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NHK夜7時のニュースを観なくなった件

テレビが好き、と昨日書いたが、日中のテレビを観ることが、本当に減った。
夜7時だけは唯一、娘と私の食卓用BGMにNHKをつけていた。が、最近つけるのをやめた。

「どうせ、暗いニュースだけだし、観てもしょうがない、やめよう」
と、子どもが言う。

確かに惰性でつけていた。本当にそうだね、と私も気づかされた。特に、コロナの感染が始まってから、トップニュースは一日の感染状況と政治家たちの話で、飲食店のインタビューも、届く話は暗い情報ばかり。加えて、東京オリンピックでさえも、空しい報道ばかりが重なって、聞けば聞くほど、矛盾をはらんだ開催は、沈みゆく日本の船の象徴のようである。私たち親子が、一日の終わりに聞くニュースとしては、かなり萎える。


「どうして、もっと明るいニュースがないの?」


子どもが投げかける言葉は、時として、本質を突く。


「ほんとだね、どうしてだろうね」


私は娘にそう応えるが、「それだと、世間が収まらないからだよ」と、心の中で言う。


こういうのは、なんていうのかな、とググってみたら、こんな言葉が見つかった。

「他人の不幸は、蜜の味」

「シャーデンフロイデ」(独: Schadenfreude 他人の不幸を喜ぶ感情)

※人類にとってシャーデンフロイデは、社会を守るために必要な感情だった。
 自分たちよりも不当に得をしてる人を許さない。引きずり下ろす、という行動に喜びを報酬として与えて、促進することが共同体の維持には必要(ロザン×中野信子「シャーデンフロイデは、社会を守るために必要な感情なんです」|特別”高学歴”鼎談|菅広文/中野信子 – 幻冬舎plus (gentosha.jp)


こんな社会に、神さま、Let there be light(光よ。あれ)!

いと悲し、3度目の緊急事態宣言発令

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(聖書・イザヤ書40章8節)

太陽がまぶしく、木々や花々が美しい新緑の季節になった。私たちの混乱など、どこ吹く風のように、自然は素晴らしく地球は廻り続けている。

緊急事態宣言の発令が、3度目になった。2回目はいつだったか忘れてしまったが(※)、初回の緊急事態宣言の衝撃には及ばない、と思っていた。あれこそ、今でしょ!と思うほど、今回の目玉は「飲食店での酒類一斉禁止」がめぼしいだけ、と思っていた。が、さにあらず。ジワリジワリと、発表外の施設も封鎖が続き、東京都の要請力の強さを見せつけている。
※202118日~321日が2回目

スーパー「ライフ」のチラシだけ自粛に便乗して①国民への通知②印刷代削減にみえる。私だけ?

「ダイソー(渋谷の新名所が上陸⁈ダイソー旗艦店スタンダードプロダクトがキタ)も休みなのね。。。」

と、昨日うちに来たピアノの先生が、レッスン中にもかかわらず、2回も娘に繰り返して呟いた。ダイソーは先生にとって大事な場所だったらしい。
 

 一方、私がショックを受けたのは、何の連絡もなかったGWの子ども旅行が中止、と昨夜遅くに連絡を受けたことだった。なぜ、もっと早くそれを教えてくれぬー?!荷造りしていた私はひどく落胆し、動物好きな娘もまた、同じようだった。

だがその夜、一日の感謝の祈りをするとき、娘自身が、

「神さまの、他の計画が待っていると思うのでよろしくお願いします」

と祈ったので、ドキンとした…!

口では「神さまのお導きだねー」と娘を慰めていたが、私にそういう発想はなかった。聞きながら、(そっかあ…)と娘の、若くして、すでに生活の中心に神様を置く態度に、私は目を留めた。私の方が信仰歴もはるかに長く、大人であるのに、まったく手本にならぬ。

いっそ、犬でも飼っちゃう??

と、寝床につく寸前まで、娘のGWをどう充実させるか躍起になっていた。友達に連絡し、グランピングも3か所調べた。が、どれも満席、受付停止、であった。ああ、私のとる行動は、どうしていつもこの世的だろう!


新型コロナウィルスが発生して1年余、私たちが学んだことは何だろう?

 私にとっては、神の存在が大きくなった一年だった。信頼していた各国のリーダーも、しょせんはただの人であることを、まざまざと知った。政治家も国も頼れない、という状況になって、自分の身は自分で守るしかない、と感じた。私の場合、これに、神様への祈りが大いに加わる。前述の通り、身の程は分かっているからだ。

 この世に神などいない、と言う人に、これまでたくさん出会ってきた。が、私はこんな言葉が聖書にあることを、知ってもらいたい。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」
マタイ6:33

 「これらのもの」とは、聖書の前文を読むと、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」という、生活上の種々の心配事(経済的必要、対人関係の悩み、健康上の不安、仕事の問題等)を指していることが分かる。つまり、神様を一番にもってくれば、これらのものは満たされる、と言っている。

