「そんなの、決まってんじゃん。俺の人生は俺のものだろ」と、
100人中99人は言うだろう。
私もずっとそう思ってきて、10数年前、
聖書に「あなたはわたしのもの」と書いてあるのを読んだ。
そして、人生は私のものではなく神様のものなのだ、と知るようになった。
以来、人生の主役の座を神様に渡さなくてはと思いつつも、
99.99%椅子に座るのは自分という日々を繰り返している。
(※ちなみに宗教団体には一切属してはいない)
まあ、そういうわけで、私はその神様の存在を信じたときから
「過去に起こった全ての責任者は私ではなくて、神様のせい」
と思って生きるようになった。
しかし、先日ふと違うかも、と思った。それはこんなことに端を発する。
「毎日なんで仕事とか辛いとかいうのか分からないな。
そもそも『私は一切愚痴りません』なんて宣言、どうして言うのさ?
好きなことやってて、自分が選んだ人生だろ?嫌なら辞めたらいい。
人生は自己責任さ」
というわけで、今日は人生は誰のもの?をテーマに考える。
たとえば、私が結婚して授かった子どもが障害をもっていたとする。
これは誰のせいなのか?これは神様のせいである。
聖書では次の記述がある。
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イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。
この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に
現われるためです。(ヨハネの福音書 9章1-3節)
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力の及ばない世界があって、このような大きなことから小さなことまで
全て、神様がその人にもたらしたものであって、自分に起こる全現象は、
「神様のせいだ」と思ってきた。
自分にとって好ましい良いことも、好ましくない嫌だったことも、
その背後には神様がおられる、そう思って生きてきた。
しかしこれは、たまに、そうすると、
「うまくいかなくても、神様のせい。」
「会社が辛くても、神様のせい。」
いつもどこかでこの発想が私につきまとう。
これはとても楽な生き方で、正しい考え方なのかもしれないけれど、
この考え方ゆえに、どこかでいつも不遜ながら神様への小さな不満が
溜まってきてしまう。
うまくいかなければいかないほど呟いてしまう仕組みが、
いつも私を取り巻いていた。
「もっと楽な人生を送りたかった!」
「こんなはずじゃなかったのに!」
「神様を信じたせいでこんなことになってしまった!」
これらの不平不満を一気に解決する答えを今夜見つけた。
大事なことを忘れていたのである。
神様を信じることを選んだ人生、神様が私をそのようにしたということ含めて、
それは私がacceptして、受け入れて、選んだ、決断の人生なのである。
だから、その上で何かあったとしても、それを信じて進もうと決めた、
私のせい、なのである。