わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。
あなたの若さは、わしのように、新しくなる。 (詩篇103篇1-5)
昨日5月30日の日曜日、私の周辺は俄かに騒がしかった。
まず、友達のご主人(昨年うちのクリスマス会に来られた)が、
あるデビューを果たした。彼にとって大きな一歩だったようである。
次に、わが夜では思いがけず、ある食事会が行われた。
これは、私がイギリスでケーキの土台を買ったことに端を発し、
ふと思いついて、たぶん無理だろうな、と思いつつ声をかけたら、
都合がついた、というものであった。
実は、我が家は5月末を迎えるにあたって、特に両親にとって、
非常に厳しい局面を迎えていた。そのため、食事会の急な発起人として、
私はカレーとケーキ、という簡単メニューを決めた。
そして、母の発案でお招きした方についても、
良く考えてみれば、5月末で定年という節目を迎えるはずであり、
(後日、正しかったと判明)以前から食事をしたかったのだが、
一度もうちにいらしたことはない方だった。
そんな我が家と、そのご一家が、急遽ともに食事をする。
おそらく、両家にとって非常に多忙状態だったに違いなかった。
思いつきは、えてして、(神様の目から見て)良いか、悪いか、と
悩むものである。
私も自分のやるべきことで頭がいっぱいで、これは実行に移すことが本当に良いか、
すこし、逡巡していた。
だが、木曜日だったか、聖書にはこんな言葉があることを知った。
主を喜ぶことはあなたがたの力である。(ネヘミヤ8:10)
幸い、両家ともクリスチャン家族で、私たちは共に集うことで、
きっと神様の素晴らしさを味わうだろう、と思った。
ならば、きっと、共に集うことは私たしを元気づける源になるだろう。
さらに、金曜の夜、私は思いがけないことに、ある現金を
とある方から頂いた。
ビックリした。
その人には論理があったようだが、私から見れば、別に私にくださらなくても
よかったはずなのに、その方の無私無欲なご性格に感動するとともに、
これは食事の準備金だ、とありがたく、使わせて頂くことにした。
ついでに。話はこれだけでは終わらない。
おなじく金曜の夜、家に帰ってみると、誰もいない家の玄関先に、
じゃがいも、玉ねぎ、フルーツの入った紙袋が置いてあるではないか。
みると、近所の方からおすそ分けです、とメモが入っていた。
紙袋が、近所の人からおすそ分け、と言って届いていた。
嬉しかった。どうみても、日曜はエンジョイしなさい、カレーでオッケーだよ!
と、神様が(近所の方を通して)恵んでくださった、としか思えなかった。
(※実はメニューもホントにカレーでいいか心配だった)
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、
生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:38)