カテゴリー別アーカイブ: 身の周りのニュース

Facebookとmixiがもたらす憂鬱

米国発のソーシャルネットワーキングサービスFacebookに入っている。
平たく言うと英語版mixiみたいなもので、私はこれが結構気に入っている。

当然ながら米国関係者が多いためにmixiにない人脈が形成できること、
英語を使うからちょっとした頭の体操になること、そして、twitterほか
様々なアプリケーションと連動しているのでITリテラシーを少し培う(気がする)
ことが好きな理由だ。

が、先般の日本語化対応以来、あまり好きじゃなくなった。
Facebookに登録する日本人も増えたようで、自然とアクセスの機会が増え、
mixiのマイミクの、さらにFacebookでもマイミクであるAさんの、
今度はFacebookでの「友達の友達」、を眺めてみる。
そうしてじーっと閲覧していたら、私の両肩に重たいものがぴたりと貼りついた。

暗くて、どす黒い、重たいもの。

(・・・疲れた)

思いがけない感情に襲われ、画面を見ることが急に嫌になってブラウザを閉じる。

友達の友達とつながるとか、つながっている人数の多さとか、
誰もそんなことを謳ってはいないが、耳元で何かがこだまして、
私は何もかもが急に嫌になってしまった。この業界で、いったいどこまでやっていくのだろう?

そんなオーバーなこと言わなくても、自分は技術者でもなければ、
別段何が求められているというわけでもないのだが、この世界にいて、
こうして感性を磨く「努力」をしていると、何かがおかしくなっていく感覚に襲われる。
そう感じるのは私だけだろうか。

自宅に帰ってその日気持ちを整理していたら、友人にこう言われた。

「大事なのは、つながることでも、友達の数の多さでもないよ。
 困っているとき、助けてくれる人が本当にいるかどうか、よね。」

胸のつかえがすっと降りていった。

いいことを言う。そうそう、そうだった。

何もかも可視化されているネットワークだけが人間関係ではないし、
たとえ誰ともつながっていなくても、私たちは誰かを気にかけ、思い出したりして、
思いやったり、祈ったり、愛しあったりしている。

ネットばかり触っていると見失いそうになる、Facebookでは比べ物にならない世界。
まさに、「目に見えるものではなく、目に見えないものにこそ、目をとめよ」
である。

ブロガー桜子の終わりの日

私、昔からずーっと思っていることがあるんですけど。
ずーっとあったらいいなと思っているビジネスがあるんですけど。

いまはそんなに需要なくても、たぶん30年後、40年後には
絶対ニーズが出てくる、そんなビジネスです。

それは、
ちょっと言うのもったいないかもしれないけど・・・
でも言っちゃいます。

それは、「ブロガーのお葬式ビジネス」です。

私みたいに、一人でこのブログメンテナンスをしていると、たまに思います。
明日、私が死んだらこれ(ブログ)ってどうなるのかな、と。

例えば、不慮の事故で即死したとしましょう。
みんなそのことを知らずに最新の投稿そのままに、
何日も何年も過ぎていくわけです。

「みなさん、今までお世話になりました」とか
「桜子はおかげさまで良い人生を過ごしました」とか、
誰も誰も書いてくれないわけです。

ま、それでいいじゃん、と言う答えもあるけれど、
ブロガー桜子としては、やっぱりここで、
「桜子は昇天しました」
とキッチリ書いてサヨナラしたいわけですよ。

誰か、どうですか?
こういうサービス始めませんか?

ブロガーが半年更新しなかったらリマインドメールを送ってくれて、
それで返信がまったくなかったら、事前に預かっていた遺書メッセージを
代行でアップするの。(もちろん料金前払い)

ブロガーのためのお葬式ビジネス。
またの名を、ブロガー保険、ともいいます。

ローヤルゼリーの効果

身体に良いと噂のロイヤルゼリーとは、ローヤルゼリーとも言うらしい。

詳しくは「ペルシャ絨毯とJasmineの空飛ぶじゅうたん生活(←clickできます)を読んでみてあげてください。

ロイヤルゼリーの特別販売ココで、某有名デパートでは多分値引きしていないと思いますから、これは欲しい方には大変お徳になっています。ストレス性の自律神経失調症にも効果があるそうです。

ここが変だよ、日本の郵便局

先日、郵便局を2軒はしごした。その両方で「?」という体験をしたので書いてみる。

ある午後、戸籍謄本を大至急取り寄せなくては、という事情に巻き込まれた。
私はそれまでの作業をすべてほって、脱兎の如く、郵便局に駆け込んだ。
時、既に16時前。ミッションは「350円の為替を購入して役所へ速達で投函する」である。

郵便局に入るや否や、必要書類に記入していると、突如ガラガラガラとシャッター音がした。
窓口が終了したのである。その瞬間、記入より先に為替を購入しなくてはならなかったことに気がつく。
大慌て。しかし、気づいたときは後の祭りで、窓口の職員に”買わせてくれ”という視線をおくるも、無視される。(※交渉してもダメと顔に書いてあった)

