GWも終盤に迫ってきた。
わが家は緊急事態宣言の発令を受け、空白の連休が広がっていたが、しっかりと神様に「楽しく充実した日々になりますように」とだけは祈った。おかげで今朝は「なかなか良いGW」と、娘からお言葉を頂戴した。
日曜、友達が車でうちに来てくれ、思いがけないハレの日になった。
「私一人でごめんね、家族のだんらんに申し訳ない」
と言われたが、なんのなんの、海外に行ったか、と思うくらい楽しかった。大げさでなく、それぐらい他との会話に飢えていたし、年齢も7つ下の独身とくれば、住んでる世界も違って刺激を受けた。「会話はごちそうだね!」と、私は大喜びした。考えてみればコロナ禍で子どもの友だちは沢山くるが、私の友だちを呼べることはめったにない。
友と知己とは、幸運に到達するための確かな旅行免状である。
byショウペンハウエル(ドイツ人哲学者)
さて、そんな風にして交流を喜ぶ一方で、孤独に強くなりたい、と私は思うようになった。
自分がパーティーピープル(=大勢の人とお喋りを楽しむ性格)だと気づいたのは、友だちに言われたからだが、その原因を探ると、幼少期にたどりついた。祖父母に来客が多く、夜はいつも鰻かお寿司を注文して大勢で過ごす週末に慣れていた。
が、この一年余コロナにより、人と人はそんなに接近しなくても生きていける、ということを知った。そして、来客がないと楽だ、ということも知った。
同時に、自分の家族以外はどうでもいい、という無関心な社会になりはしないか、と恐れた。単身者や身寄りのない家庭に交流がなければ、精神的に死んでいく。私はこの一年、大きな声では言えないが、自分が独身暮らしでないことに感謝し、ただひたすら孤独を恐れる生活を送っていた。
ところがこの数日で、孤独は、必ずしもデメリットではない、と思うようになり、孤独への概念が変わってきた。
今年初め、夫を亡くされた夫人がいる。私は、彼女を心配した。昨日ちょうど連絡してみると、久しぶりに聞く彼女の声は昔のままで、ありがたいことに芯があった。
なぜか?
それは、1つに彼女もまた信仰者であり、天で夫との再会を期待してること。そして、もう1つが、(ここが大切なのだが)彼女が孤独に馴れていた、という主の備えがあったからである。
彼女の夫は海外赴任者だった。それで中国やブラジルなど未開の地で、友達はもちろん、日本人に会うことすら難しい環境下にいた。だから、妻はいつも、一日の大半を家で過ごし、夫の帰りを待っていた。振り返ると、その長い期間が彼女の生活の基盤となって息づいている。
私はそれに気づくと、思わず主を賛美してしまった。主は素晴らしい、主の御名はほむべきかな。
私は、このような状況を知った時、自分が目を背けている孤独について、私自身もまた、強くならなくてはならない、ということを考えるようになった。やがて一人になることは、想像したくもない未来だが、その未来が明日かもしれない。あるいは、幸運にも私に孤独は無縁で、ずっと人に囲まれて一生を終えられるかもわからない。
だがいずれにせよ、死ぬときだけは、人間ひとりである。その日慌てずにしっかりと過ごせるよう、私には、孤独への訓練が必要だ…。老人になっても、生活を愛でることが出来る人になりたい。ちゃんとしていたい。孤独は、両手を広げて迎え入れられるものではないが、並走していくことができたらありがたい。
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」
(第一コリント10:13)
患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。(ローマ5:3-4)
このコロナ自粛生活は、来るべき自分の老後の備えかもしれない。
精神力を鍛錬するために、神様が与えた期間かもしれない。
友達と頻繁に会えなくても、静かに一人で過ごせる。
誰からも気にかけてもらえなくても、生活を愛でることができる。
孤独は内面を鍛える。私は大金持ちにも、著名人にも、活躍する人にもならなくていいから、ただ神を愛し、神を信じ、独りぼっちでいられる強さを持つ人になりたい。
あんまりひとりぼっちの人間は、しまいには病気になるもんだ。
(byスタインベック)
孤独はいいものだということをわれわれは認めざるをえない。
けれどもまた、孤独ははいいものだと話し合うことのできるだれか相手をもつことはひとつの喜びである。
(byバルザック)