タグ別アーカイブ: コロナ禍

ウクライナ原発が砲撃されても北京パラリンピック♪の違和感

 日中、とんでもない速報が携帯画面に流れてきた。

ロシア軍が欧州最大規模のウクライナ原子力発電所を攻撃したと書かれていた。もう仕事している場合じゃないでしょ…と今日ちょっと思った。(いや、しましたけどね、仕事…。)

 カーリング女子銀メダルでスポーツビズおめでとうと喜んだ直後、戦争が始まった。

昨日でウクライナ軍事侵攻から1週間が経過した。

今朝は、今夜開幕する北京パラリンピックを前に、本当に“平和の祭典”を開催するのか?!と違和感を覚えていた。
けれど、パラリンピック委員会が参加可とした、ロシア等の団体を排除へ変更と聞いて、世の中捨てたもんじゃない、と少なからず心が動かされた。民意が世界を動かすこともあるのだ、と知った。

 昨年の東京オリンピックでは、私たち日本人はあれこれ反対したが、大規模な抗議運動はなく、世界的な判断が覆ることは何もなかった。コロナ禍で強行開催された。それが今度は、北京でコロナに加え、戦争があっても、お祭りをする私たち。いまこれを熱中して視聴している場合とは思えず、こんな矛盾をはらんだ歴史的なオリンピックがいま私たちの前に提示されようとしている。
 
 こんな夜は、旧約聖書の、伝道者の書がしっくりくる。


 エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
 空の空。
 伝道者は言う。空の空。すべては空。
 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。


 


 また明日。


by桜子

オミクロン株感染増でも、幸せでいよう

 私が以前観たニュースではオミクロン株のピークは今日という。1日あたりの感染者数は24000人予想とされていた。それが、今日の日経報道では19798人(17:07現在)とあった。この数字をどうみるか?
 
 専門家ではない私の考察など、どうでもいいのだが、言いたいことは1つ。
予想より感染者が少ないと知れば、気持ちは上向きに。昨日より増えたと聞けば気持ちはダウン。何を基準で物事をみるかで、心が左右される不思議について、今日は考えませんか?


 現在、情報の多くをインターネットが担っている。それでも高齢世帯はテレビが主流だ。報道、といえば夜7時のNHKニュースを信頼する家庭が根強くある。
 それで、眺めていると、ネットでも、テレビでも、コロナに関して言えば、日経平均株価と同じように前日比で報道されており、今は連日、「昨日より増えました」と記録更新され続けている。嫌なニュースを耳にして、気持ちは萎える。不安が煽られる。子どもが感染源と言われて、12歳以下の子どもがいるわが家はどうなるの?

 だが、前述の通り、数週間前の報道予測と比較すれば、今は最悪というわけでもない。子どもも、近所の子に感染したと思しき子がいない。だから、何を見て、どう生きるかは、すごく大事だな、と思う。

 そして、私たちの暮らしぶりに転じて考えてみても、結局のところ、マスクや消毒液が溢れて、生活できている。感染状況事態は悪いけど、最悪よりマシと前向きに捉えられる部分も多数ある。

 コロナは暗い影を落とし、心は曇りがちだ。でも、軸を変えると、幸せになれる。
影響され過ぎず、ビビりすぎずに、幸せになろう。

helen keller
New York Times Co.Getty Images

「世の中には辛いことがたくさんあるけど、それに打ち勝つことでも溢れているの」Although the world is full of suffering, it is also full of the overcoming of it. byヘレンケラー



オミクロン株感染増でも、幸せでいよう。


by桜子

 

 

 

NHK夜7時のニュースを観なくなった件

テレビが好き、と昨日書いたが、日中のテレビを観ることが、本当に減った。
夜7時だけは唯一、娘と私の食卓用BGMにNHKをつけていた。が、最近つけるのをやめた。

「どうせ、暗いニュースだけだし、観てもしょうがない、やめよう」
と、子どもが言う。

確かに惰性でつけていた。本当にそうだね、と私も気づかされた。特に、コロナの感染が始まってから、トップニュースは一日の感染状況と政治家たちの話で、飲食店のインタビューも、届く話は暗い情報ばかり。加えて、東京オリンピックでさえも、空しい報道ばかりが重なって、聞けば聞くほど、矛盾をはらんだ開催は、沈みゆく日本の船の象徴のようである。私たち親子が、一日の終わりに聞くニュースとしては、かなり萎える。


