日曜礼拝と娘

今日の礼拝のメッセージは、久しぶりに私の胸を打った。

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言い訳になるが、ふだんは子連れで福音メッセージを聞くので、集中して話が聞けず、全容を掴みがたい。

だけど、今日は、私が弱くなってるせいか、或いは娘がお友達と仲良く遊んでいたせいか、話が耳に入ってきた。

お昼時。
鉄柱にぶらさがってケタケタ笑う娘を見て傍にいたクリスチャンの女性が言った。

「べべちゃん(の存在)から、慰められるでしょ?」
そうして、彼女は私に冊子をくれた。
その冊子は、彼女の涙跡付きで(読んで涙がついた)申し訳ないと言われたが、先週の私の様子からくださったようで嬉しかった。

「辛いとき哀しいとき、
必要な慰め手は必ず与えられる」
と、以前クリスチャン友達のキヨちゃんは言っていた。

きっと、これがそれなんだろうな、
と思った。

夜。
食事前、主人が祈ろうとしたら、娘がストップの仕草をして叫んだ。
「べべが、祈るの!!」

いいよ、と主人が言ったら、
きつく目を閉じ、眉間にシワを寄せて、両手を合わせて喋りはじめた。

「イエスさま・・・
さっちゃんのこと、守ってください。
キヨちゃんのこと、守ってくらはい。
ママのこと、守ってくらはい。
パパのお仕事、ゴニョゴニョ・
・・してくらはい。
ママのこと、宜しくお願いします。
パパのこと、宜しくお願いします。
キヨちゃんのこと、宜しくお願いします。
さっちゃんのこと、宜しくお願いします。
さっちゃんが無事におうちに帰れますように。
ゴニョゴニョ・・・
イエスさまのゴニョゴニョ、アーメン」

滑舌良く長く喋る祈りに、終わった途端、夫と目を合わせて瞬きをした。

夫は怖いなあと顔を歪め(たように見えた)、
「二歳児が言うことかなあ?
宜しくお願いしますとか、言う?
日本語としても正しいよ!?」
と言って、録画しておけばよかった、
と悔やんだ。

だが、祈りは撮るものじゃない。
だけど、撮っておきたい気持ちは私も同じ。

娘の祈りを見て、これから彼女がたくさん私のことを支え、祈ってくれるだろうと思うと涙がじんわり込み上げてくる思いだった。

世話しているつもりが、いつの間にか祈りを通して世話されるのだろうと思うと、娘を強く抱きしめたくなった。

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