神様はいますか(2)

宣教師ベック氏の話を先週、聞いた。

毎日曜、礼拝という場で色んな方の口を通して聖書のお話を伺っているが、
「人間は・・・心がかき乱されることでいっぱいです。by聖書」の通り、
休日は日頃の疲れと心配事が頭の中を占め、聞く準備が出来ていないことが多い。

しかしその日は休暇日で、睡眠も十分とっていたので頭が冴えていた。
そうして改めて耳を傾けていたら、へえーっ、と思うことばかり聞いた。

何度も似た話を聞いているはずなのに、やっぱり普段はこの世の雑事で頭がいっぱいらしい。
まるで初めて聞くかのような衝撃だ。

たとえば、

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。
 そこではむしとさびで、傷物になり、また盗人が穴を開けて盗みます」

「自分の宝は天にたくわえなさい・・・あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」

「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、
 また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。
 いのちは食べ物より大切なもの、からだは着物より大切なものではありませんか」

・・・そうなんだけど。

将来の備えを、と人は言うし、『人は見た目が9割』がベストセラーな世の中で、
ほんとに?ほんとに?と、思わず聞きたくなってしまう。

そうなると、自分が神様を信じていることが実に不思議に思える。
なぜ私は信じているのだ?

ここで話を脱線して、信じることが徳か損か、という話にいこう。

・・・告白するのは若干怖いが、私は「損」だと思っている。
その理由は後日触れる。がしかし、それは間違いらしい。というのは、同じクリスチャンのパウロという人はこんな告白をしている。

「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。
 私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」

多分、自分はマリー=アントワネットなのだ。
ケーキとパンが当たり前すぎて、いかに恵まれているか、今ある素晴らしさが分かっていないのだろう。

で、話を戻して、だと私の場合思っているにもかかわらず、じゃあ信じるのをやめましょ、と言われたら、なんとそれが出来ない。仮にしたかったとしても!

それは、第1に信仰は損得ではないこと、第2に信じるということは理屈ではないからだ。
鈴木光一著の『リング』『らせん』に似ている。
あれは、一度知ってしまったら知らなかったことに出来ないという筋の物語だが、それと同様、信じるというのは、知ってしまった事実であり、もう戻れない。ある種のホラーだ。

しかし、この場に近づくことで、私は過去、人生に関する多くの疑問について答えてもらった。

すなわち、

 ・私はいったい何のために生きているのか。
 ・私の人生の目的は何だろう。
 ・どうして神は、私をつくられたのか。
 ・私は自分の人生で何をすればよいのだろう。

・・・明日からまた会社だ。今日はこれにて m(__)m