クリスチャン新年会

1月2日の日曜、新年早々の礼拝後に、主にある家族6組が、わが家近くの一軒家に集まった。

group of people making toast
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主にある家族、というのは、天の神を父と考えた時、私たちはみな、誰もが兄弟または姉妹(※)という考えによる。米映画でよく耳にする、Brother(ブラザー)とSister(シスター)は、要するにクリスチャンからきている。

 新年二日目から、親戚の少ないわが家が、血のつながりはないにせよ、家族と呼べる人達と集まれたことは神の恵みそのものであった。私は、娘が産まれた当時、親戚のいないわが子はなんと不憫だろうと長年、重荷を背負っていた。が、この日示して頂いたことは、神様をお父さんにしたら、彼女に親戚は無限に与えられているという事実だった。

 そうして集まった私たちの目的は、実は新年会ではなかった。
きっかけは昨年、互いの子供たちが学校で様々な困難に合っていた危機感から、聖書を知る子供たちが互いの体験を仲間と語り合って、成長していく心の場を作ろうということから、祈って集まった会であった。

「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」
伝道者の書4:12

 子供たちは、地元や学校に、聖書について語り合う人が親以外いない。コロナ禍で、子供が一番、他人との関係が希薄になる。大人が、自由に外へ出て、携帯やSNSで人と繋がれるのに対し、こと小学生以下にそれらがない。幸い、私たちは、同じ年齢の子どもを持つ親たちで、それがないとマズい、と気づいたので、率先してクリスチャンの子供たちの交流の場を定期的に持とう、と相成ったのだ。

 再会した子供たちは、親の心などつゆ知らず、呑気に、2年前と変わらず会うとすぐ、外で遊び始めた。が、その身体つきは、ティーンエイジャーの入り口で、男の子は凛々しく、女の子は可愛らしくなっており、成長ぶりには目を見張るものがあった。この子たちと関われるのは、あと何年だろうか。
 
 そうして、ひとしきり遊んでお昼をすませると、子供たちにクワイエットタイム(静かな時間)と称し、円陣になってもらった。そして、友だちの旦那さんが、英語と日本語で司会をし始めた。(※英語を母国語とするお友だちが数人いたため)
 

「今まで、いじめにあったことのある人?」

 この日のテーマは、いじめ、であり、30分余りの時間を使った。いじめについて、どう思い、どう感じて、どう対処するかというシェアの時間を持った。だが、この内容は割愛する。
 ただ、後ろで静かに見ていた主人に言わせると、いじめがテーマの話題は進行が難しく、「大人の自己満足になりがち」と辛口の評価が下ってしまった。
 言われてみれば、その通りであったが、娘に言わせると「ちょっと退屈したけどまあまあ」とぎりぎり合格点をもらったか。
 とかく、大人が司会者になると、一定の方向へ導きたくなるが、いじめは正しい対処法があるとは限らないので、次回からはもっと子どもに好き勝手にしゃべってもらって、大人も一緒に悩みたい。
 

 だが、なんにせよ、教会の仲間と気持ちを分かち合ったこと自体は、良かったと思う。ある精神科医が、「話すことが、子供を強くする」と、言っていて、以来、私は子どもを信頼おける人と関われるように配慮するようになった。ぜひ、この集まった子供たちにも、互いに語り合ってもらって、強くなってもらいたいものである。


 困難な時代にあって起こる一つ一つのことが、私たちに色んな気づきを与えている。
生きづらい世の中にあって、子供たちが、希望を失うことなく、強くたくましく、生きていってほしい。
 私たち大人は、そんな次世代をこれからも応援し続け、忍耐をもって関与し、祈り続けていきたい。

by桜子

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