妊娠して、私の世界は変わった。
結婚した以上に、私を取り巻く世界は大きく広がった。
少なくとも、子の存在は、私の視野を嫌が応でも広げた。
街を歩けば、いままで視界に入らなかった妊婦に目が釘付けになる。
赤ちゃん連れをみれば、心が奪われる。
小学生の子供が走れば、何年後かのわが子の姿なのだろうかと
ぼーっと見つめてしまう。
そういうことは、まったく想像してこなかったので、
本当に実感が湧かない。
けれども、私の想像力とは裏腹に、現実として
今日もお腹の胎児は私のお腹を元気にキックする。
ここに確かにいる人の存在を、私は受け止めなくてはならない。
* * *
先日、子供を持つということを改めて考えてみた。
聖書に、
〝見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。(詩篇127:3)〝
と言う言葉がある。
しかし、自身を振り返ってみれば、今までの人生、
親に苦労や心配をかけて、本当に迷惑のかけっぱなしだった。
この家に私がいなければ、桜子家は幸せだろうな~と何度も思い、
わが身を呪ったこともある。
してみると、子の存在は、問題の種であり、癌のようなもの。
私は、今までの人生の罪を刈り取るために、
子を産んで、親が経験した苦しみを自らも味わおうとしているのだろうか?
どよーんとクラくなって、夫にその話をしたら、
夫は、結婚もそうじゃない、と軽く答えた。
「夫の存在は、心配の種で、新しい悩み事になったでしょう?
だけど、それを補って余りある素晴らしさがあるから、結婚したんでしょう?
子供もきっとそうだよ」
みたいなことを、私に言った。
加えて、
「人が成長しつづけるために、変化は必要で、
変化していくから、人生は豊かになっていく。」
というようなことを、言った。
私は、ふむー、と俯きがちに返事した。
いろいろ考えながら、新しい命を迎える準備をしている
田中家である。