ場もない。そのため、性的虐待を受けた子どもは、混乱しながら、その状況に適応するしかないのである。

 『おまえのことが好きだから』『これはおかしなことじゃない』『二人だけの秘密だよ(誰にも言ってはいけない)』という加害者の言葉を聞きながらからだを触れられてきた子どもは、愛情や信頼は性的接触とともに得られるものだと思い込んでしまう。性的虐待を受けた子どもが、親しくなりたい相手に触れようとしたり、相手の関心をひくために性的なアピールをしたりするのは、それまでに学んできた『人との関わり方』ともいえる。(中略)『からだと関わりかた』として身につけてきた方法である。

やがて思春期を迎え、加害者の行為が性的虐待であったことに気づくと、『自分はほかの子と違う』『自分のからだは汚れている』という考えにさいなまれるようになる。自己否定的な気持ちから自暴自棄な性行動が増えたり、「タダでやられるくらいなら、お金をもらえるほうがいい」と売春行為をしたりすることもある。加害者に裏切られたという思いだけでなく、加害者に懐いていた無邪気さや自分自身も快感を覚えたことに対して、自分のからだにも裏切られたように感じている。(以下略)」

 …さて、ここまで読んで読者の方はどう感じただろう?
 私はこの女児の内面と、これから起こりうる未来について全く知らなかった。心理学専攻でない私には、知らない話だし、もしかしたら心理学専攻の人でも、トラウマ専門でないと、このような機微に気づかないこともあるのだろうか。
 
 私はこの性的トラウマを知ってもらいたいのではない。それよりも、私のような無理解の人が引き起こす悲劇について、これは書かねば、と感じた。

 先に書いた通り「あんなに隙のある態度だから、義父とのあいだに間違いが起きたのでは」と(中略)支援よりも指導の対象と判断してしまうことへの恐ろしさがそこにある。
 いや、だって、仕方ないよね。トラウマを深く学んでいなければ、教育的指導として誰もが指導側に転じるだろう。だがそれは、児童の立場になれば、攻撃でしかない。
 
 関わる大人が、関わる教員が、無意識に指導するその言葉や行動は、その児童の心をさらにズタズタにする。指導という名の攻撃が市民権を得たら、その子の社会的転落は自明の理である。もしそうなれば、その子の未来はどうなるか。その子は、いったい、これから続く彼女の人生で、どこで心を救ってもらえるのだろう。
 
 そう考えると、本当にトラウマを持つ人との関わりは、周りの支援が欠かせない。同時にそれは、私たち一般人(と言っていいか分からないが、トラウマという言葉に深く反応しない者たち)にとって、大きなチャレンジでもある。私たちは誰もが誰かの他人であり、それはつまり、支援者の1人、ということだ。
 そこには、非常な忍耐と寛容と苦悩と疲労が伴い、人としての品性が強く求められる。

最後に聖書の言葉を紹介する。

新約聖書コリント人への手紙I 13:4〜8

 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。


今日も良い日曜日を!


by桜子



 

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オープンダイアローグと私⑨トラウマを持つ人との関わり

 私はごく普通の、渋谷在住ワーママだ。トラウマ、という言葉と無縁に生きている。

 そう思っていたのは半月前までで、「フィンランド式精神医療、オープンダイアローグ(開かれた対話)①」のセミナーで女医さんから、「トラウマインフォームド・ケア」の説明を教わってから、考えが少し変わった。私にも関係あるかも、と思った。
 
  野坂祐子著「トラウマインフォームドケア」(2019年12月25日発行)を取り寄せた。「トラウマとは、生命にかかわるような危機とそれがもたらす影響を指す」とあった。災害等の事件、家庭での虐待、ネグレクト、学校や職場の肉体的あるいは精神的暴力もトラウマになりえるそうだ。ああ、やっぱり私にはあんまり関係がないかも、と正直なところ感じた。

 だが、「生命にかかわるような危険」を、「自分の安心、安全を脅かすもの」と定義したらどうだろう?私自身にも、身近な存在として、トラウマが出てくる。そして、トラウマを抱えた人は、そこここにいるんじゃないか、という思いに至った。

 というのも、私は以前、チーム会議で発言する場になり、上司の論理に対して私自身の見解を伝えた所、彼から早口で責められたことがあった。長らく、恐怖でしかなかった彼のことを私はその日ふっと思い出した。あれは、もしかしたら、私の意見の是非よりも、彼からすれば、彼の安心と安全を脅かす行為そのものだったのでは、と。そんなことが、トラウマを聞いて、ふっと分かった。

 こんな話は、一緒に対話した参加者からも似た話が聞かれた。まるで作り話のような、パワハラ上司の実態ストーリーは耳を疑うばかりであった。そして参加者の人と二人で、元上司へ思いを馳せた。
・色々不安を抱えていたのかも ・慣れない環境になじもうと一生懸命だったのかも
・本当は孤独だったのかも   ・結果を出そうと必死になって部下からの非難を恐れていたのかも 等々。
2人でそんな話をしていると、心の中はなんだか暖かく、しんみりとする。
 
 他者を知ること、そして、その人の過去に寄り添い、配慮すること。この視点は新しい。実践は簡単ではなさそうだが、生きていく上での示唆に富んだアプローチだ。

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近年、さまざまな研究から、トラウマとなりうる体験は稀ではなく、多くの人にとって身近なものであることが明らかにされておいる。そして、暴力や対人トラブル、薬物やアルコールへの依存など、“問題行動”とみなされる言動の背景には、トラウマが影響している可能性があることもしられてきた。
 野坂祐子著「トラウマインフォームドケア」より

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#しばらくこのトラウマシリーズ続けます。

by桜子