人生はオリンピック(織田信成の靴紐に学ぶ)

ここ2週間ばかり、熱や風邪で体調を崩している私。

身体が弱ると、気力も衰えてくるわけで、
近頃、読んだ本のタイトルは、
「なんのために生きているんだろう?」(文・こんのひとみ)
「きみが選んだ死刑のスイッチ」(著・森達也)。

私、三十過ぎて、一社会人として働いて、
聖書にも出会った(=人生の真理に触れた)というのに、

いまだに、

なんのために生きているんだろう、とか
人はしょせん死ぬのに何かを目指すのはナゼだろう、などと

考えても仕方がない(=命を断ち切れるわけでもない)
ことに思いを巡らせては、生きる希望が見い出せないでいる。

こういう悩みは、せいぜい思春期で終えるべきものであって、
私はとうの昔に考え尽くしたはずだったが、内館牧子著の
「エイジハラスメント」のせいで、再び疑問の芽が出てしまった。

このフィクションは、30代の独身女性が、いたるところで男性から
“異性としてみた場合アナタは無価値だよ”と揶揄されることで
やたらに自己卑下する物語である。

「この主人公の考え方って、異常・・・」

と、他人事で読んでいたつもりが、気がついたらこの価値観に毒された。
やはり、読むべき本はよく選ぶべきだが、時すでに遅し。
私は同じように独身である自分が、
老いてくこの先生きて、何の意味があるのか、と思った。
それで、話は冒頭に戻る。

悩む自分は、恵まれているからだ
(=生活に余裕がある、明日のパンに悩んでいないから悩める)
と反省した。

が、悩んでしまうものは仕方ないので
「なんのために生きているんだろう?」(文・こんのひとみ)を開いたところ、
“生きるというのはそれだけでいい”といのちの電話番号が紹介されていた。

なるほど、たしかに、

と思ったけど、

今日、私は気がついた。内心はそう思っていないことを。

とくに、自分に関しては何かを達成しないと生きる価値がない、
と思い込んで、自分自身を見つめていた。

それは、フィギュアスケート男子の部で織田信成が演技を中断したときだった。
靴紐が切れて、演技のやり直しを命ぜられたとき、私は思った。
メダル獲得はもう無理だから滑る意味はない・・・。

だが、織田は時間以内に靴紐を縛り直して、演技を再開した。

周りの観客は、アクシデントを乗り越えて、力強い演技をした織田に感動し、
私も感動した。

そして、

滑る意味はない、と思ったくせに、もしも自分が織田だったら、
同じように必死に演技をするだろうと思った。
そのとき、メダルのことなんかより、ただ、ただ、立ち上がるのみである。

それで私はハッとした。

人生も同じなのではないだろうかと。

やりつくす、ということが大切だし、
どんな場面においても、全力を尽くすという心は、
人として失ってはならないのではないだろうか?

してみると、私はさながら、
神様から見てオリンピック選手のフィギュアスケーターで、
人生はリンク場だと。

順位が何位であろうとも、
私は今の時代に生き、存在し、スケートリンクで躍っている。
私がすべきことは、与えられた時間の中で、踊りつづけることである。

観客席に神様がいる。

そうして一生懸命に生き抜いたら、織田が拍手喝采で迎えられたように、
私も神様から拍手喝采で迎えられるのではないだろうか。

そして、それが天国という場所ではないだろうか。

私たちは死の寸前まで、生き抜くという姿勢を試されているのである。
生き抜かなくてはなるまい。