先週日曜日に、0がある問題を起こした。
夫にそれを話したら、
「え、それ、ホントウ!???」と目をしばたたき、
「どうしてきみの周りってそういう(普通ではありえない)ことが起こるの!?」
とたいそう驚かれた。
こういう話こそ赤裸々にブログに書きたいものであるが、
0の話なので控えることとする。
ただ、私はそれを知り、0を抱える両親をみていて、ひどく切なく、
重い気持ちになった。
端的に言うと、親はもう老年でゆったり暮らせばいいのに、
まだ子の問題で悩まされている、という事実だ。
嫁いだ私のことも、もし私が悩んでいる、と言えば、
我が問題として苦しむのと同様に、
0のこともまた、自分のこととして苦しんでいる。
いったい、いつになったら親はその責務を免れるのだろう。
死ぬまできっと、いや死んでも、ないのではないか。
子を産んだ以上、親は一生、親なのだ。
べべを産んだ私・・・。
親になって良かったのか?
聖書にこんなことが書いてあるのに・・・!
ヨブ14:1
「女から生まれた人間は、日が短く、心が乱されることでいっぱいです。」
しかし、たとえ人間の一生が苦悩でいっぱいだったとしても、
どうしてべべが来るチャンスを逃せただろうか?
べべはいま、私に、そして、私たち夫婦に、
たくさんの喜びを与えてくれ、彼女が来て、
私たちは今まで知らなかったことをたくさん教えてもらった。
彼女は神様から授かった、大切な存在である。
---神様から、与えられた。
ということは、親になった責務もまた、与えられた。
ああ、だからまた、
子を背負っていくことは当然なんだろう。
神様が私たちを背負うように、
私たち夫婦はべべを背負って生きるのだ。
神様の背中の上で。