コロナ禍のお引越し

私の両親が、引っ越した。
コロナ禍の昨今、郊外へ出る人が増えたというが、うちは逆だ。年老いた夫婦が、都心に戻ってきた。

新居の窓からは美しい富士山が見えた。終の棲家がもしこの家なら、悪くない。いや、かなり素晴らしい!

私の両親は、長年住み慣れた地を5年前に離れたが、今回、戻ってきた。
それも意識してそうなったわけではなく、偶然そうなったから、親の喜びはひとしおだった。
娘の私からすると、今までの両親の苦しみを、これからは幸せにして倍にして返してもらう手始めに映る。
もっとも、当人たちはどう思っていて、今後どうなるかは誰も分からないけれど、
とにかく親は、誰の目にも見て分かりやすい“幸運”を、上から一方的に与えられた。



そして、その幸せは今後、私に波及するのだろうか?
いや、すでに及んでいるんだろうか?
遠い存在の両親が、住まいが近くなったことで、身近に感じられるようになった。

これまでも親の所に行くことはあったが、その回数は多くなく、
諸般の事情により長い滞在が出来なかった。(むろん、泊まることもない)

それが今回、新居の手伝い(家財道具揃え、買い物、配送、収納、配置、棚の組み立て)で、連日親元に行くようになると、その滞在時間は数時間に及び、私は実家が別荘のように感じるほど、快適に過ごせるようになって、これからは定期的にここに来そうだ、と感じていた。

その最大のメリットは、子供の豊かな家庭体験、である。夫婦二人の生活なら実家不在でいいのだが、育ちゆく子供に関わる家族は多い方がいい。無意識に子供と対話する親の様子を見ても、私は子育ての重圧が薄らいでいく。子どもにとっても、3人のテーブルより、6人のテーブルの方が嬉しい。

だが一方、親と会う回数が増えたことで、知りたくなかった現実にも直面することとなった。
それは、両親の老い、である。

夕食の支度時に実家を訪れると、野菜を切る母の手が震えていて、私はショックを受けた。
「神経性の炎症」と聞いてはいたが、これほど悪いと知らず、もはや3度の食事を母一人にやらせるのは、ひどく酷だと感じた。だが、長年の習慣とは恐ろしいもので、一緒に居過ぎるがゆえに、家族は誰も母の肉体的変化に気づいていないようだった。
昭和の台所のまま年月が流れている実家の食卓では、母が食事の支度をするのは当たり前になっており、負担を減らす必要性も分かっていないことが、私には大きな衝撃だった。もちろん、家族はそれなりに家事をやっているのだが、それでも、手が震えている母のハンディキャップは、もっと手助けがあっていいと思うほど、見ていて忍びなかった。


その夜、私は配食サービスをたくさん検索した。母の家事負担を減らしたい一心だった。
だが、いざ頼もうとすると、おそらく文句を言って食べないであろう父や、弟の食事の問題など、難題にぶち当たった。母は、変化を受け入れる柔軟さがある。だが、肝心の父や弟が変化を嫌う人種で、そこが厄介だった。

結局、すぐ新サービス導入を提案することは難しいと判断した私は、翌日、料理を持っていった。5品ほど調理し、さらに渋谷のデパ地下コロッケもセットにして、親の住む駅まで配達を提案すると、母は素直に喜んで受け取ってくれた。



かようにして、親が近くに引っ越してきた。

私にとって親のことや、実家について考えることが前よりちょっと増えた。

たぶん、これから親を含めた家族時間は増えるだろう。


「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」(箴言17:1) 


上記は、聖書の有名な言葉で、我流の略は、「貧しくとも、平和である家がいい」と言う意味だ。
私はこれを、いいね!というほど、信仰心が厚くはなく、親の実家にはどうか、「一切れのかわいたケーキ」ぐらいが家にあって、平和であればいいな、と願っている。