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I was in NY
突如、仕事でNYを訪れた私。打合せは月曜のため、週末は同僚と互いにフリータイムをとった。
土曜の朝、そんなわけでやっとよく眠れて、週末が休みという日常に改めて感謝していると、5分後に電話が鳴った。
22歳年上の在住日本人ウッディ(仮称・クリスチャン)である。
「ウッディです。おはようございます」
私の方が年下なのに、彼はいつも丁寧語をきちんと使う。それで、
「17時に夕食に来て」
と言われた。
彼との関係は、後日記すとして、自宅は素敵な高級住宅街のアッパーイーストにある高層マンションのペントハウス側で、家からハドソン川の美しい景色が広がる。
9年ぶりだから、そんなお宅をすっかり忘れていた私は、中に入ると記憶がぐんぐん蘇り、ベランダに出ると夕日が沈むころだった、
それで、彼曰く「厳選した素材を使って作った」夕食をご馳走になった。
ワインは赤と白の二本を用意してくれていて、非常に美味だった。
「凄く美味しい!…」と、私が言ったら、
「レストランみたいとよく言われる」と彼。
「そうだね!レストランみたい!!」と、慌てて私。
すると、
「ううん、レストラン以上だと思う」と、彼。(笑)
確かに完璧な味だった。あとで台所に行くと、高級食材店シタレラの袋が無造作に床に落ちていたので、私は、ここで買ったなと推察した。
彼の家で、もう一つ感激したことがある。大事な家族の写真の隣に、うちの娘がいた。
他人の家に自分の家族写真があるのを発見するときほど、愛を感じることはない。
うわあ、ありがとう。
彼とNYで10年前に出会って、今日まで片手で数えるほどしか会ってないのに、私たちは聖書を信じているという土台だけで、家族のような仲になった。
実は、この出張が決まる前に、私は彼に書物を送るべく郵便の荷造りしていたら、発令が出たので、このことは天から来た、と即座に思った。
神様が、郵送せず、直接手渡ししなさいと、私をここに運んでくださったのだ。
Bad Moms
サンノゼ滞在5日目は、舞台をNYに移す。
ちなみにNY行の発令は、義父の亡くなった夜に受け、腰が抜けそうだった。
うちの夫は、「そんなふうにして君の会社はトップから命令が降りるの?」
と目を白黒させていたが、私は「初めて・・・」と呟くのが精いっぱいであった。
(※一応会社を援護しておくと、上は私の状況を全く知らなかったと推測する)
まあ、そんなわけで、この日は朝から夜まで1日かけてNYに移動する。
慎重な同僚が、早めにでましょう、というので従ったら、
6時40分には空港についてしまった。
おまけに飛行機が遅延し、出発は11時半です、と言われた瞬間、
同僚は「さすがに疲れた・・・」と、がっくり肩を落とした。
一方、私は
「いいじゃん、PCがあるんだから!仕事して待とう!」
と優等生なセリフを吐いたが、すぐ眠くなってソファで寝た。
ともかく、出張は睡眠不足との戦いで、私はサンノゼ滞在中に心が休まるときは
まったくなかった。
でも、明日は土日である。やっと休んでいいと言われる日だし、
そろそろ気を抜かないと、胃に穴が開く、と思った。
それで、機内では初めて映画を観た。
前置き長くなったが、それが「Bad Moms」である。
これは、ワーキングマザーが主役のコメディで、仕事と育児の両立の大変さを描写しながら、ワーキングマザーがもういいお母さんを演じるのは止めた、とクレイジーなママらとバカ騒ぎをするのだが、後半になって「完璧なママになれない」と主人公が叫ぶと、涙がでてしまい、あろうことか、ティッシュが手放せなくなってしまった。
実は、サンノゼに居たとき私は四六時中会社のことを考えていたせいで、あろうことか、子供のことを忘れた。信じがたい事実で、私は非常にショックだった。ついでにお祈りも忘れていた。朝起きたら、ともかく動かなくては、とネズミみたいだった。(実働はともかくとして)
同時に、世にある家庭を顧みないビジネスマンの心境も分かった。
しかしながら、私は家庭を第一としたいビジネスウーマンであり、
復職以来働き方を模索していたが、ぜったいにフルタイムは向いていないと考えさせられた。
それは、子供を忘れ、仕事(自分)に夢中になる性質があると気づいたからである。
「こんなお母さんでいいのかな?」
