人には、神が定めた、いくつもの人生の山がある。
大人になって私が乗り越えた「呪い」も、確かに一つの大きな山だった。
私は小学生のころ、日曜学校に通い始めてイエス・キリストを知った。
紆余曲折を経て信仰を持ったが、その後の道のりは決して平坦ではなかった。
若くしてキリストを知ったことが、私を何度も何度も苦しめた。
聖書に書かれている、この世の真理や、清いこと。
好き勝手して、老年期に神を信じるならいいけど、私は先に知ったから好き勝手できなかった。
今思うとそれは神の守りだとわかるが、当時は人生を好きに生きる人が羨ましかった。
「いっそ神を捨ててしまおう」と試みたことは数知れず。
けれど、そのたびに神は不思議な出来事を起こした。
人に話せば「偶然だね」と片づけられるようなことが、私には繰り返し起こった。
――神は私をなぜだか特別に愛している。神が私を手放さない。
降参して、私は今に至っている。
若い頃の私にとって、信仰とは「我慢の連続」であり、
「己を捨てる」戦いの連続であった。
当時、私の教会では合言葉のような言葉が飛び交った。
「頑張らなくていい」
「自分のことはどうでもいいよ。一番大事なのは神様」
その言葉を胸に抱えて、学生時代は特に辛く、また20代も辛かった。
持て余す、若いエネルギーはどうでもよくて、頑張らなくていいとは?
何をすれば神に許され、正解だと言われるのかが全く分からなかった。
日常はこの世であふれていた。修道女ならいざ知らず、
一般人の私は家に帰って祈っても時間が余ってしまい、
週末や、暇な時間を何に費やせばいいか、全く分からなくて悩んで苦しんだ。
結婚が、私に大きな変化をもたらした。
呪いからの解放だった。
夫との会話を通して、私は生きづらさを抱えた人であり、
「若い頃に自己理解を深めてこなかった」という大きな問題に気がついた。
なんのために 生まれて なにをして 生きるのか?
こたえられない なんて そんなのは いやだ!
なにが君の しあわせ? なにをして よろこぶ?
わからないまま おわる そんなのは いやだ!
私はやなせたかし氏の、アンパンマンの歌が大好き。
なにが君の幸せ?何をして喜ぶ?わからないまま、終わる。そんな人生はイヤである。
私は、主にあって、自分を大事にしていい。自分を上機嫌にさせていい。
そう知ったのは、だいぶ前だったけど、まだまだ、アラフィフの自分探しの旅は続いている。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、
あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
(第一コリント6:19)
力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。
箴言4:23
聖書をちゃんと理解している人には、私のような呪いと思う。
でももしかしたら、読者の中には心の呪縛がある人もいるかもしれない。
そう思って、今日は書いてみた。
ああ、どうか、主にあって、皆さん、心と身体を大切に、大切に。
私たちは一人一人がユニークな存在なのだから…!
by桜子