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言いたくない、家族のこと。私の「どうすればよかったか?」(4)

介護の話、続きです。


私の燃える怒り

時は前後するが、私は父との意見の相違に際し、
次第に、よく怒るようになった。

実家へ行くたび、感情が激しく揺さぶられた。

父の漕ぐ船で、船員が溺れ始めている。
私が助けなくては!
そんな心の葛藤は、これまで述べてきた通りだ。

私は、怒りが何も生み出さないことを知っている。
だが、怒らないーーこれだけのことが、出来ずにいた。


「これから実家へ行きます。どうか怒りませんように」

どんなに努力しても、祈っても、9割方、怒っていた。



「お前はこんなに怒る性格だったっけ?」

父が他人事のように呆れて私を見た。
が、私もまた、そんな父の鈍感さに呆れて父を見た。


さて、この怒りについてーー聖書は何と書いているだろうか?

御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制…
(ガラテヤ5:22)


神を信じると、イエスキリストの御霊が、私たちに宿るようになる。
つまり、いつも(御霊に)満たされていると、「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」がある…。


私は、まったく逆で、満たされていなかった。

話しは飛ぶが、私はそれ以外の場でも、感情を乱すことが日常で多くあった。
仕事、家庭、育児…。
私は自分の家はとてもうまくいっている、と信じていた。
だが、夫や娘は私に不満があり、我慢しているような様子が多々見られた。
この時と並行して、どうやら私の存在が、夫や娘を困らせている、と気がついた。


それは、あたかも、実家の父の姿と私が重なるかのようだった。

”本人は気がつかないけど、家族が困らされている”ーーそんな構図が、私の家にある!


これに気づいた時、大変なショックであった。



私はどうして、こんなに怒るのか?

もし自分が裸の王様であるとしたら、それは大変なことだ。
なんとか、しなければならない。


教会で偶然、牧師とすれ違った。
去年の夏だ。

私は彼と話したことが、殆どなかった。
だが、思い切って声をかけるなら、今だ!と思った。

「すみません、聖書的カウンセリングというのを知って、私、受けてみたいんですけど」


それは、聖書を土台にカウンセリングするプログラムで、私はそれを、受けてみたいと考えた。
奇しくも、友人がカウンセラーをしていた。
だから、私は誰かが、私と相手してくれたらいいな、と考えていた。


だが、間髪入れず返ってきた答えは、とんでもないものだった。

「いいですよ。私がやりましょう。」


あっさり言う牧師に、私は目を丸くした。




by桜子