神はすべてを事前に、計画している。
私たちはあれこれ悩み、未来を考える。が、神は、人の考えるそれよりずっと遥か前に、あらかじめ全てを究極的に支配し、結果を決めているという。聖書にそんな文章はないけれど、聖書全体を読めば、その事実がよく分かる。
そう聞いて、私はこう思った。
なーんだ、それなら、あれこれ考えても意味ないじゃん。
神は、人間を“神の似姿に創った”(創世記1:26)が、すべてを支配する神が一つだけ支配権を行使しないと人間に創った場所がある。それが、人の心。
なぜそんな厄介なことをしたのか、それが神の愛なのか、凡人には全く理解できないが、これこそ神の不思議があり、私たち人間の、神を信じる、信じない問題がある。その判断と決意は、すべての人に任せられている。
私は何年も前から、「信じ」ている。
だけど、信じても山あり、山あり、山ありで、苦しいことばっかりあるなあ、辛いなあ、こんなに辛いなら、早く天国に行きたいなあと、絶望ばかりだった。(※独身時代)
だけどここ数年分かったことは、信じているからOK、ではなくて、「1000%疑わずに朝から晩まで一点の曇りなく絶えず信じ続け、理不尽なことがあっても神にいつもYES!と言い続けられる状態」こそ、神が私たちに問いかける、本当の「信じる」の意味であった。
そんな奥深いものと知らずに、信じる道へ進んだ私は、なかなか波乱万丈だった。が、今思うと、私のその時の態度は、信じきっていなかったんだろなあと思い至る所があり、それで私は試練が多かったのかなとも思う。
もし私がいつもYESと言い続けていたら、もっと早く主人に出会えていただろうか。今となっては、検証するすべもないが。
そういうわけで、いまだに山はたくさんあるが、慰め(喜び)も沢山もらっていて、今はいつもぶっ倒れる、ギリギリの所を神に絶えず通らされて、あなたは私を信じますか?と、問われているように思う。
主の山に備えありーー神はすべてを事前に、計画している。
先日うちに来た、A男のお泊りも、まさにそれだった。
私は、男子をうちに積極的に泊めさせていないが、そうするように自然と導かれて、私はA男をわが家に招き入れた。結果として、彼が来たことは神が計画したものだった、ということを味わう結果となった。
詳細をかけないのが残念だが、私は感動し、神の計画に乗る、というのは、なんと自分に無理がなくて、気持ちのよいものだろうと思った。そして、自分で頑張ることや、○○はしない、と決めるのはさほど重要でないな、と知った。
若い頃、何度聞いても分からなかった、信仰を持ったら、「頑張らなくていい」というセリフは、意味がまるで分からなかった。たが、「頑張らなくていい」というのは、こういうことなのかな、とちょっと分かった境地にいる、今夜の私だ。
by桜子