月曜日の話。
午前中は外苑前でベビーと私の体操クラス。
講座を終えると、猛ダッシュでベビーカーを押して帰宅。
というのも、今日はミズフランシスが引越していく。
何時頃出て行くのかと昨夜尋ねたら、分からないといったから。
ちょうど帰ってきたら、ミズフランシスのベビーの歩行器が、
引越し業者によって、運ばれている所だったので、思わず笑った。
そして、玄関に入った瞬間、
ちょうどミズフランシスがベビーカーを押して出てきた。
「あ、Mちゃん!」
実は書けばきりがないくらい、Mちゃんとは連絡し合っていないのに、
バッタリと会うことが多かった。
実はこの数日前にも、代官山ピーコックでお買い物中に会い、
以前はお散歩中に四つ角でぶつかりかけた。
同じマンションだから、ありがちだ、と思うかもしれないけれど、
なかなかどうして、同じマンションといえど、
連続で会う人というのはそうはいないものである。
夫は「縁があるんだねえ~」と言っていたが、
私は彼女と偶然会うたびに、(神様が仕組んだんだなあ~)と思っていた。
そういう思いをしたためて、この日の朝は
彼女の玄関先に、お別れプレゼントを吊るして外出したが、
こうしてまた偶然に会えて、うれしかった。
「ねえねえ、凄いと思わない!?」
「いま、帰ってきたの!?」
「うん、そう!」
「今から(夫の)サンドイッチ、買いに行くの」
「じゃあ、一緒にいく~」
と、私たちは最後のベビー散歩に出かけようとしたが、
結局、天候が悪化し、雨が降りそうだったので、
すぐ近くのレストランで、お茶をした。
私は、さっきバッタリ会ったことは凄くないか、
と、また繰り返して、神様の話になった。
聖書の中には、
人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。
箴言14:12
という言葉から、いろんな偶然性--たとえば、それを偶然と呼べば、いくらでもそう呼べるけれど、もしも、それが必然だと捉えるならば一本の道が見えてこないか、ということなど話した。
別に彼女にお仕着せはしたくなかったので、なるべく淡々と話すようにしたが、
うんうん、と彼女は終始、笑顔で頷いてくれていた。
そして、私たちはお互いのベビーがぐずり始めてきたのでお店を出て、
マンションへと戻った。
本当に出て行くときにはうちに挨拶に来る、
と彼女が言ってくれたので、しばし、さよならをした。
そして、待っている間、
彼女が夫へのサンドイッチを買えなかったことを思いだし、
お腹がすくだろうと、バゲットでチキンサンドを思いついた。
だが、いかにもオバサンもどきで、余計なお世話かしら、と悩んだが、
きっと夫なら賛同してくれるに違いない、と思いなおし、
思い切って作ってみたら、トースターがチン!と鳴ると同時に玄関ベルが鳴った。
「ちょうど良かった。ちょっと待ってて!」
と言って、チキンサンド3個を慌てて袋に入れ、
彼女に押しつけ、一緒に階下へ降りて行く。
ミズフランシスの夫は今まで見たことのない笑顔で、
まるでサーフィンに行くかのような軽快なファッションで、
うれしそうに口笛を吹いて(いたようにみえた)車を廻した。
私はべべを抱っこして、去っていく車に、ばいばーい、と手を振った。
べべにとって、初めての友との別れである。
きっと、ぜんぜん意味はわかっていないだろう。
だが、私は急激に寂しくなって、その後、彼女の部屋に行った。
一緒にお茶をしていた時はどうということはなかったのに、いざ去ってしまうと、もう2人でマンション内を行き来することはないんだなあ、と
二度と戻らない日々に涙しそうになった。
そして、
夫との暮らしだって、いつ何時、終えるか分からないと思うと、
いまのありきたりの日常をもっと味わおうと思った。
彼女の家の前で、ドアノブを回した。
当たり前だが、鍵がかかっていた。
ついでに、玄関マットが置きっぱなしになっていた。
記念に貰おうかと思ったが、それは未練がましいので、やめておいた。
The Lord gave and the Lord has taken away; may the name of the Lord be praised. (Job 1: 21)
主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな。(ヨブ1:21)
すべてのことはその時には分からなくても、また意味があるのだ。