「どうして、もっと明るいニュースがないの?」


子どもが投げかける言葉は、時として、本質を突く。


「ほんとだね、どうしてだろうね」


私は娘にそう応えるが、「それだと、世間が収まらないからだよ」と、心の中で言う。


こういうのは、なんていうのかな、とググってみたら、こんな言葉が見つかった。

「他人の不幸は、蜜の味」

「シャーデンフロイデ」(独: Schadenfreude 他人の不幸を喜ぶ感情)

※人類にとってシャーデンフロイデは、社会を守るために必要な感情だった。
 自分たちよりも不当に得をしてる人を許さない。引きずり下ろす、という行動に喜びを報酬として与えて、促進することが共同体の維持には必要(ロザン×中野信子「シャーデンフロイデは、社会を守るために必要な感情なんです」|特別”高学歴”鼎談|菅広文/中野信子 – 幻冬舎plus (gentosha.jp)


こんな社会に、神さま、Let there be light(光よ。あれ)!

いと悲し、3度目の緊急事態宣言発令

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(聖書・イザヤ書40章8節)

太陽がまぶしく、木々や花々が美しい新緑の季節になった。私たちの混乱など、どこ吹く風のように、自然は素晴らしく地球は廻り続けている。

緊急事態宣言の発令が、3度目になった。2回目はいつだったか忘れてしまったが(※)、初回の緊急事態宣言の衝撃には及ばない、と思っていた。あれこそ、今でしょ!と思うほど、今回の目玉は「飲食店での酒類一斉禁止」がめぼしいだけ、と思っていた。が、さにあらず。ジワリジワリと、発表外の施設も封鎖が続き、東京都の要請力の強さを見せつけている。
※202118日~321日が2回目

スーパー「ライフ」のチラシだけ自粛に便乗して①国民への通知②印刷代削減にみえる。私だけ?

「ダイソー(渋谷の新名所が上陸⁈ダイソー旗艦店スタンダードプロダクトがキタ)も休みなのね。。。」

と、昨日うちに来たピアノの先生が、レッスン中にもかかわらず、2回も娘に繰り返して呟いた。ダイソーは先生にとって大事な場所だったらしい。
 

 一方、私がショックを受けたのは、何の連絡もなかったGWの子ども旅行が中止、と昨夜遅くに連絡を受けたことだった。なぜ、もっと早くそれを教えてくれぬー?!荷造りしていた私はひどく落胆し、動物好きな娘もまた、同じようだった。

だがその夜、一日の感謝の祈りをするとき、娘自身が、

「神さまの、他の計画が待っていると思うのでよろしくお願いします」

と祈ったので、ドキンとした…!

口では「神さまのお導きだねー」と娘を慰めていたが、私にそういう発想はなかった。聞きながら、(そっかあ…)と娘の、若くして、すでに生活の中心に神様を置く態度に、私は目を留めた。私の方が信仰歴もはるかに長く、大人であるのに、まったく手本にならぬ。

いっそ、犬でも飼っちゃう??

と、寝床につく寸前まで、娘のGWをどう充実させるか躍起になっていた。友達に連絡し、グランピングも3か所調べた。が、どれも満席、受付停止、であった。ああ、私のとる行動は、どうしていつもこの世的だろう!


新型コロナウィルスが発生して1年余、私たちが学んだことは何だろう?

 私にとっては、神の存在が大きくなった一年だった。信頼していた各国のリーダーも、しょせんはただの人であることを、まざまざと知った。政治家も国も頼れない、という状況になって、自分の身は自分で守るしかない、と感じた。私の場合、これに、神様への祈りが大いに加わる。前述の通り、身の程は分かっているからだ。

 この世に神などいない、と言う人に、これまでたくさん出会ってきた。が、私はこんな言葉が聖書にあることを、知ってもらいたい。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」
マタイ6:33

 「これらのもの」とは、聖書の前文を読むと、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」という、生活上の種々の心配事(経済的必要、対人関係の悩み、健康上の不安、仕事の問題等)を指していることが分かる。つまり、神様を一番にもってくれば、これらのものは満たされる、と言っている。

 神を信じる、というと、清貧にならなくちゃ、とか、キリスト教に入信とか、生き方を改めなくてはならない負担が重くのしかかってくるイメージがあるが、聖書で言っていることは、実にシンプルだ。
 
 「俺は神」でなく、神こそ神、と「神がいて、生かされている私」に感謝して生きよ、と言っているだけなのだ。つまり、心の問題だけなのだ。

 不確かな時代の確かな歩みに、神なくしてわが人生なし、というのが、コロナで私が学んだことだ。伝わりにくいかもしれないが、「もし神様がいるとしたら、私が信じられるようにして」というところから、心を開いてみてほしい。
何を隠そう、私自身も、そのようなところから、神を信じる道への第一歩を始めた1人なのだから。

