雪あけの今日。
歩かせるならどこかな?と考えて、NHKのスタジオパーク見学へ出かけた。
テレビは子どもの目によくないが、
ちょっとだけなら、これもよし。
日頃、iPadを操作しているわが娘。
ペンでタッチも慣れた様子でサクサク触っていた。
今日、かなり久しぶりに実母が娘の子守に来てくれた。
来る前、
⚫︎着替えたくない
⚫︎お外いきたくない
と言ってたわが子は実母が
「モモちゃん(近所の犬)に会いにいこっか⁈」と言われたら、行こう‼︎と着替え、バイバーイと出かけていった。
・・・なんなんだ
最近は着替えを嫌がるため、私もラクだからと自宅で過ごしていた。
だから、着替えて、出かけてくれて、
すごく、ホッとした。
娘が出かけ、私はエクササイズへ。
踊りながら、しっかり身体を動かして日頃の疲れを吹き飛ばそうとした。
そうして、踊りながら、最近実母を頼ってなかったので、もっと来てもらった方が、娘もハッスルするのかなと考えた。
運動後。
いつもなら飛んで帰るが、今日は電話する気になれず、催促の電話もないのでカフェでぼーっと贅沢をする。
持参した本をひらく。
聖書からみる子育ての本で、いま私が大事に少しづつ読み進めているアメリカの書物だ。
今日は以下の箇所を読んだ。
私の友人にひとりの陶芸家がいます。
彼が教えてくれたのは、粘土の質によって、おのずと作ることのできる器が決まってくるということでした。
粘土は、作り手の手の動きによってどうにでもできるというものでは無いのです。粘土自体が作り手に応答するのです。ある粘土は弾力性があり柔らかですが、ある粘土はもろく、形になりにくいのです。
彼の器作りの話は、子育ての話に似ています。親として子供に出来る限り良い環境を与えるよう配慮しなければなりませんが、子育てを単純作業のように考えてはならないのです。
粘土は、形作る手の動きに応答します。
形にしようとする手を拒絶することもありますし、受け入れることもあります。
最近、同じような生活の繰り返しだった気がして、子の成長に合わせた工夫をしようかなと思わされた。
よおし、頑張ろう!
と、リフレッシュして帰途へ向かう。
撮影後、代官山に戻って公園へ。
ちょうど梨花がベビー連れで車から走って出てきたので、気づかないフリをして、娘と遠くへいく。
ところが、すこし目を離したら、
娘はいない。
周囲を見渡しても、その姿はなく、
呼べど叫べど、娘の返事はなし。
私は大慌てで、公園にいる子どもや路上シンガーおじさんに聞き回ったが、収穫はなかった。
どうしよう・・・夫に電話すべきかと右往左往していたら、左からスケボー持った男の子が、女の子はここだよ!!と息をきらして駆け寄ってきた。
見ると、娘は私から遠く離れた場所でちょこんとこちらを見つめていた。
「どうしたの⁉︎」
と私が叫ぶや、男の子は、
「僕のスケボーに乗りたいのかな?僕について来ちゃったんだよ」
と説明。
じぇじぇ。
もとい、げげ。
これは初めてだ。
ついに、私を忘れて興味ある方へ行くようになってしまった。
娘は男の子の後を追い、暫く遊んだ。
そうして彼が帰る時間になり、さよならと告げたら、
一度は去った彼が、ダダダと戻ってきて、べべを指して、耳元で囁いた。
「この子、もう人を引き込む力が身についてます。」
そうして、またダダダと去って行った。
それって、いいこと〜⁈
と、私が大声で聞いたら、
はい!
と、去っていった。
小学一年と言った男の子の背中を見つめながら、そんなことを言う彼の語彙力に舌を巻いた。
子どもの言葉には何歳になっても驚かせられるようだ。
今日の礼拝のメッセージは、久しぶりに私の胸を打った。
言い訳になるが、ふだんは子連れで福音メッセージを聞くので、集中して話が聞けず、全容を掴みがたい。
だけど、今日は、私が弱くなってるせいか、或いは娘がお友達と仲良く遊んでいたせいか、話が耳に入ってきた。
お昼時。
鉄柱にぶらさがってケタケタ笑う娘を見て傍にいたクリスチャンの女性が言った。
「べべちゃん(の存在)から、慰められるでしょ?」
そうして、彼女は私に冊子をくれた。
その冊子は、彼女の涙跡付きで(読んで涙がついた)申し訳ないと言われたが、先週の私の様子からくださったようで嬉しかった。
「辛いとき哀しいとき、
必要な慰め手は必ず与えられる」
と、以前クリスチャン友達のキヨちゃんは言っていた。
きっと、これがそれなんだろうな、
と思った。
夜。
食事前、主人が祈ろうとしたら、娘がストップの仕草をして叫んだ。
「べべが、祈るの!!」
いいよ、と主人が言ったら、
きつく目を閉じ、眉間にシワを寄せて、両手を合わせて喋りはじめた。
「イエスさま・・・
さっちゃんのこと、守ってください。
キヨちゃんのこと、守ってくらはい。
ママのこと、守ってくらはい。
パパのお仕事、ゴニョゴニョ・
・・してくらはい。
ママのこと、宜しくお願いします。
パパのこと、宜しくお願いします。
キヨちゃんのこと、宜しくお願いします。
さっちゃんのこと、宜しくお願いします。
さっちゃんが無事におうちに帰れますように。
ゴニョゴニョ・・・
イエスさまのゴニョゴニョ、アーメン」
滑舌良く長く喋る祈りに、終わった途端、夫と目を合わせて瞬きをした。
夫は怖いなあと顔を歪め(たように見えた)、
「二歳児が言うことかなあ?
宜しくお願いしますとか、言う?
日本語としても正しいよ!?」
と言って、録画しておけばよかった、
と悔やんだ。
だが、祈りは撮るものじゃない。
だけど、撮っておきたい気持ちは私も同じ。
娘の祈りを見て、これから彼女がたくさん私のことを支え、祈ってくれるだろうと思うと涙がじんわり込み上げてくる思いだった。
世話しているつもりが、いつの間にか祈りを通して世話されるのだろうと思うと、娘を強く抱きしめたくなった。