2021年の幕開けは死と共に

新しい一年が始まり、お正月の三が日は、空がよく晴れていた。 「お正月らしいね」と、私は夫に話しかけながら、近所の慣れた道を一緒に歩いた。 今年は、日本の誰もが海外に行かず、静かに過ごす、稀有な年末年始。 世界の大波乱をみればみるほど、空がまぶしく、自然の美しさは際立って見える。 青い空だけは、昨日も、今日も、いつまでも同じ。 空を見るたびいつも思い出すことは、神様は、善人にも悪人にも等しく天の恵みを降り注ぐ、という事実。 そんなことを考える一方で、私の心は鬱屈とした思いを抱えていた。 あんなに友と祈りあって神様を身近に感じていたのに、年末になって祈る機会が減ったせいか、あるいは肉体の疲れか、どうともいえない不満が、山ほどこみあげてきて、私の心は最悪であった。 だが、そんな私を起こすかのように、年明けに、目を覚ましなさい、という連絡がいくつも入ってきた。ポツリ、ポツリ、と訃報の知らせを受けたのだ。 ・去年入院し、いつ亡くなっても不思議ではない、と言っていた、友達のお父さん。 ・私の結婚式で、来客用のクッキーを焼いてくださった井之頭公園のT夫人。 ・バンコクで知り合って以来、家族ぐるみで仲良くしてくれたMさん。 人の死は、私たちの生き方を問うものである。 死に直面すると、すべての不満が、吹っ飛んでいく。 人間だれしも死ぬ、と分かっているのに、誰もが死を、それはまだもう少し先の話、と捉えている。だから、急にそれが目の前に飛んでくると、死が輪郭を帯びて私たちに迫ってくる。 “あなたは、今を大事に生きてますか?” 故人との思い出は、走馬灯のように蘇る。残された私たちが、故人を失って最も苦しくなるのは、“あの頃には、もう二度と戻れない”、と認識した瞬間だ。 真っ逆さまに、奈落の底に落ちる。共に過ごした時間を、一緒に笑い、語り合う相手は、もう隣にいない。喉元をかきむしられるような、深い痛みがそこにある。 私にとって家族ぐるみで仲良くしてくれたMさんの死は特に、私にとって辛かった。 知らせを受けた夜、ベッドで寝られるつもりだったが、入ると彼の顔や声が聞こえてきて、瞼がじんわりと重たくなってくる。 仕方がないので、リビングにいる夫に頼み、背中をさすってもらい、しばらくそばにいてもらう。 その夜、夢の中で誰かが出てきて、私は、「助けて」、と一生懸命に声を出すが、声が出ない。 声を出さないと死ぬ、と思って、絞り出すように「助けて、、、」と言ったとたん、夫が私の手を握り締めた。 後で聞くと、なんていったかわからないけど、呻いていた、という。 そこにはもう、年末の不満はどこへやら、夫の存在に、ただ感謝であった。 私はこの人を今、神さまにとられたら本当に困る。 夫に暮れの態度をいちいち、謝ることなどしなかったが、 少なくとも、神さまが年末の態度は誤りだと私に教えていた。 死は勝利に飲み込まれた。 わたし(=神さま)の恵みはあなたに充分である。(聖書) 今年も今をしっかり生きたい。    

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