「どうしたら手に入るでしょう?」と聞くと中央郵便局に行くしかないという。
仕方ないので、またもや脱兎の如く局を飛び出し、タクシーに乗る。

東京駅の歴史ある中央郵便局は古くて荘厳な雰囲気である。
中に入ったら、窓口がずらりと細長く並んでいて、局員の数に圧倒される。
待っている人はまばらだったが、待合番号札を念のためにとる。

すると突然女性が血相を変えて飛んできて、私の番号札をひったくった。
誇張でもなんでもなくて、本当にひったくられたという表現が正しいのである。
私は目から星が出た。

「XCOIFfgvぉvgろえp×y○、すみませんでした!!」

は?

彼女を見ると制服なので、郵便局員であることを知ってまた驚く。
何を仰っているのか分からないが、反芻して聞きなおすと、
「番号札をお客様自らに直接とらせてあいすみません」という。

察するに、番号札をとるのが彼女の仕事だったのだろう。
なにもひったくってやり直すことはないと思うのだが、容貌が若い。
おそらく新入社員だろう。気持ちはわかるがなんとも対処の悪いお詫びである。

・・・にしても、丁寧すぎる。そんなことまでやってくれるの?と思う半面、
そんなに親切にしてくれるなら、さっき親切にしてもらいたかったと内心思う。

まあいいや、ともかく待望の為替購入だ。
ここに来るのにタクシーまで使ってきたんだ。
350円ほしいのですが、と言ったら、650円です、と言われた。
えっ、なんで?

局員 「手数料が100円かかるんです。」

私   ははあ、なるほど。でもそしたら、450円・・・?

局員 「100円単位50円単位に、それぞれ100円の手数料がかかるんです」

私   なるほど。だったら400円分購入した方が賢いのかな?
     500円になるんですよね?

局員  「失礼ですが、使用用途は?」

私   350円分買って区役所に送るんです。

局員  「役所はお釣りを嫌いますから、受け取らないと思います。正しい分を
     購入した方が」

なにかおかしい、と思いながらも650円払う。なんか、おかしいよね?
150円を郵便局に寄付したような気持ち。

というわけで、変だよ、日本の郵便局。海外は良く知らないけども。

オフィスが移転しました

虎ノ門1番出口から徒歩5分。

新オフィスは興和新橋ビルの2階。大きな窓から緑が見られて清々しいです。
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ちなみに、今朝、職場を間違えて、お隣のキッコーマンさんの2階に入ってしまいました。ラジオ体操が流れてきたので、経営方針が変わったのかと思い、「わが社の居室はどこでしょうね??」といったら、「???」となり、間違いに初めて気がついた次第。いやー、おかしいと思った。

人生は自分で選んだ道?

たとえば、「私の人生こんなはずじゃなかった」とか
「あのとき右でなく左を選んでいたら」などといって、
ふと振り返るクセ、あなたにはないだろうか。

後悔はしていない。
でも、決着ついた過去に戻って、あの選択はあっていたのか考える。
意味のないことをついしてしまう、そういうこと。

学生の頃、自己実現を目指していた私は、あるときから、
「自分ではなく神様のために生きていく人生」という生き方を、
好むと好まざるとにかかわらず、選ばされた。
強制された物言いをするのは、不本意だったからである。

私は物心ついたときから、神様の存在について考える土壌にいた。

幼い頃は素直に信じていたが、思春期になるにつれて、
毎日曜日に日曜学校へ行かなくてはならないことや、
あれしちゃいけない、これしちゃいけないが難しすぎて
(誰かのことを羨むのも殺人も同じ罪なので、しょっちゅう謝ってばかりで罪の意識に苛まれて苦しかった)

そして、神様なんて目に見えないものは信じられないとか
日曜日に教会へ行くより遊びたい等という負の要素をあるとき突き抜けて
神様を信じるようになってしまった。
これは、信じようと決断したのではなく、知ってしまったという感覚に近い。
だから逃げ道がない。

かくして、信じるようになってしばらくしてから、
「信じる人生は自己犠牲」という、信仰の本質を知ることとなる。
この瞬間は相当なショックを受けた。嫌だったからである。

でも、戻れなかった。
信じることは、自分の損得や計算ではなかった。
結局色々なことがあって10数年が過ぎ、
今もまだおぼろげながら信仰を保っている。

そんな私にある晩、こんなことを言った人がいた。

「 どうして「○○が辛い」とか言うのかわからない。好きなことやってて、
 自分が選んだ人生だよね?嫌なら辞めればいい。人生は自己責任だよ」

 私は先に述べたとおり、信仰を持って以来、自分で選んだ人生じゃない、
と思っていた。だから、この言葉には大いに戸惑った。

「え?だって、自分で選んだ人生じゃないもん」

がしかし。自分で選んだ人生じゃないっていったいどういうことだろう。