の映画のセリフは、まさに私に寄り添う言葉であり、機外にNYのキラキラした夜景が広がり始めると、「なんで私、ここにいるんだろう?」と、不思議な導きにまた涙を覚えた。
けれども、同時に聖書の言葉が浮かんできて、
“このことはわたしからきた”
を思い出すと、思い煩うのはもう止めるべき、と思った。
すべてをゆだね、上を見上げる決心が、後半になってやっとついた。
ニューアーク空港着。タクシーより安いウーバをここでも使って、市内へ向かう。価格は48ドル。
Cloud expo day3
7年前に出会ったシリコンバレーのS氏とエブリセンス真野社長がコンベンションセンターに来てくださった。
真野さんは挨拶を交わすとすぐ私にお悔みの言葉を述べてくださった。FBを見たことに驚くと共に、さすがビジネスエリートは掛ける言葉が違う、と思った。ありがとうございます。m(._.)m
そうして真野さんは柴田さんらと和気あいあい。お互い知り合いだとか。そうか、みんな、つながっているよね。
お昼は、待合せしたS氏とホテルのレストランでいただいた。
S氏は私の顔を見るなり、「お悔み申し上げます」と言い、出張に来るのはどんなに大変だったことでしょう、と私の労をねぎらうだけでなく、お香典をくださった。
米国でこの封筒を見たのは初めて。
S氏に会うのは、たったの2回目なのに、その気遣いに今までの疲れが流れるよう。
「身内が亡くなるのは、大変なことですよ。こんなときに出張だなんて、どれほど疲れるか。」
目頭が熱くなった。葬儀の後、初めて誰かに背中をさすってもらった気がした。
結局、ランチをお出しするつもりが、先方に出していただき、帰りは滞在先まで送っていただいた。
みんなで食べるはずが、最終日だったので、散り散りになってしまった。
23時帰宅。
最後の締めに相応しく、社長とはITから信仰の話まで多岐に交わした。感謝。
Cloud Expo day2
いくよくるよ、みたいな漫才師をみてるみたいで、二人の会話が可笑しかった。古いか…。
✳︎顔写真はおそらく載せても問題ないと思うけれど、許可を確認しなかったので、モザイク画で。
日本ではビーズクッションを置いてるイベント会場はない。
これは米国らしいな、と思った。パソコンしやすそうで、なにより肩こりに良さそう。
なにこれ、と思ったら、カフェタイムなどのフリーミールで並ぶ人たちだった。
そんなに食べたいんだ〜、とちょっと驚いた私も、なにがあるんだろうと少し並んでみたw
夕方、インキュベート施設のプラグアンドプレイ社へ。
お〜!(*´∇`*)
隣に名前書いていいかと聞いたら、投資家だけです、と言われた w
中にあった、マッサージマシーン。
ここにいると、何でもないが、日本企業でコレを置いてる会社はあまりなく。
そして夕飯は現地駐在員の方にお世話になり、こんなものを食べた。
ここにいると太りそう、と同僚が言った。
Cloud Expo in San Jose convention center・day1
今日も眠い。私は興奮と緊張のため、真夜中に寝ても仕事のことが頭から離れず、四時に目覚めてしまう。
ホテルの従業員から朝の定番挨拶をもらい、眠いと返す私に、大丈夫うまくいく、と励まされる始末である。
朝8時集合し、会場を設営する。展示会場とセッション会場は別なのだ。
サンフランシスコにあるダイソーのものを全て買い占めたとか。
ここで、ある程度の準備は終了したので、9時半開始のセッション会場に移動する。
11時半 、私のお手伝いするTクラウド研究会(Transparent Cloud Computing Consortium・会長は東大の江崎浩教授)の発表。インテックの中川さんのプレゼン。
ここに住んでいる日本人のビジネスマンに今回のエキスポの感想を聞くと、10年前は地べたに座る人が出てくるくらい活況で大変な混雑だった、と教わる。減少傾向にはそりゃそうだよね、と思う。
帰り、またもやウーバかと思いきや、最近出てきている競合に、コレがある。
違いは、ウーバだとチップ込みなのに、リフトはチップが必要とか。
リフト派、ウーバ派があるそうだけど、運転手は両方のステッカーを張る人もいる。
なるほど。
西海岸シリコンバレーでハロウィンパーティー
午前中訪れた会社でお昼近くになり、ハロウィンパーティーに混ぜていただいた。
*せっかくだから、どうぞと仮装グッズを貸してもらった真ん中の私。
12時半、サンフランシスコ行きの無料シャトルバスに乗り、サンノゼ空港からサンフランシスコ行きの電車に乗った。