2020年コロナ禍クリスマス会_後編

今年はコロナが猛威を奮い、毎年恒例の子供クリスマス会はどうも閃かなかった。

即座に、あたりまえじゃん!と言う声がすっ飛んできそうだが、春の一斉休校時、少なくとも私の地域では、子供間だけはやむなし、という暗黙知があり、限られた仲間内で子供たちは遊んだ。

ふだんママ友グループに属していない私は、このような交流の場を作れなかったので、この自然な流れは驚きと共にうれしい悲鳴だった。親子共々、健康で過ごすことが出来て、どれだけ地域と神さまに感謝したか、分からない。

今となっては、連日、記録更新中の、東京都コロナ感染者数増を鑑みれば、クリスマス会なし、は当然の風潮だ。が、「渋谷区の子供は感染者いない」(数か月前の談話)と医師は言ってたし、小学校は常にやっている(=子供同士は接触している)ので、何かしてあげたかった。が、ヤル気が出なかった。

思い浮かんだのは、家族のクリスマス会だ。
今年で世界が終わる、と考えたら、家族のためにやろう、と思った。

が、やっぱりコロナの影響で、開催直前に、母親がブルドーザーのように参加者へキャンセルを促していき、その通りになった。ならば会は中止、と考えたら、親は来る、という。
けれどこれもまた、開始まであと2時間で、母親から「疲れた」の連絡があり、キャンセルが決まった。そして、基礎疾患のある父親だけが、あと30分で終了、という頃に、ボルシチを持ってわが家に来た。会の終了まで、あと30分である。

一方、この家族とは別に、詳細省くが、招く予定になかった母子が来ることになり、母親からは仕事だから、子供2人を行かせたい、という。2人はとても楽しみにしているのだ、と何度も連絡が来た。

私はふだん、パーティーの場合は子供に紙コップ、が常だが、この日はノリタケのボーンチャイナのカップ&ソーサーを用意し、一人前として扱った。この子たちが、神さまの用意された大事なゲストだ、と確信したからである。

実際、それはその通りだった。

というのも、急遽、彼らのために紙芝居でクリスマスの話をしたら、末っ子が大きな声で「クリスマスって、サンタの日じゃないの?!」と目を丸くしたから、私も目を丸くした。

違うんだよ。

イエスキリストが生まれたことや、聖書に書かれていることを伝えると、今度は姉が、熱心に耳を傾けている。それどころか、「ずっと聖書が読みたいと思っていた」と言う。またもや、私は目を丸くした。

この2人の来訪が、わが家を暖かく包む。それは静かで楽しい時間になってきた。

私は、中学生の姉に対し、なるべくわかりやすく伝えるよう、努めた。聖書の言葉がスラスラ、スラスラ、口から流れてくる。暗記していないが、こういう時は川の流れのように、みことばが浮かんでくるから、不思議である。

それに対して、彼女の反応が、一つ一つ、私には面白かった。

そうだ、神さまを知らないって、こんな感じ。そうだ、神さまを信じ始めるときって、こんな感じ。

今にも彼女は、私と一緒に信じます、と言い出しそうではあったが、ひとまず、初対面だったので、話はそこそこにした。

その代わり、というわけではないが、夜になって迎えに来た母親とは、祈ることが出来た。むろん、別室で、子供たちに気づかれないよう、2人で心を天に向けた。この祈れたことも、私は大変、驚いた。その予定はなかったからだ。
けれど、よくよく考えてみると、彼女と祈ったのは2度目だったかもしれない。初めて彼女に聖書の話をしたのは、たしか3年前だったか。なぜか、イエスキリストの話をしていたのを覚えている。

クリスマス会に、神さまを信じ始めたような人たちに会える、というのはどういうことだろう。

たぶん、とてつもなく、うれしい出来事だ。

そうして、わが家の小さなクリスマス会は、終わった。

終了後は、例年同様、色んな事が続いて、神さまを信じるのが嫌になるくらい、ぐったり疲れて落ち込んだ。
が、このことも、私には必要な落ち込みだったのかもしれない。(傲慢にならないため)

やっぱり、クリスマス会は毎年、大変。
それでも、毎年、いつもやってよかった、と思う。
そうして、来年は絶対に(苦労を胸に)やらないぞ、といつも心に誓うのに、なぜだか、やってしまうのが、私のクリスマス会である。