たとえば、「私の人生こんなはずじゃなかった」とか
「あのとき右でなく左を選んでいたら」などといって、
ふと振り返るクセ、あなたにはないだろうか。
後悔はしていない。
でも、決着ついた過去に戻って、あの選択はあっていたのか考える。
意味のないことをついしてしまう、そういうこと。
学生の頃、自己実現を目指していた私は、あるときから、
「自分ではなく神様のために生きていく人生」という生き方を、
好むと好まざるとにかかわらず、選ばされた。
強制された物言いをするのは、不本意だったからである。
私は物心ついたときから、神様の存在について考える土壌にいた。
幼い頃は素直に信じていたが、思春期になるにつれて、
毎日曜日に日曜学校へ行かなくてはならないことや、
あれしちゃいけない、これしちゃいけないが難しすぎて
(誰かのことを羨むのも殺人も同じ罪なので、しょっちゅう謝ってばかりで罪の意識に苛まれて苦しかった)
そして、神様なんて目に見えないものは信じられないとか
日曜日に教会へ行くより遊びたい等という負の要素をあるとき突き抜けて
神様を信じるようになってしまった。
これは、信じようと決断したのではなく、知ってしまったという感覚に近い。
だから逃げ道がない。
かくして、信じるようになってしばらくしてから、
「信じる人生は自己犠牲」という、信仰の本質を知ることとなる。
この瞬間は相当なショックを受けた。嫌だったからである。
でも、戻れなかった。
信じることは、自分の損得や計算ではなかった。
結局色々なことがあって10数年が過ぎ、
今もまだおぼろげながら信仰を保っている。
そんな私にある晩、こんなことを言った人がいた。
「 どうして「○○が辛い」とか言うのかわからない。好きなことやってて、
自分が選んだ人生だよね?嫌なら辞めればいい。人生は自己責任だよ」
私は先に述べたとおり、信仰を持って以来、自分で選んだ人生じゃない、
と思っていた。だから、この言葉には大いに戸惑った。
「え?だって、自分で選んだ人生じゃないもん」
がしかし。自分で選んだ人生じゃないっていったいどういうことだろう。