初の電車はなかなか良かった。旅情気分になる。
が、私はともかく眠くて、終点まで爆睡。
その後、初のウーバ体験を済ませ、約束した人との打合せをしたら、あっという間に夕方。
近くで、IOTオープンハウスをやっていた。
私に馴染みがあったのは、ベビーモニター。使いづらそうだけど、着眼点は共感できる。
アメリカだからなのか、サンフランシスコの中心街で、まるで画廊のようにIoTグッズの展示がひっそり置いてあったのには驚いた。消費者とIT機器の距離が生活に近い。この感覚が日本にもあるといいな、と思った。(デジタル機器の浸透が早いので)
その後、夜になり、同僚と別れ、私は地下鉄で友人宅へ向かった。
彼女とは知人を通して、知りあったが、再会は7年ぶりで、会うのは数度目である。
寸前に彼女の家を調べると、宿泊先のサンノゼから遠く、
地元の人に聞いたら、車で1.5時間とかかるというので、やっぱり、会うのは難しそう、と電話口で言うと、
「でも、これが今生の別れになるかもしれないんだし、
貴方の声を聞いたら運転する気になったから、ともかくいらっしゃい」
と言う。
先週義父を亡くした私に、この言葉は今いちばん利く。ともかく、行こうと思えた。
初の地下鉄@サンフランシスコ。
浮浪者が寄ってきてやや怯むも、もたもたしている暇はなく、何かあったら逃げよう、
と思いながら切符を買う。
ところが、買い方がいまいち分からない。
困っていたら、浮浪者が助けてくれた。人は見かけで判断してはならぬ。
ありがとうと心からお礼を言い、さっさと改札口へ向かった。
私の隣にこの人が座っていて、世間話をしていたらウマが合った。
※私の友人ではない
別れ際に、ハロウィンが好きか、と聞かれたので、好きじゃないと答えたら、
それでも、といって手にしていたガイコツのハロウィングッズをくれた。私の娘へのお土産に、という。
ぜったい、うちの子いらないな、と思ったが、その好意をむげにもできず、
こちらは返すものがなにもないので“God bless you”と神さまの祝福を送った。
すると、あちらも“God bless you”といって、互いにクリスチャンだと知り、和やかに別れた。
そして、駅に友人が車で迎えに来てくれた。
私たちはあっという間にいろんな話をした。
自分が結婚したこととか、彼女の今の仕事や生き方、また大統領選の話まで。
彼女もまたクリスチャンで、神様のくださったご縁に感謝だった。
なお、帰りは車で40分ほどであり、私の一番心配していた点は無用であった。
まさしく、主の山に備えあり、を実感した瞬間であった。
義父の葬儀
話は前後するが、出張の4日前に、義父が享年82歳で亡くなった。
義父、つまり夫の父は40年以上難病を患い、9月に入院すると、あっという間に衰え、最後は入浴後に童謡の音楽を聞いて、眠るように天国へ行ってしまった。
私は嫁として気を配るべき立場ながら、夫が気丈で淡々と全てをこなすため、殆ど何もしなかった。
私は、夫がエライなぁ、と思ったんだ。
仕事して、合間で病院行って、また仕事して、子供の世話もして、睡眠時間も少なく、心身共に疲労困ぱいしてるはずなのに、私が声を掛けるといつも、大丈夫、と言う。
それに対し、私などは病院にいくだけで具合が悪くなり、死の知らせで寝つけず、クタクタになってしまった。
無宗教の家族葬では、娘が絵を描いた。(頼んでもないのに、勝手に)
教会の絵と、おじいちゃんと自分の絵と、おじいちゃんいつもありがとう、の手紙。
誰かが仕組んだんじゃないかと思うほど、完璧なそれは、多くの参列者を慰めた。
義母もたいそう喜んで、これから焼く棺の中に、おじいちゃんへの手紙を入れた。
義父のリハビリしていた病院の院長夫妻もわざわざ足を運んでくださった。
お義父さんは、私には計り知れない人生だったが、祝福された最期を見、これでいいのだ、と思わされた。
人の死は、私たちの人生がつかぬ間だと言うことを思い出させてくれる。
いつその時がきても慌てないように、真摯に生きたいと思った。
〈バッハのカンタータより〉
わたしは、満ち足りている。
わたしは、きょうにも喜んでこの世を去ろう。
わたしは、満ち足りている。
たとえこの世と別れるときが今であっても、わたしは喜んでいよう。
わたしは満ち足りていると。
別れを告げよう、この世に。
わたしは、喜んで、主を待ち望む。
* * *
こうやって、幕を閉じられたら本当に残すことは何もない。