 神を信じる、というと、清貧にならなくちゃ、とか、キリスト教に入信とか、生き方を改めなくてはならない負担が重くのしかかってくるイメージがあるが、聖書で言っていることは、実にシンプルだ。
 
 「俺は神」でなく、神こそ神、と「神がいて、生かされている私」に感謝して生きよ、と言っているだけなのだ。つまり、心の問題だけなのだ。

 不確かな時代の確かな歩みに、神なくしてわが人生なし、というのが、コロナで私が学んだことだ。伝わりにくいかもしれないが、「もし神様がいるとしたら、私が信じられるようにして」というところから、心を開いてみてほしい。
何を隠そう、私自身も、そのようなところから、神を信じる道への第一歩を始めた1人なのだから。

2020年コロナ禍クリスマス会_後編

今年はコロナが猛威を奮い、毎年恒例の子供クリスマス会はどうも閃かなかった。

即座に、あたりまえじゃん!と言う声がすっ飛んできそうだが、春の一斉休校時、少なくとも私の地域では、子供間だけはやむなし、という暗黙知があり、限られた仲間内で子供たちは遊んだ。

ふだんママ友グループに属していない私は、このような交流の場を作れなかったので、この自然な流れは驚きと共にうれしい悲鳴だった。親子共々、健康で過ごすことが出来て、どれだけ地域と神さまに感謝したか、分からない。

今となっては、連日、記録更新中の、東京都コロナ感染者数増を鑑みれば、クリスマス会なし、は当然の風潮だ。が、「渋谷区の子供は感染者いない」(数か月前の談話)と医師は言ってたし、小学校は常にやっている(=子供同士は接触している)ので、何かしてあげたかった。が、ヤル気が出なかった。

思い浮かんだのは、家族のクリスマス会だ。
今年で世界が終わる、と考えたら、家族のためにやろう、と思った。

が、やっぱりコロナの影響で、開催直前に、母親がブルドーザーのように参加者へキャンセルを促していき、その通りになった。ならば会は中止、と考えたら、親は来る、という。
けれどこれもまた、開始まであと2時間で、母親から「疲れた」の連絡があり、キャンセルが決まった。そして、基礎疾患のある父親だけが、あと30分で終了、という頃に、ボルシチを持ってわが家に来た。会の終了まで、あと30分である。

一方、この家族とは別に、詳細省くが、招く予定になかった母子が来ることになり、母親からは仕事だから、子供2人を行かせたい、という。2人はとても楽しみにしているのだ、と何度も連絡が来た。

私はふだん、パーティーの場合は子供に紙コップ、が常だが、この日はノリタケのボーンチャイナのカップ&ソーサーを用意し、一人前として扱った。この子たちが、神さまの用意された大事なゲストだ、と確信したからである。

実際、それはその通りだった。

というのも、急遽、彼らのために紙芝居でクリスマスの話をしたら、末っ子が大きな声で「クリスマスって、サンタの日じゃないの?!」と目を丸くしたから、私も目を丸くした。

違うんだよ。

イエスキリストが生まれたことや、聖書に書かれていることを伝えると、今度は姉が、熱心に耳を傾けている。それどころか、「ずっと聖書が読みたいと思っていた」と言う。またもや、私は目を丸くした。

この2人の来訪が、わが家を暖かく包む。それは静かで楽しい時間になってきた。

私は、中学生の姉に対し、なるべくわかりやすく伝えるよう、努めた。聖書の言葉がスラスラ、スラスラ、口から流れてくる。暗記していないが、こういう時は川の流れのように、みことばが浮かんでくるから、不思議である。

それに対して、彼女の反応が、一つ一つ、私には面白かった。

そうだ、神さまを知らないって、こんな感じ。そうだ、神さまを信じ始めるときって、こんな感じ。

今にも彼女は、私と一緒に信じます、と言い出しそうではあったが、ひとまず、初対面だったので、話はそこそこにした。

その代わり、というわけではないが、夜になって迎えに来た母親とは、祈ることが出来た。むろん、別室で、子供たちに気づかれないよう、2人で心を天に向けた。この祈れたことも、私は大変、驚いた。その予定はなかったからだ。
けれど、よくよく考えてみると、彼女と祈ったのは2度目だったかもしれない。初めて彼女に聖書の話をしたのは、たしか3年前だったか。なぜか、イエスキリストの話をしていたのを覚えている。

クリスマス会に、神さまを信じ始めたような人たちに会える、というのはどういうことだろう。

たぶん、とてつもなく、うれしい出来事だ。

そうして、わが家の小さなクリスマス会は、終わった。

終了後は、例年同様、色んな事が続いて、神さまを信じるのが嫌になるくらい、ぐったり疲れて落ち込んだ。
が、このことも、私には必要な落ち込みだったのかもしれない。(傲慢にならないため)

やっぱり、クリスマス会は毎年、大変。
それでも、毎年、いつもやってよかった、と思う。
そうして、来年は絶対に(苦労を胸に)やらないぞ、といつも心に誓うのに、なぜだか、やってしまうのが、私のクリスマス会である。